「4月21日はお大師さんの命日や」と云って、各地でさまざまなお大師さんの行事があるようだ。
大和郡山市の旧村の一つに挙げられる番条町では昭和八年(1933)に残された由来書があり、文政十三年(1830)に流行病いのコレラが村内で発症したことが発端となって各家が弘法大師を信仰することになったと伝えられる。
村の申し合わせによって、四国八十八カ所巡りをした当時の人たち。
本尊を貰い受けて各家で祀ることになったと云う。
番条町のお大師さんを初めて知ったのは新聞に挟みこんでいたミニコミ誌の「ならリビング」だった。
平成17年4月8日に記載された読者推薦の「私のすてきな奈良の道」に書いてあった番条町のお大師さん。
全文は、「近場にて四国巡礼八十八カ所が一日で大願成就される。近鉄・JR郡山駅より徒歩20分で番条町です。4月21日は番条町のお大師様の日です。この町はほとんどが真言宗(お大師様)の信仰で各家が四国八十八カ所に相当する厨子を持っている。当日各家門前に厨子におさまったお大師様の木像が出開帳され、厨子の内扉に八十八カ所の寺名とご詠歌が朱書きされている。色とりどりの花が飾られ、子餅を供え、お詣りされた方々に供養に一つずつ取っていただく。毎年詣られる方、挨拶する人々、何とも言えぬ風情である。町中あげてこのような行事が今もなお行われているところはそんなにはないのでなかろうかと。仕事に追われての私。四国は遠いけれど、番条だったらお詣りできるかもと今年こそ、八十八カ所大願成就できますようにと。大和郡山市 郡山花子」である。
記載されていたお大師さんを祭る村の行事の様相をしりたくて伺ったのは、その年の4月21日だった。
記事に書かれていたとおりに各家の門屋に移していたお大師さんに感動したことは今でも覚えている。
その日にお参りに来ていた隣村の石川町の二人の婦人とともに同行する巡礼・・ではなく私は写真撮りに専念していた。
翌年の平成18年にはあるミニコミ誌が記事にした「ミニ遍路でご利益」として紹介した「春の大師祭」。
奈良新聞も記事にしたサブタイトルは「大師像に健康祈願 88戸の家々を巡る」であった。
平成21年には奈良日日新聞も「玄関に坐像や厨子 お大師さん参り」と紹介していた。
平成22年には大手の毎日新聞も「弘法大師の木像開帳 番条町内88カ所 ユニークな催し」記事をアップした。
平成24年ともなればNHK奈良放送局が朝から夕方まで取材されて特集の放映までされた。
今年は奈良テレビも取材に来ていたのである。
「ならリビング」に読者推薦されたのは番条町在住のOさんだった。
ミニコミ誌に掲載した名は「郡山花子」だったが、ご本人は男性だ。
公共報道等によって、「これほど広がり、お参りする人が多くなるとは思わなかった」と一昨年にお会いしたときに話していた。
番条のお大師さんは読者推薦記事よりも前の昭和63年に発刊された鈴木良編『城と川のある町-大和郡山歴史散歩-』の一編に記載(徳永光俊・記)されていた。
それには町内各家に祭られているお大師さんマップも載っていた。
今年の4月21日は昼過ぎまで送迎の仕事であった。
送迎患者さんのお一人は番条町の住民。
送迎に狭い道を通ろうとしたときの時間帯である。
8時40分ころにはすでに巡礼者が何人か滞在していた。
手を合わして摂待のコモチを手にしている人もおられる。
ある男性は百貨店の袋にモチを詰め込んでいた。
その後の11時前は治療した患者さんの送り。
この時間帯はさすがに多かった。
道は人で溢れかえっていた。
送迎の仕事を終えて一旦帰宅してから支度を調えて取材に向かった番条町。
これまで北垣内地区の調査を進めてきた。
到着したのは午後2時半だった。
取材時間は短時間になるが狙いは南垣内だ。
そちらに向かう道すがら。
北の大師堂におられた婦人たちは北の大師講の婦人たちだった。
一時間交替で摂待していた講中もその時間には店仕舞い。
講中の一人である萱葺き大和棟のS婦人もおられた。
平成23年4月18日に取材させていただいた北の大師講では導師を勤められた婦人だ。
たまたま一週間前にカメラのキタムラでお会いした婦人の次男さんが「おふくろも親父も元気なんで、うちにも来てや」と云われていた。
カメラのキタムラに来られていたのは写友人からいただいた写真の焼き増しであったが・・・・うーんと唸るしかない映像。
美しく撮られているが、被写体は・・・うーんである。
それはともかくお家に案内されて久しぶりにお会いした親父さんは笑顔で迎えてくれる。
北垣内のS家の親父さんはおふくろさんとも90歳。
お元気な姿で歓迎してくれる。
同家の御膳は煮もののシイタケ・ニンジン・コーヤドーフ椀などにご飯盛り。
摂待モチは白モチであるが、かつてはヨゴミダンゴだったと話す。
同家から南下した中垣内で祭っていたお家の御膳はタケノコが直立だ。
シイタケ・麩は乾物。
ご飯も洗米に生小豆を盛っていた。
摂待モチはたばった人が貰っていかれたのか、風で飛ばないように重しを敷いていた。
重しの石がなぜかヨモギダンゴに見えた。
ここら辺りの昼前は大勢の巡礼者が来られていたが、午後3時ともなる時間帯はごくわずかだった。
隣家の御膳も直立させたタケノコに洗米、乾物、お菓子などがある。
さらに南下して、翌々日も送迎させてもらったS家は南垣内の元大庄屋家。
早々とやってきたツバメは門屋に巣を作っていた。
S家は、萱葺き大和棟のS家と親戚筋にあたる。
元庄屋家のS家から嫁いだ女性はS家の大ばあさんだったと聞く。
元庄屋家のS家に建つ2階建ては離れの屋敷。
1階が10畳で、2階は20畳もあるお屋敷。
かつて番条村が水ツキになったことがある。
そのことがあって集落住民が避難できるように建てたと聞いている。
S家の御供にヨモギモチがあった。
かつては家で米粉を挽いてヨモギダンゴを作っていたが、「ヨモギを採るのもたいへんやし、ダンゴ作りも手間がかかる」と云ってしなくなった。
それで白モチに替えたとお嫁さんが話していた。
たまたまこの日に供えたヨモギモチは京都で買ったものだと云う。
御膳に調理した白和えやシイタケ・ワラビの煮ものに炊いたお豆さんにご飯も盛っていた。
お嫁さんの話しによれば、北や中垣内のお大師さんの御膳はほとんどが調理しない生御膳。
当地に到着したときは北の集落を巡っていた婦人。
ぐるりと廻って集落全戸の膳を見てきたと云う。
S家は11軒で営む南垣内の座中のひとつ。
昨年の十月朔座ではトーヤ(当屋)を務めたそうだ。
さらに南下して南の阿弥陀院へ向かう。
すぐ傍の民家はH家では門屋の前で飾っていたお大師さんの御膳。
直立のタケノコに乾物のシイタケの煮たコーヤドーフ椀にゼンマイ・アゲサンの煮もの椀、黒豆椀にご飯盛りに箸も。
こうした御膳の椀は家によってまちまちで、朱塗りもあれば黒塗りもある。
花飾りに昨今珍しい麦の穂もあった。
家人の話しによれば裏の田で栽培した大麦だそうで、食糧ではなく生け花用。
この日にお参りされた人が懐かしそうに話していたのであげたと云う。
一軒、一軒巡っておれば、なかなか阿弥陀院に到着しない。
本堂前に安置したお大師さんはお寺の所有物だ。
にこやかな姿のお大師さんは各戸で安置されているお大師さんよりもはるかに大きい。
2年ぶりにお会いした住職と母親との長話。
そのころやってきたご近所の男性。
寺で祭ってもらったお大師さんは「持って帰るわ」と云われて厨子ごと風呂敷に包まれた。
そういえば、阿弥陀院で預かっているお大師さん・厨子は六体のはずだ。
数えてみれば七体であったのだ。
六体はかつて村を離れた家の預かりもの。
持ち帰る一体はこの日だけの寺預かり。
男性の話しによれば、身体が不自由になった奥さんは医療機関で診療の身。
「家に戻られへんから心配やねん」と寺に相談をもちかけたところ、ご厚意で阿弥陀院の六体とともに並べてもらっていたと云う。
そうすることによって、「参拝者がお参りしてくれるから、ありがたい」と医療機関で手を合わしていたと云う。
「一人やもめじゃ世話できんかったけど、助かった」と云いながら帰っていった。
南垣内の端にはまだ着かない午後4時。
参拝者の状況をみて早くも屋内に戻した家もあるが、5時ころまでこうして祭っている家もある。
格子扉の横に祭った家では御膳はなく、接待の白モチが残っていた。
さらに南下したH家。
前月に訪問した際に婦人が「ヨゴミダンゴを供えるから見てや」と云われていたので撮っておいた。
その家の筋にある家も送迎していた患者さんのA家はイチゴ農家。
嫁入りしたときの紛挽きは石臼であった。
手間をかけることもできなくなったことから城下町の小谷のモチ屋で挽いてもらっていたが、二年前に買った粉挽き機械で挽くようにしたと云っていた。
毎年、モチゴメ1に対してウルチのコメコが2の割合で3臼搗くと話していた婦人はこの年に搗いたヨゴミダンゴは150個。
御膳はなかったが、「接待のヨゴミダンゴが残ってもあれやから」と袋に入れてくださった。
帰宅後にすまし汁に入れたヨゴミダンゴをよばれた。
舌触りはたしかにダンゴである。
ヨゴミの風味が香ってくる。
立ち話をしていたら隣家のHさんが散歩から戻ってきた。
H家も南の座中の一人で、平成17年と平成21年の十月朔座にトーヤ(当屋)を務めたお家だ。
お世話になったお爺さんは平成24年11月に亡くなられたが、息子さんは存じていた。
トーヤのお渡り・儀式にはトーニンゴと呼ばれる孫さんがつくが、17年は大きくなった孫さんで、21年は孫さんの子供のひ孫であった。
たまたまではあるが、奇遇な取材であった。
当時の座中は北座が7軒で南座は18軒であったが、亡くなられた家もあって座中を辞退された家もある。
今では北座が5軒で南座は11軒になったと云う番条町の戸数は83軒。
最近になって1軒が入村したと云う。
H家の御膳はスティックブロッコリ-と豆の煮もの椀にタケノコ・シイタケ・ズイキ・サヤエンドウ・アゲサンの椀、汁椀にご飯盛り。
調理御膳にプチトマトも添えていた。
摂待モチはモチ米・ウルチ米が1対1の割合のヨゴミダンゴ。
隣家のA家のヨゴミダンゴよりも「少し堅いなぁ」と話していた。
H家は南の大師講。
A家もそうである。
南の大師講は毎月21日がヤド家に寄りあって大師和讃、地蔵和讃、三十三番ご詠歌を唱えていると云う。
昔はヤド家摂待の料理をよばれていたが、現在はお茶とお菓子になったそうだ。
北の大師講は取材させていただいたことがあるが、南の大師講はHさんのお爺ちゃんが亡くなられたことで遠慮していたが、次回にされるときには・・・とお願いをしておいた。
ちなみに南の大師講は4月と10月は寄りあうことはないそうだ。
10月はマツリで、4月は村のお大師さんということであるが、近くにある薮大師に講中それぞれがもつ旗を立てて開帳すると話していた。
Hさんは先ほど倒してきたばかりだと云う。
現認はできなかった南の薮大師には巡礼に訪れる人は少なかったようだ。
ところで南の大師講が薮大師に灯す廻りの御燈明箱がある。
昨年の8月20日の送迎中のことだ。
門屋内に御燈明箱を次の家に運んでいた婦人を見かけた。
S家のお嫁さんだった。
前日は当番だった。
役目を済ませた御燈明箱は廻りの隣家に持っていったのである。
その御燈明箱は所用で立ち寄った今年の3月9日にも拝見したのであった。
その時間帯は午後5時過ぎだった。
それより少し早い午後5時前。
お大師さんの出開帳は仕舞わずにまだ祭っている家があった。
二ノ正月のとんどを撮らせてもらったH家の御膳は乾物のシイタケ・煮たコーヤドーフにアゲサンの椀。
ヨゴミモチに白モチもあったが、吊るしていた干しガキも添えていた。
北垣内に戻る途中にあった御膳は煮もののカボチャに麩やササガキゴボウだ。
直立のタケノコもあるが、家人とはお会いできなかった。
最後に立ち寄った家は中谷酒造。
具合が悪かった会長も元気になられたようだと北の大師講中が話していた様子にほっとする。
調理御膳が生御膳に移っている家もあれば、ヨゴミダンゴが白モチに変化している各戸の現状は、数多く聞取りをしなければと思った。
御膳の「食」文化は家の暮らしや生活文化の在り方によってずいぶんと変化しているようだ。
一部だけの拝見では村の全容がまだ見えてこない。
昨今は犬の糞が気になってヨモギを採る場所も少なくなったとか、食材も満足に採れなくなった「食」の民俗は20年も経てばどうなっているのであろうか。
来年こそ、朝から夕方まで一軒、一軒訪ねてみたいと思った番条のお大師さんは調べることが多い。
(H26. 4.21 EOS40D撮影)
大和郡山市の旧村の一つに挙げられる番条町では昭和八年(1933)に残された由来書があり、文政十三年(1830)に流行病いのコレラが村内で発症したことが発端となって各家が弘法大師を信仰することになったと伝えられる。
村の申し合わせによって、四国八十八カ所巡りをした当時の人たち。
本尊を貰い受けて各家で祀ることになったと云う。
番条町のお大師さんを初めて知ったのは新聞に挟みこんでいたミニコミ誌の「ならリビング」だった。
平成17年4月8日に記載された読者推薦の「私のすてきな奈良の道」に書いてあった番条町のお大師さん。
全文は、「近場にて四国巡礼八十八カ所が一日で大願成就される。近鉄・JR郡山駅より徒歩20分で番条町です。4月21日は番条町のお大師様の日です。この町はほとんどが真言宗(お大師様)の信仰で各家が四国八十八カ所に相当する厨子を持っている。当日各家門前に厨子におさまったお大師様の木像が出開帳され、厨子の内扉に八十八カ所の寺名とご詠歌が朱書きされている。色とりどりの花が飾られ、子餅を供え、お詣りされた方々に供養に一つずつ取っていただく。毎年詣られる方、挨拶する人々、何とも言えぬ風情である。町中あげてこのような行事が今もなお行われているところはそんなにはないのでなかろうかと。仕事に追われての私。四国は遠いけれど、番条だったらお詣りできるかもと今年こそ、八十八カ所大願成就できますようにと。大和郡山市 郡山花子」である。
記載されていたお大師さんを祭る村の行事の様相をしりたくて伺ったのは、その年の4月21日だった。
記事に書かれていたとおりに各家の門屋に移していたお大師さんに感動したことは今でも覚えている。
その日にお参りに来ていた隣村の石川町の二人の婦人とともに同行する巡礼・・ではなく私は写真撮りに専念していた。
翌年の平成18年にはあるミニコミ誌が記事にした「ミニ遍路でご利益」として紹介した「春の大師祭」。
奈良新聞も記事にしたサブタイトルは「大師像に健康祈願 88戸の家々を巡る」であった。
平成21年には奈良日日新聞も「玄関に坐像や厨子 お大師さん参り」と紹介していた。
平成22年には大手の毎日新聞も「弘法大師の木像開帳 番条町内88カ所 ユニークな催し」記事をアップした。
平成24年ともなればNHK奈良放送局が朝から夕方まで取材されて特集の放映までされた。
今年は奈良テレビも取材に来ていたのである。
「ならリビング」に読者推薦されたのは番条町在住のOさんだった。
ミニコミ誌に掲載した名は「郡山花子」だったが、ご本人は男性だ。
公共報道等によって、「これほど広がり、お参りする人が多くなるとは思わなかった」と一昨年にお会いしたときに話していた。
番条のお大師さんは読者推薦記事よりも前の昭和63年に発刊された鈴木良編『城と川のある町-大和郡山歴史散歩-』の一編に記載(徳永光俊・記)されていた。
それには町内各家に祭られているお大師さんマップも載っていた。
今年の4月21日は昼過ぎまで送迎の仕事であった。
送迎患者さんのお一人は番条町の住民。
送迎に狭い道を通ろうとしたときの時間帯である。
8時40分ころにはすでに巡礼者が何人か滞在していた。
手を合わして摂待のコモチを手にしている人もおられる。
ある男性は百貨店の袋にモチを詰め込んでいた。
その後の11時前は治療した患者さんの送り。
この時間帯はさすがに多かった。
道は人で溢れかえっていた。
送迎の仕事を終えて一旦帰宅してから支度を調えて取材に向かった番条町。
これまで北垣内地区の調査を進めてきた。
到着したのは午後2時半だった。
取材時間は短時間になるが狙いは南垣内だ。
そちらに向かう道すがら。
北の大師堂におられた婦人たちは北の大師講の婦人たちだった。
一時間交替で摂待していた講中もその時間には店仕舞い。
講中の一人である萱葺き大和棟のS婦人もおられた。
平成23年4月18日に取材させていただいた北の大師講では導師を勤められた婦人だ。
たまたま一週間前にカメラのキタムラでお会いした婦人の次男さんが「おふくろも親父も元気なんで、うちにも来てや」と云われていた。
カメラのキタムラに来られていたのは写友人からいただいた写真の焼き増しであったが・・・・うーんと唸るしかない映像。
美しく撮られているが、被写体は・・・うーんである。
それはともかくお家に案内されて久しぶりにお会いした親父さんは笑顔で迎えてくれる。
北垣内のS家の親父さんはおふくろさんとも90歳。
お元気な姿で歓迎してくれる。
同家の御膳は煮もののシイタケ・ニンジン・コーヤドーフ椀などにご飯盛り。
摂待モチは白モチであるが、かつてはヨゴミダンゴだったと話す。
同家から南下した中垣内で祭っていたお家の御膳はタケノコが直立だ。
シイタケ・麩は乾物。
ご飯も洗米に生小豆を盛っていた。
摂待モチはたばった人が貰っていかれたのか、風で飛ばないように重しを敷いていた。
重しの石がなぜかヨモギダンゴに見えた。
ここら辺りの昼前は大勢の巡礼者が来られていたが、午後3時ともなる時間帯はごくわずかだった。
隣家の御膳も直立させたタケノコに洗米、乾物、お菓子などがある。
さらに南下して、翌々日も送迎させてもらったS家は南垣内の元大庄屋家。
早々とやってきたツバメは門屋に巣を作っていた。
S家は、萱葺き大和棟のS家と親戚筋にあたる。
元庄屋家のS家から嫁いだ女性はS家の大ばあさんだったと聞く。
元庄屋家のS家に建つ2階建ては離れの屋敷。
1階が10畳で、2階は20畳もあるお屋敷。
かつて番条村が水ツキになったことがある。
そのことがあって集落住民が避難できるように建てたと聞いている。
S家の御供にヨモギモチがあった。
かつては家で米粉を挽いてヨモギダンゴを作っていたが、「ヨモギを採るのもたいへんやし、ダンゴ作りも手間がかかる」と云ってしなくなった。
それで白モチに替えたとお嫁さんが話していた。
たまたまこの日に供えたヨモギモチは京都で買ったものだと云う。
御膳に調理した白和えやシイタケ・ワラビの煮ものに炊いたお豆さんにご飯も盛っていた。
お嫁さんの話しによれば、北や中垣内のお大師さんの御膳はほとんどが調理しない生御膳。
当地に到着したときは北の集落を巡っていた婦人。
ぐるりと廻って集落全戸の膳を見てきたと云う。
S家は11軒で営む南垣内の座中のひとつ。
昨年の十月朔座ではトーヤ(当屋)を務めたそうだ。
さらに南下して南の阿弥陀院へ向かう。
すぐ傍の民家はH家では門屋の前で飾っていたお大師さんの御膳。
直立のタケノコに乾物のシイタケの煮たコーヤドーフ椀にゼンマイ・アゲサンの煮もの椀、黒豆椀にご飯盛りに箸も。
こうした御膳の椀は家によってまちまちで、朱塗りもあれば黒塗りもある。
花飾りに昨今珍しい麦の穂もあった。
家人の話しによれば裏の田で栽培した大麦だそうで、食糧ではなく生け花用。
この日にお参りされた人が懐かしそうに話していたのであげたと云う。
一軒、一軒巡っておれば、なかなか阿弥陀院に到着しない。
本堂前に安置したお大師さんはお寺の所有物だ。
にこやかな姿のお大師さんは各戸で安置されているお大師さんよりもはるかに大きい。
2年ぶりにお会いした住職と母親との長話。
そのころやってきたご近所の男性。
寺で祭ってもらったお大師さんは「持って帰るわ」と云われて厨子ごと風呂敷に包まれた。
そういえば、阿弥陀院で預かっているお大師さん・厨子は六体のはずだ。
数えてみれば七体であったのだ。
六体はかつて村を離れた家の預かりもの。
持ち帰る一体はこの日だけの寺預かり。
男性の話しによれば、身体が不自由になった奥さんは医療機関で診療の身。
「家に戻られへんから心配やねん」と寺に相談をもちかけたところ、ご厚意で阿弥陀院の六体とともに並べてもらっていたと云う。
そうすることによって、「参拝者がお参りしてくれるから、ありがたい」と医療機関で手を合わしていたと云う。
「一人やもめじゃ世話できんかったけど、助かった」と云いながら帰っていった。
南垣内の端にはまだ着かない午後4時。
参拝者の状況をみて早くも屋内に戻した家もあるが、5時ころまでこうして祭っている家もある。
格子扉の横に祭った家では御膳はなく、接待の白モチが残っていた。
さらに南下したH家。
前月に訪問した際に婦人が「ヨゴミダンゴを供えるから見てや」と云われていたので撮っておいた。
その家の筋にある家も送迎していた患者さんのA家はイチゴ農家。
嫁入りしたときの紛挽きは石臼であった。
手間をかけることもできなくなったことから城下町の小谷のモチ屋で挽いてもらっていたが、二年前に買った粉挽き機械で挽くようにしたと云っていた。
毎年、モチゴメ1に対してウルチのコメコが2の割合で3臼搗くと話していた婦人はこの年に搗いたヨゴミダンゴは150個。
御膳はなかったが、「接待のヨゴミダンゴが残ってもあれやから」と袋に入れてくださった。
帰宅後にすまし汁に入れたヨゴミダンゴをよばれた。
舌触りはたしかにダンゴである。
ヨゴミの風味が香ってくる。
立ち話をしていたら隣家のHさんが散歩から戻ってきた。
H家も南の座中の一人で、平成17年と平成21年の十月朔座にトーヤ(当屋)を務めたお家だ。
お世話になったお爺さんは平成24年11月に亡くなられたが、息子さんは存じていた。
トーヤのお渡り・儀式にはトーニンゴと呼ばれる孫さんがつくが、17年は大きくなった孫さんで、21年は孫さんの子供のひ孫であった。
たまたまではあるが、奇遇な取材であった。
当時の座中は北座が7軒で南座は18軒であったが、亡くなられた家もあって座中を辞退された家もある。
今では北座が5軒で南座は11軒になったと云う番条町の戸数は83軒。
最近になって1軒が入村したと云う。
H家の御膳はスティックブロッコリ-と豆の煮もの椀にタケノコ・シイタケ・ズイキ・サヤエンドウ・アゲサンの椀、汁椀にご飯盛り。
調理御膳にプチトマトも添えていた。
摂待モチはモチ米・ウルチ米が1対1の割合のヨゴミダンゴ。
隣家のA家のヨゴミダンゴよりも「少し堅いなぁ」と話していた。
H家は南の大師講。
A家もそうである。
南の大師講は毎月21日がヤド家に寄りあって大師和讃、地蔵和讃、三十三番ご詠歌を唱えていると云う。
昔はヤド家摂待の料理をよばれていたが、現在はお茶とお菓子になったそうだ。
北の大師講は取材させていただいたことがあるが、南の大師講はHさんのお爺ちゃんが亡くなられたことで遠慮していたが、次回にされるときには・・・とお願いをしておいた。
ちなみに南の大師講は4月と10月は寄りあうことはないそうだ。
10月はマツリで、4月は村のお大師さんということであるが、近くにある薮大師に講中それぞれがもつ旗を立てて開帳すると話していた。
Hさんは先ほど倒してきたばかりだと云う。
現認はできなかった南の薮大師には巡礼に訪れる人は少なかったようだ。
ところで南の大師講が薮大師に灯す廻りの御燈明箱がある。
昨年の8月20日の送迎中のことだ。
門屋内に御燈明箱を次の家に運んでいた婦人を見かけた。
S家のお嫁さんだった。
前日は当番だった。
役目を済ませた御燈明箱は廻りの隣家に持っていったのである。
その御燈明箱は所用で立ち寄った今年の3月9日にも拝見したのであった。
その時間帯は午後5時過ぎだった。
それより少し早い午後5時前。
お大師さんの出開帳は仕舞わずにまだ祭っている家があった。
二ノ正月のとんどを撮らせてもらったH家の御膳は乾物のシイタケ・煮たコーヤドーフにアゲサンの椀。
ヨゴミモチに白モチもあったが、吊るしていた干しガキも添えていた。
北垣内に戻る途中にあった御膳は煮もののカボチャに麩やササガキゴボウだ。
直立のタケノコもあるが、家人とはお会いできなかった。
最後に立ち寄った家は中谷酒造。
具合が悪かった会長も元気になられたようだと北の大師講中が話していた様子にほっとする。
調理御膳が生御膳に移っている家もあれば、ヨゴミダンゴが白モチに変化している各戸の現状は、数多く聞取りをしなければと思った。
御膳の「食」文化は家の暮らしや生活文化の在り方によってずいぶんと変化しているようだ。
一部だけの拝見では村の全容がまだ見えてこない。
昨今は犬の糞が気になってヨモギを採る場所も少なくなったとか、食材も満足に採れなくなった「食」の民俗は20年も経てばどうなっているのであろうか。
来年こそ、朝から夕方まで一軒、一軒訪ねてみたいと思った番条のお大師さんは調べることが多い。
(H26. 4.21 EOS40D撮影)