8月9日。長崎原爆忌。そして美浜原発3号機配管破断事故の日だ。
その日のことは生々しい。「タービン建屋 配管が破断し、高温の蒸気と熱水が建屋に充満。4人死亡、7人重軽傷。全員大阪に本社のある木内計測社員」。5人死亡ふくむ11名死傷のする大事故。
2004年8月9日 17:00 私と、渡辺三郎元県議 事故の報を議会で聞き、原子力安全対策課へ事故資料をもらいに駆け付ける。日本共産党国会議員団に調査要請の電話。
8月10日 10:00 県議会全員協議会で西川知事が事故について説明。私は「稼働中の原発もふくめて安全総点検を。プルサーマル計画は白紙に」と要求した。
10:40 国会調査団 福井県入り。吉井、塩川衆議院議員、木島前議員ら。
8月11日 上京し、経済産業省原子力安全保安院に対し、吉井衆議院議員、木島前議員、上原・山本両敦賀市議らと要請活動。
8月12日 福井県、福井労働局へ申し入れ活動。
西川一誠知事(当時)12日、藤洋作関電社長(当時)を県庁に呼び、「県内のあらゆる原発を止めて点検してほしい」と要請。
8月13日 県議会として事故調査。関電から説明、事故現場視察。下請け作業員の命を奪った高温蒸気は水となり、辺りを濡らしていた。合掌。
関電は「稼働中の原発8基を停止して点検する」と表明。
8月14日 事故犠牲者4名の「お別れ会」に参列。共産党からは私と敦賀の上原市議(当時)。・・・・・
事故の第一報がはいった時、たまたま県議会控室で渡辺三郎元県議と話していた。すぐ日本共産党国会議員団に調査を依頼し、翌日には調査団が入った。翌々日には、わたしたちが原子力安全保安院、厚生労働省に出向いて、要請をおこなった。日本共産党国会議員団の「国民本位のスピード」を実感した。
8月14日に開かれた犠牲者のお別れ会にも参列した。同僚の男たちの号泣は忘れない。
なんの落ち度もなく仕事をしていた下請け作業員。
事故の本質は、関西電力の「利益優先」体質。以前は、原発の運転を停止してから作業していた内容を、「定期検査期間を短縮し、儲けを増やす」ために、運転しながらおこなわせた。
10日の県議会で関電全原発停止と総点検を求めたのは私だけだった。西川知事(当時)はその後、県議会の廊下で私に「停めたでしょ」と声をかけてきた。
事故は風化しているのだろうか。
いま、関西電力は巨額の森山マネーなどに厳しい国民の批判にさらされながらも、40年超の老朽化原発の再稼働準備をすすめている。高浜1,2号機、そしてこの美浜3号機だ。
関西電力の利益優先体質は変わっていないのではないか。
亡くなった人たちの警告を忘れてはならない。
災害は忘れたころにやってくる。コロナ禍、感染症蔓延時の事故となれば避難活動もいっそう困難に見舞われる。大地震などの自然災害と違い、福島のような原発事故災害は人間の手で止めることができる。
それができるのは私たち福井県民なのです。チカラをあわせましょう!
5名の命を奪った、運転開始以来一度も点検されていなかった配管破断 写真は福井新聞より
8月13日の県議会での事故現場調査。
わたしは、案内の社員にどのあたりで亡くなられたのですか? とたずね、合掌した。当時の奈良県議(現越前市長)もつづいた。
また、献花台もないのですか、と苦言を呈した。
たぶんこの写真の献花はその後備えられたのだろう。また、橋のたもとにも献花場所がもうけられたと記憶する。
その後の、県議会委員会で地元の自民党県議が「亡くなられた方々のお別れ会に、なぜ県幹部はでなかったのか」と質問したことがある。たしか、「お別れ会のことは知らなかった」云々という答弁だったと記憶する。質問した自民党議員は「新聞などでも報道されていた」と憮然とされていた。
福井県の原子力行政のもとでの犠牲者、という認識があればこのような答弁はできないはずだ、とやり取りを聞きながら思った。
当時、関電の原子力事業本部内では「あれは原子力の事故ではない。機械屋の事故だ」などと云われている、との情報が入った。怒りをこめて議場で糾弾した。
あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。