今日も朝から大阪の美術館巡りをします。
駅へ向かう途中、メキシコマンネンクサがようやく咲き始めています。
ナガミヒナゲシはもう終わりですね。
風でかなり散ったとおもっていたタニウツギ。どんどん花の数を増やしています。
日本橋駅で下車して大阪メトロ堺筋線で北浜駅まで。
地上に出ると難波橋。
橋のたもとにはライオン像。
ライオン像と一緒に大阪市中央公会堂、大阪市立東洋陶磁美術館。
ちょっと今日は寄り道をします。
大阪取引所と五代友厚像。
大阪俵物会所跡。
江戸時代には金・銀・銅などの重要な生産物については、幕府の厳しい
統制下におかれ、会所という売買センターで特定の商人しか扱うことができ
なかった。
俵物と呼ばれるふかのひれや干なまこ、干あわびなどは、当時の日本の重
要な特産物で、長崎から中国などにむけて輸出されていた。この俵物は輸出
入の代価に用いられることもあったので、延亨元年(1744)に大阪に会所
が設けられ、ここで売買が行われた。会所ははじめ備後町にあったが、安永
6年(1777)にこの地に移り、明治まで続いた。
と書かれています。
こんな所に南都銀行。
変わったビルがいくつも。
大阪慶應義塾跡記念碑。慶応義塾の公式HPによると、
福澤諭吉が築地鉄砲洲に蘭学塾を開いてから15年。世は幕末から明治に移り、慶應義塾は洋学を志す者がこぞって入学を望むほどの人気であった。そこで慶應義塾は、東京に出て来られない人々の意欲に応えるため、地方に分校を設置する。その第1号が明治6(1873)年11月に開設した大阪慶應義塾であった。
英文学、算術、訳書の3学科を置き、荘田平五郎、名児耶六都(なごやむつ)、岩田蕃らが交代で英書、訳書、洋算、和算の出張授業にあたった。現存の入学記録である入社帳(「大阪慶應義塾入社録」)によると、英書科に75名、訳書科に11名、計86名の生徒を大阪慶應義塾は育成したことになるが、大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。『慶應義塾学報』第41号(明治34年6月刊)掲載の懐旧談によれば、「東京大阪の交通稍便なるに従ひ、郷里より大阪に出づる学生は、其費用東京に来学すると左程の相違なきが為め、追々本塾に入るもの多く」と、設立当初の目的が急速に失われたことが記されている。閉校後、徳島慶應義塾に引きつがれた。
ということです。
道端に紫蘭。
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