春日大社では平成27年11月5日に第六十次の式年造替(ぞうたい)が行われる。
明治時代に社殿が国宝や重要文化財に指定された関係から江戸時代の造替を最後に破損に応じた修理を重ねてきた。
そのような形式で造営(ぞうえい)を繰り返す大和奈良の寺社が多い。
多いがそれは奈良の東側。西側に位置する葛城辺りではそれは行われていないそうだ。
神職が集まる会合でそのことを知った友田や針の宮司。
その宮司が管轄する神社ごく当然なように造営をしていたのでとても驚いたと話す。
葛城の笛吹神社や長尾神社の宮司がいうには「葛城は大阪寄り。東側は伊勢に近いからそれがあるのでは」と話す。
その造営の式典を大和奈良では「ゾーク」と呼ぶ人が多い。
奈良市都祁南之庄に鎮座する国津神社は20年ぶりにその造営が行われた。
「これを拝見するのは20年ぶりで足腰も弱くなった年齢になったけどありがたいことだ。」と話した老婦人。
それだけ健康でおられた証しであろう。
造営の祭典が行われるのは高く組み立てられた舞台。
本殿の屋根まで届く高さで紅白の幕が張られている。
中には大御幣が3本、鶴紋入り日ノ丸御幣は40(42)本ぐらいもある。
さらに小御幣は66本もある。
日ノ丸御幣は造営委員ら神社役員が、小御幣は村の人が祭典後に貰って帰る。
その場には紅白の餅が桶に入れられている。
これは祭典の際に撒かれる御供モチで2石4斗も搗いたという。
その桶には造営の証しがある。
裏側に墨書された文字にはその都度寄進された年月日が記されていたのであった。
祭典が始まるころには続々と集まってきた村人たち。
普段の神社では役員たちだけだが、この日は見たこともない人数で瞬く間まもなく埋まっていく。
境内は溢れて外までいっぱい。
目出度い日であるだけにキモノ姿の婦人も多い。
子供も多く境内は寿司詰め状態である。
それを見守るかのように並べられた槌が36本。
槌の両側には牛玉宝印の印であろう炎のような朱印がある。
神仏混合の名残であろうか。
この造営を記念して新たに作成された略記。
「天延二年(974年)、社の傍らに御堂を建之し、薬師、釈迦像を安置したとされる観音堂があった」と記されている。
その印しは神仏混合の時代の名残であるかも知れないと宮守たちは話す。
(H23.11.12 EOS40D撮影)
明治時代に社殿が国宝や重要文化財に指定された関係から江戸時代の造替を最後に破損に応じた修理を重ねてきた。
そのような形式で造営(ぞうえい)を繰り返す大和奈良の寺社が多い。
多いがそれは奈良の東側。西側に位置する葛城辺りではそれは行われていないそうだ。
神職が集まる会合でそのことを知った友田や針の宮司。
その宮司が管轄する神社ごく当然なように造営をしていたのでとても驚いたと話す。
葛城の笛吹神社や長尾神社の宮司がいうには「葛城は大阪寄り。東側は伊勢に近いからそれがあるのでは」と話す。
その造営の式典を大和奈良では「ゾーク」と呼ぶ人が多い。
奈良市都祁南之庄に鎮座する国津神社は20年ぶりにその造営が行われた。
「これを拝見するのは20年ぶりで足腰も弱くなった年齢になったけどありがたいことだ。」と話した老婦人。
それだけ健康でおられた証しであろう。
造営の祭典が行われるのは高く組み立てられた舞台。
本殿の屋根まで届く高さで紅白の幕が張られている。
中には大御幣が3本、鶴紋入り日ノ丸御幣は40(42)本ぐらいもある。
さらに小御幣は66本もある。
日ノ丸御幣は造営委員ら神社役員が、小御幣は村の人が祭典後に貰って帰る。
その場には紅白の餅が桶に入れられている。
これは祭典の際に撒かれる御供モチで2石4斗も搗いたという。
その桶には造営の証しがある。
裏側に墨書された文字にはその都度寄進された年月日が記されていたのであった。
祭典が始まるころには続々と集まってきた村人たち。
普段の神社では役員たちだけだが、この日は見たこともない人数で瞬く間まもなく埋まっていく。
境内は溢れて外までいっぱい。
目出度い日であるだけにキモノ姿の婦人も多い。
子供も多く境内は寿司詰め状態である。
それを見守るかのように並べられた槌が36本。
槌の両側には牛玉宝印の印であろう炎のような朱印がある。
神仏混合の名残であろうか。
この造営を記念して新たに作成された略記。
「天延二年(974年)、社の傍らに御堂を建之し、薬師、釈迦像を安置したとされる観音堂があった」と記されている。
その印しは神仏混合の時代の名残であるかも知れないと宮守たちは話す。
(H23.11.12 EOS40D撮影)