マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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シンカン祭りの七日座

2012年11月13日 09時03分47秒 | 天理市へ
天理市海知町に鎮座する倭恩智神社で祭祀されている代表的な行事にシンカン祭りがある。

シンカン祭りは三日間にわたって行われる祭礼である。

初日は神饌の御供を作ることから始まる。

その作業は大当屋の家だ。

小当屋を始めとして隣近所の人たちが支援にあたる。

海知町の宮座制度は昭和の初めまでは特定の座家に限って営まれていた。

いつしか営む家が少なくなくなった。

12戸もあった座の家は諸事情で昭和の始めには6、7戸。

その後も減り続けて3戸まで落ち込んだという。

このまま状況では祭祀を継承することができなくなった。

そうして昭和10年からは宮座制度を廃止して地区住民における年交替輪番制で営むことにした。

奈良県の民俗芸能緊急調査対象に選択されたことにより急遽調査にあたることなった。

調査の中心は里の女児によって行われる湯立ての神事である。

平成16年、18年、19年にも訪れていたのでその様相は存知しているが、毎年交替される大当屋の家は予めの挨拶はできていなかった。

当日は朝から降り続ける雨の日。

集落を巡ってみるものの注連縄を張る家が見つからない。

大雨の中では田畑に人はいない。

時間は刻々と過ぎていく。

傘をさして集落を巡っていたときだ。

煙が立ち登る家があった。

おそらく湯を沸かすときの藁火であろうと判断して伺った。

今まさに始まった湯立ての神事がその家。

急なお願いに許可を得て撮影に入った。

今回の調査は湯立て所作の記録だ。

セットアップもままならないままのビデオ撮影である。

神職は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社藤本宮司。

祭り取材にずいぶんとお世話になった。

大当屋の家で行われる湯立ての神事の斎場は屋外。

大当屋家の敷地内にある作業場である。

四方に竹を立てて注連縄を張る。

シデを取り付けた場が神事の場なのである。

三本の足がある湯釜は羽釜。

刻印は見られないものの古から使われてきた釜である。

始めに宮司が行われる祓えの儀。

大、小の当屋を始めとして大当屋家族に手伝いを勤める人たちも並ぶ。

湯釜の前に立った宮司は一礼をする。

釜湯を清められて「オオオオー」。

神さんを大当屋の家に呼び起こす。

そして幣を巫女に手渡した。

巫女は湯釜を祓う。

雨がしとしと降り続けるなかでの作法である。

左手に笹をもって右手に鈴だ。

チン、チン、ドンの音色に合わせて神楽を舞う。

チンは摺り鉦の音。

ドンは太鼓を打つ音だ。

この役目は烏帽子と素抱を身につけた大と小の当屋と決まっている。

大は太鼓で小はチャンボと呼ばれる銅製の鉦を受け持つ。

次の所作が湯立てである。

二本の笹束を置いて塩、洗米、御酒を湯釜に注いで清める。

静かに作法を見守る氏子たちの前で所作をする。

次に、北、東、南、西の方角に向かって三度の一礼をする。

それから笹を湯に浸ける。

笹を持った巫女は前方に湯を飛ばした。

何度か繰り返して後方にも笹を振り上げた。

撮影後に確認すれば前方が5回で後方は10回だった。

右手に鈴に持ち替えて神楽を舞う。

チン、チン、ドンに合わせて舞う。

左、右に2回ほど回る。

それを終えて二人の当屋に鈴で祓う。

並んでいた参拝者たちにも祓った。

再び宮司が登場する。

湯釜の前に立って湯を祓う。

「オオオオオー」の声が聞こえてきた。

神さんは天に戻ったのであろう。

こうして終えた湯立ての神事は正式には「御湯之儀」と呼ばれている。

暗雲立ち込める中での神事を終える頃は小雨になっていた。

神事を終えた人たちはもう一つの作業場に移った。



この夜は神饌御供作り。

一斗粳米餅を現代的な機器で次々と搗いていく餅搗き神事である。

その場は大当屋家の卓球場。

隣の棟はカラオケ会場。

村の人たちが集まって楽しめるようにと建てたという父兄が話す。

大当屋を勤めるK氏のお顔は見覚えがある。

お聞きすれば小当屋を平成19年に勤めた方だった。

手伝いされている人の中には平成18年大当屋を勤めたO氏、19年のH氏もおられる。

当時のことは鮮明に覚えてくださっていた。

ありがたいことである。

大当屋のK家には昭和拾年三月吉日に記された座帳の写しを残しておられた。

座帳を記録されたのはK氏のひいお爺さん。

K氏の父親兄が話すには息子に伝えなくて孫に伝えた話がある。

それはかつての倭恩智神社。

当時は海知町集落の北部にあった。

戦時下において空路になったそうだ。

神社を現在地に移転したのはひい爺さんらの尽力の賜物であったそうだ。

戦中に移したという話があるが、実際はマッカサーに逆らって戦後になってから移したという。

そのひいお爺さんが書き遺した文書があるそうだ。

それにはシンカン祭りの営みが事細かに書き記されている。

本書から写された文書。

それによればシンカン祭りは7日から9日における祭礼であった。

初日は七日座と記されている。

『一.前日六日ニ大當家、小當家揃ッテ神饌ノ買物ニ行ク 一.七日早朝ヨリ小當家壱名大當家へ手傳ヒニ行ク 一.前後ノ當家大當家ヘ手傳人ハ八日祭典神饌ノ準備ヲ整フ 一.夜ノ御供搗ニハ小當家ヨリ更ニ壱名大當家へ手傳ニ行ク 一.飲食ニ要スル諸入費及ビ御供搗ノ入費ハ大當家負担トスル 一.神官、神楽人ハ大當家ニテ饗應スル』とあった。

なお、七日座の御湯之儀には『神官、神楽人ニテ御湯上ゲ 大小當家装束ヲ付ケ太鼓、チャンボラヲ神楽ニ合ス 一.白米五合ヲ供ヘル大當家ヨリ (×)一.締縄七五三壱筋 神楽人帯ビル 一.締縄御湯ノ上ニ張ル 一.笹弐束御湯ニ用ユ 一.竹ノ柄ノ御幣 一.塩、洗米、酒』である。

ちなみに九月一日は初作座と称していた。

その日の早朝に二人の當家は氏神さまに参って三巻の般若心経を唱えていたようだ。

八日は御神渡を経て宵宮式と御湯之儀。

翌日の九日は座の名称はなく九日祭典であった。

こうした座の記載はあるものの「シンカン祭り」の文字は見られない。

いつから「シンカン祭り」と称したのであろうか・・・。

この日の御湯之儀が始まるまでは大当屋家では饗応があった。

座帳の写しにはその日の献立が記載されている。

平(ひら)には油揚、いも、みよが、かんぴょ、ごぼうの五品。

横付になすびのからしあえである。

七日の日に大当屋家がもてなす饗応。

それゆえに「七日座」と称していたのであろう。

(H24. 9. 7 EOS40D撮影)