年に4回も湯立てを行っていると知って訪れた大和郡山市田中町の甲斐神社。
宮守を勤めるのは5人の男性。
3年間の役目を勤める氏子総代だ。
田中の村はかつて西の方角にあったそうだ。
富雄川が氾濫して全村がこの地に移転した。
延宝年間(1673~)だと伝わる氾濫だが、住民の移動はそれより早く、慶安(1648~)時代より一部が移って住み着いたという。
かつての地を古屋敷と呼んでいると話す総代たち。
そこは郡山西中学校の南側だ。
なお、現在のアピタ大和郡山店がある付近は小字宮西。
その東側は宮東とあるから境目にあったとされるのが元の甲斐神社の地であろう。
氾濫の際に流された毘沙門さんは村の大切な神さん。
境内の一角にある毘沙門堂に祀られた佛神さんである。
この日に行われる行事は八朔日。
秋の収穫前に大風で倒れないようにと願う八朔祭である。
斎主は橿原在住の宮司。
実は小泉神社の宮司の実弟である。
拝殿に登るのは自治会長、水利組合長に5人の氏子総代。
参籠所へは村の人たち。
大多数が老人会だという。
おぉーと神さんを呼び出す宮司。
八朔神事が始まった。
夏の日照りに負けず育ってきた稲が実る。
悪しき風雨から災いを祓う。
二百十日の疫日のお祓いは穏やかに育んでくれるよう祈る神事だ。
それを済ませば場を境内に移す。
これから始まるのは湯立ての神事。
勤めるのは宮司の奥さん。
夫婦ともども神さんに仕える身である。
実は奥さんのお姉さんが小泉神社の宮司の奥さん。
兄弟姉妹で神さんに仕えている家系である。
湯立ての釜は羽根つき釜。
古いようであるが刻印は見られない。
雑木のシバで湯を沸かすのは「湯焚きさん」。
二十歳の男子が一年間に行われる湯焚き給仕を勤める。
以前は4人で給仕していた。
歳の順から下って勤めていた4人制。
少子化によって年齢が中学生までいってしまったことから2人制に改定した。
今は大学生の年代になったが、こうした神社行事を勤めることで氏子入りを果たしてしていくのだという。
村の史料によれば甲斐神社の湯立ては湯花神事であった。
7月は代々とも呼ぶ夏祭り、8月が七日盆とも呼ぶ祖霊祭、9月の八朔祭と10月の秋祭りの宵宮の4回を勤める二人の湯焚きさん。
かつては3月の春祭りのお田植祭りでもされていたそうだ。
湯立て神事は巫女によって行われる。
湯釜の周りを囲む氏子たち。
厳かに行われる湯立て神事を立ち見姿で見守る。
湯立てを始める前は神楽舞い。
鈴を手にして右へ左へと舞う。
そうした作法をした後が湯立てだ。
お酒、米、シトギを湯釜に注ぐ巫女。
幣でコツコツと釜の縁を叩く。
こういう作法は始めて見た。
三郷の坂本家や若槻の加奥さんの作法とは異なる。
二本の笹を湯に浸けてシャバシャバする。
祝詞を唱えることなく作法をする巫女。
笹を湯に浸けては前方に飛ばす。
湯を飛ばしているのだ。
その方向は氏子たちが立つ場。
ときにはあっちへ。
身体の位置はそのままだが、笹の湯飛ばしは回転しながら飛ばすこともある。
その様相はまさに参拝者へ向けてぶっかけるという感じだ。
その量といえば相当なものである。
湯を浴びる、浴びる。
何度もされるので衣服はびっしょ濡れである。
容赦なく湯をかけてくださる。
数えてみれば実に百回以上も。
実にダイナミックな作法である。
まさにご祈祷の御湯は「ためしすの湯」。
里に暮らす村人の身体堅固のありがたい湯被りであった。
(H24. 9. 1 EOS40D撮影)
宮守を勤めるのは5人の男性。
3年間の役目を勤める氏子総代だ。
田中の村はかつて西の方角にあったそうだ。
富雄川が氾濫して全村がこの地に移転した。
延宝年間(1673~)だと伝わる氾濫だが、住民の移動はそれより早く、慶安(1648~)時代より一部が移って住み着いたという。
かつての地を古屋敷と呼んでいると話す総代たち。
そこは郡山西中学校の南側だ。
なお、現在のアピタ大和郡山店がある付近は小字宮西。
その東側は宮東とあるから境目にあったとされるのが元の甲斐神社の地であろう。
氾濫の際に流された毘沙門さんは村の大切な神さん。
境内の一角にある毘沙門堂に祀られた佛神さんである。
この日に行われる行事は八朔日。
秋の収穫前に大風で倒れないようにと願う八朔祭である。
斎主は橿原在住の宮司。
実は小泉神社の宮司の実弟である。
拝殿に登るのは自治会長、水利組合長に5人の氏子総代。
参籠所へは村の人たち。
大多数が老人会だという。
おぉーと神さんを呼び出す宮司。
八朔神事が始まった。
夏の日照りに負けず育ってきた稲が実る。
悪しき風雨から災いを祓う。
二百十日の疫日のお祓いは穏やかに育んでくれるよう祈る神事だ。
それを済ませば場を境内に移す。
これから始まるのは湯立ての神事。
勤めるのは宮司の奥さん。
夫婦ともども神さんに仕える身である。
実は奥さんのお姉さんが小泉神社の宮司の奥さん。
兄弟姉妹で神さんに仕えている家系である。
湯立ての釜は羽根つき釜。
古いようであるが刻印は見られない。
雑木のシバで湯を沸かすのは「湯焚きさん」。
二十歳の男子が一年間に行われる湯焚き給仕を勤める。
以前は4人で給仕していた。
歳の順から下って勤めていた4人制。
少子化によって年齢が中学生までいってしまったことから2人制に改定した。
今は大学生の年代になったが、こうした神社行事を勤めることで氏子入りを果たしてしていくのだという。
村の史料によれば甲斐神社の湯立ては湯花神事であった。
7月は代々とも呼ぶ夏祭り、8月が七日盆とも呼ぶ祖霊祭、9月の八朔祭と10月の秋祭りの宵宮の4回を勤める二人の湯焚きさん。
かつては3月の春祭りのお田植祭りでもされていたそうだ。
湯立て神事は巫女によって行われる。
湯釜の周りを囲む氏子たち。
厳かに行われる湯立て神事を立ち見姿で見守る。
湯立てを始める前は神楽舞い。
鈴を手にして右へ左へと舞う。
そうした作法をした後が湯立てだ。
お酒、米、シトギを湯釜に注ぐ巫女。
幣でコツコツと釜の縁を叩く。
こういう作法は始めて見た。
三郷の坂本家や若槻の加奥さんの作法とは異なる。
二本の笹を湯に浸けてシャバシャバする。
祝詞を唱えることなく作法をする巫女。
笹を湯に浸けては前方に飛ばす。
湯を飛ばしているのだ。
その方向は氏子たちが立つ場。
ときにはあっちへ。
身体の位置はそのままだが、笹の湯飛ばしは回転しながら飛ばすこともある。
その様相はまさに参拝者へ向けてぶっかけるという感じだ。
その量といえば相当なものである。
湯を浴びる、浴びる。
何度もされるので衣服はびっしょ濡れである。
容赦なく湯をかけてくださる。
数えてみれば実に百回以上も。
実にダイナミックな作法である。
まさにご祈祷の御湯は「ためしすの湯」。
里に暮らす村人の身体堅固のありがたい湯被りであった。
(H24. 9. 1 EOS40D撮影)