大和郡山には数か所の地域で行者講が行われている。
井戸野町の金丸講は数年前に寄らせてもらって取材したが白土町は初めてだった。
一昨年に宮さんの行事をされていた六人衆の一人からそれはしていると聞いていた。
白土町の行者講は回り当番の家で寄り合いをする回り講である。
先達の存在は確認できていないことから大峰さんに参ることはないのだろう。
昨年の回りはK家だった。
その人は昨年の六人衆の一人だった。
祭りの行事取材でお世話になった人だ。
縁は行者講まで繋がったが法要が重なったために欠席された。
今年の回りはKT家があたる。
回りの家では三体の掛け図が掲げられた。
不動明王、修験道再興の祖とされる理源大師、五大明王である。
装丁し直された掛け図はもう一体ある。
それは役行者座像である。
これはなぜか掲げないことになっていると講家の当主がいう。
厨子は特に見られないから元々なかったのであろう。
その掛け図の前に木製の祭壇が置かれている。
これは引きだしをもつ構造で内部に掛け図などを納める仕組みになっている。
そこから出した灯明立てや神酒口、ホラ貝、五鈷杵のリン、鉦、文政五年(1822年)正月の記名がある撞木(しゅもく)、錫杖を並べる。
御供はセキハンとなっているそうだ。
傍らには白土町の行者講を示す古文書も置かれた。
残された文書には弘化四年(1840年)から始まる行者講営帳、天明3年(1783年)の行者講指引帳、延享五年(1748年)三月の大峯永代講中であるからおよそ260年前には行者講の営みがあったようだ。
行者講営帳によれば弘化四年は正月、二月・・・十二月まである。
ひと月ごとに営みを済ませた印があるが八月までだった。
それ以降の江戸時代の記録はなく明治2年に飛んでいる。
軒数が多かったのかそのころは西組と東組に分かれて日待ちと呼んで正月、五月、九月に営まれていたようだ。
それは明治十二年ころには協議がされて五月、九月に縮小されたようで13軒の名が記されている。
そのころは総日待ちになっている日もあれば宿営みもある別個に行われていたような記載の仕方だけに断定しにくい。
やがてその実施月は、四月であったり六月の場合もある。
都合でそうなったのか判らないが変動することが多かったようだ。
大正から昭和三年までの記録では実施月はないが年に一度の集まりとなったようだ。
その後の記録は残っていないが戦後しばらくまで続けていたという。
理由は定かでないがそれから途絶えた行者講の営みは平成元年に11軒が集まることになって復活した。
当時の献立は記録されていないがご婦人は覚えているそうだ。
行者講は男性が集まり膳を食べて酒を飲み交わす飲食の場。
婦人たちはその場にあがることはできないが膳の支度をしていたのだ。
当時はタケノコの木の実和えがあったというから5月のようだったと当主も話す。
それはいつしか田植え終わりのころ合いを見計らって日にちを決めるようにされた。
膳は手間のかからない一合半の寿司折りとトーフの吸い物やデザートの果物だけとなった。
かつては一反ぐらいの行者講の田んぼ(農地解放で消滅)があったそうだ。
そこで収穫した稲を売った金で講の費用を賄っていたという。
行者講指引帳によれば当時の講中は28人の名が記されている。
その後の記帳には示すものがないが、復活した平成元年は11軒、その後に転居などがあり現在は8軒で営まれている。
男性が不在であればその講中は参加できない。
男児が生まれれば復活されるのかもしれないと当主はいう。
その大峯永代講中は南無なにがしの念仏が書かれている。
そのなかには白坂大明神、治道牛頭天皇も見られる。
白坂大明神は同町に鎮座する氏神さんの白坂神社で、治道牛頭天皇とは南に位置する隣村の横田町に鎮座する和爾下神社のことであろう。
巻末には安政七年(1860年)二月と記されているから書写されたのではないだろうか。
また平成元年の講中名簿には「宿営順序」とあるから集まりの講家は「宿(やど)」と呼んでいたのであろう。
この年の夜は五人が「宿」に集まった。
それまでに当主はお風呂に入って潔斎をする。
講の営みに際して身を清めるのだ。
会食の準備が整った座席でよもやま話。
それから始まった講中の儀式はローソクを灯して線香をくゆらす。
そしてホラ貝を吹いて掛け図の前で手を合わせる。
念仏を唱えることもなくそれで終わった儀式を済ませると会食に移る。
ビールや酒で一夜の寄り合いはこうしてふけるまで会話を交わす。
大和郡山には大江、若槻、稗田、美濃庄、番匠田中、下と上三橋に行者講があると井戸野の金丸講の講中が言うが調査は未だすすんでいない。
後日の聞き取りでは伊豆七条町にもあるそうだ。
また、番条と中城の境界付近には行者像の石仏もある。
講の営みはなくとも風化が進まぬうちに調べておかねばならない。
以前に勤められた講家の婦人の記憶によれば膳の名は「オヒラ」と呼んでいた。
丸い椀が数種類あって平たい椀があったことからそう呼んだのかも知れないがその料理は精進料理だったそうだ。
一つは煮物でゼンマイ、サトイモ(ドロイモ)にアゲサン(アブラアゲ)、ゴボウ、コンニャク、タケノコに青物としてアオマメか湯がいたホウレンソウ、若しくはフキを煮たものだったそうだ。
それは開催年によって異なるが5品もしくは7品だった。
その他の椀にはホウレンソウのお浸し、切り身の焼き魚(アジかサバか)、キュウリとタコの酢ものとトーフのおつゆ(すまし汁)、香物の漬物にシロゴハンだった。
ゴハンの椀と酒を飲む盃は講中が持参するのでめいめいの器を間違わないように出さんといけないという。
魚は地区に行商で売りに人から買ったそうだ。
ゼンマイはお嫁さんの出身地である野迫川村から送ってもらっていた。
水が奇麗からだろうかスーパーで買うよりもそれはとても美味しかったと笑顔で話される。
(H23. 6.19 EOS40D撮影)
井戸野町の金丸講は数年前に寄らせてもらって取材したが白土町は初めてだった。
一昨年に宮さんの行事をされていた六人衆の一人からそれはしていると聞いていた。
白土町の行者講は回り当番の家で寄り合いをする回り講である。
先達の存在は確認できていないことから大峰さんに参ることはないのだろう。
昨年の回りはK家だった。
その人は昨年の六人衆の一人だった。
祭りの行事取材でお世話になった人だ。
縁は行者講まで繋がったが法要が重なったために欠席された。
今年の回りはKT家があたる。
回りの家では三体の掛け図が掲げられた。
不動明王、修験道再興の祖とされる理源大師、五大明王である。
装丁し直された掛け図はもう一体ある。
それは役行者座像である。
これはなぜか掲げないことになっていると講家の当主がいう。
厨子は特に見られないから元々なかったのであろう。
その掛け図の前に木製の祭壇が置かれている。
これは引きだしをもつ構造で内部に掛け図などを納める仕組みになっている。
そこから出した灯明立てや神酒口、ホラ貝、五鈷杵のリン、鉦、文政五年(1822年)正月の記名がある撞木(しゅもく)、錫杖を並べる。
御供はセキハンとなっているそうだ。
傍らには白土町の行者講を示す古文書も置かれた。
残された文書には弘化四年(1840年)から始まる行者講営帳、天明3年(1783年)の行者講指引帳、延享五年(1748年)三月の大峯永代講中であるからおよそ260年前には行者講の営みがあったようだ。
行者講営帳によれば弘化四年は正月、二月・・・十二月まである。
ひと月ごとに営みを済ませた印があるが八月までだった。
それ以降の江戸時代の記録はなく明治2年に飛んでいる。
軒数が多かったのかそのころは西組と東組に分かれて日待ちと呼んで正月、五月、九月に営まれていたようだ。
それは明治十二年ころには協議がされて五月、九月に縮小されたようで13軒の名が記されている。
そのころは総日待ちになっている日もあれば宿営みもある別個に行われていたような記載の仕方だけに断定しにくい。
やがてその実施月は、四月であったり六月の場合もある。
都合でそうなったのか判らないが変動することが多かったようだ。
大正から昭和三年までの記録では実施月はないが年に一度の集まりとなったようだ。
その後の記録は残っていないが戦後しばらくまで続けていたという。
理由は定かでないがそれから途絶えた行者講の営みは平成元年に11軒が集まることになって復活した。
当時の献立は記録されていないがご婦人は覚えているそうだ。
行者講は男性が集まり膳を食べて酒を飲み交わす飲食の場。
婦人たちはその場にあがることはできないが膳の支度をしていたのだ。
当時はタケノコの木の実和えがあったというから5月のようだったと当主も話す。
それはいつしか田植え終わりのころ合いを見計らって日にちを決めるようにされた。
膳は手間のかからない一合半の寿司折りとトーフの吸い物やデザートの果物だけとなった。
かつては一反ぐらいの行者講の田んぼ(農地解放で消滅)があったそうだ。
そこで収穫した稲を売った金で講の費用を賄っていたという。
行者講指引帳によれば当時の講中は28人の名が記されている。
その後の記帳には示すものがないが、復活した平成元年は11軒、その後に転居などがあり現在は8軒で営まれている。
男性が不在であればその講中は参加できない。
男児が生まれれば復活されるのかもしれないと当主はいう。
その大峯永代講中は南無なにがしの念仏が書かれている。
そのなかには白坂大明神、治道牛頭天皇も見られる。
白坂大明神は同町に鎮座する氏神さんの白坂神社で、治道牛頭天皇とは南に位置する隣村の横田町に鎮座する和爾下神社のことであろう。
巻末には安政七年(1860年)二月と記されているから書写されたのではないだろうか。
また平成元年の講中名簿には「宿営順序」とあるから集まりの講家は「宿(やど)」と呼んでいたのであろう。
この年の夜は五人が「宿」に集まった。
それまでに当主はお風呂に入って潔斎をする。
講の営みに際して身を清めるのだ。
会食の準備が整った座席でよもやま話。
それから始まった講中の儀式はローソクを灯して線香をくゆらす。
そしてホラ貝を吹いて掛け図の前で手を合わせる。
念仏を唱えることもなくそれで終わった儀式を済ませると会食に移る。
ビールや酒で一夜の寄り合いはこうしてふけるまで会話を交わす。
大和郡山には大江、若槻、稗田、美濃庄、番匠田中、下と上三橋に行者講があると井戸野の金丸講の講中が言うが調査は未だすすんでいない。
後日の聞き取りでは伊豆七条町にもあるそうだ。
また、番条と中城の境界付近には行者像の石仏もある。
講の営みはなくとも風化が進まぬうちに調べておかねばならない。
以前に勤められた講家の婦人の記憶によれば膳の名は「オヒラ」と呼んでいた。
丸い椀が数種類あって平たい椀があったことからそう呼んだのかも知れないがその料理は精進料理だったそうだ。
一つは煮物でゼンマイ、サトイモ(ドロイモ)にアゲサン(アブラアゲ)、ゴボウ、コンニャク、タケノコに青物としてアオマメか湯がいたホウレンソウ、若しくはフキを煮たものだったそうだ。
それは開催年によって異なるが5品もしくは7品だった。
その他の椀にはホウレンソウのお浸し、切り身の焼き魚(アジかサバか)、キュウリとタコの酢ものとトーフのおつゆ(すまし汁)、香物の漬物にシロゴハンだった。
ゴハンの椀と酒を飲む盃は講中が持参するのでめいめいの器を間違わないように出さんといけないという。
魚は地区に行商で売りに人から買ったそうだ。
ゼンマイはお嫁さんの出身地である野迫川村から送ってもらっていた。
水が奇麗からだろうかスーパーで買うよりもそれはとても美味しかったと笑顔で話される。
(H23. 6.19 EOS40D撮影)