マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大宇陀平尾のナワシロジマイ

2016年02月03日 09時06分08秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
昨年の11月にアズキオトシを取材させてもらった宇陀市大宇陀平尾の住民。

4月半ばの休日に苗代を作ると聞いていたので再訪した。

到着した時間帯は苗代作業の進行中だった。

苗代は穴あきシートを敷き詰めている。

育苗機で育てた苗箱を一輪車に積んで運ぶ当主。



受け取った婦人らは苗箱を下して整然と並べていく。

夫婦二人だけで作業するには時間がかかる。

盆地平坦に住んでいる娘夫婦を呼んで手伝ってもらう。



苗箱は何度も何度も運んで並べた。



苗が黄色いのは育苗機での日焼け。

お天とさんにあたって、幾日か時間も経てば落ち着く。

昔の苗代田は籾を直播きしていたという住民。

「スリヌカ」をした「焼きヌカ」を撒いて育苗していたそうだ。

「スリヌカ」とは聞きなれない言葉。

「ウスヒキする」ことを「スリヌカ」と呼んでいたようである。

直播きを終えたら「アブカガミ」を被せた。

育苗した苗は田植えをする。

苗さんを水で洗って田に放り投げるのは父親の仕事。

放り込まれた苗を手にして田に植える作業は母親の仕事。

6本ずつ手にした六条植えだった。

宵のうちから準備していた苗は苗籠に入れて運ぶのも男の仕事だったという。



前日までに準備していたすべての苗箱を並べ終えたらジョウロで水を撒く。

民家は苗代田の一段上。



奥の杉林がえー景観だったので撮っておいた。

苗代作りが終われば家の儀式が始まる。

儀式といっても形だけで手を合わせて拝むことはない。

用意された稲藁の束は三つ。

先を尖がらしたススンボの竹は十数本。



「これって一体なんですのん」と尋ねれば「マクラ」と「カキ」だという。

かつて「マクラ」は麦藁で作っていた。

「カキ」を充てる漢字は「垣」のようだからおのずと形が見えてきそうだ。

「マクラ」は「ミズグチ(水口)」の入口と出口に置く。

両方の役目があることから「ミズグチ(水口)」は、そのときの水が流れる状態から「イリグチ」若しくは「デグチ」の名もある。

「マクラを立てといてや」と母親が云えば、いつも父親が立てていたという。



「ミズグチ(水口)」の入口と出口に「マクラ」を置いて、×印のような恰好で「カキ」を仕立てる。



三つめの「マクラ」は苗代田にいちばん見やすいところに置く。



ちなみに「ミズグチ(水口)」の入口に注がれる谷水は「カイショ」と呼ぶ水の溜め場から水を引く。



「カイショ」は谷から水を引き込む水路の水が一挙に流れない構造の「カエシ」のことだと思った。

奥さんは家の神棚に奉っていた「ナエ」を取り出す。



「ナエ」は1月18日に行われる平尾の御田植祭(オンダ)で初乙女(しょとめ)(植女とも)が持っていたオンダのナエだ。

カヤが2本。

「スベ」と呼ばれる「穂」を付けた数本のカヤ枝もある。

シキビは3枚、5枚、7枚の葉がある3本組。

それには「カミ」と呼ばれる紙片がある。

これを「ゴヘイ」と呼ぶが本来の名は「ハナ」だそうだ。

これらを12本1組にして半紙でくるんで、紙縒(こより)で結ぶ。



庭に咲いているお花を摘み取って苗代田に降りた。

参考までに初乙女が手にしている「ナエ」はこれだ

本当はご主人がされる「ナエ」立て。

この年は奥さんがすることになった。

この日はきついピーカン照りだった。



映像は夏日のような色褪せた写真になってしまった。

苗代田に白いホロを被せて日焼けを防ぐ。



風でめくられんようにしっかり押さえて重たい木で抑える。

「ナエ」は2本。

ひとつは孫さんがつとめた初乙女(しょとめ)ときに授かったもの。



黄花のスイセンや赤・白のチューリップにスノードロップなど庭に咲いていたイロバナで添えた。

夫妻の平日は一般的な仕事人。

休みのときしか苗代作りができない。

240枚のキヌヒカリ・苗箱は3週間に分けて苗代田に並べている。

本来ならすべての苗代作りを終えてから「ナエ」を立てる。

それゆえ、これを「ナワシロジマイ」若しくは「ナワシロマキ」と呼んでいる。

以前は籾種を落として苗箱を作っていたので「ナワシロマキ」と呼んでいた。

今回の取材で判ったことは、苗代作った最後に「マクラ」立てをされ豊作の祈りと考えられるので「ナワシロジマイ」の表現が相応しい。

が、育苗する苗代から苗箱を運んで田植えがある。

そのときになってようやく苗代は役目を終えて解放される。

そういう意味もあるから「ナワシロジマイ」の呼び名になったのだろう。

キリのえーとこで昼食を摂る。

食事の場で提供される話題はいろんな方向に飛び交う多彩な内容だった。

まとまりがつかないよもやま話は脈略もなく思い出しもあってあちこちに飛んだ。

まずは村の神社行事。

3月は積んだヨモギの若葉でヒシモチを作っていた。

5月はチマキを供える。

これらを作って平尾の水分神社に供えるのは大当(大頭とも)の役目。

小当(小頭)が刈った3本括り、2本括りのメガヤを六社に供えた。

「ヨゴミ」はヨモギの訛り言葉。

奈良県内ではよく耳にする「ヨゴミ」である。

そのヨゴミができたならヒシノモチ(ヒシモチ)を作る。

大きな枠に入れてこしらえたヒシノモチは4社に供える。

コミヤ(小宮)さんも含めた4社であるが、コミヤに供えるヒシノモチは他より小さいモチだった。

ヒシノモチはトーヤの分も作った。

カヤが出だしたころに三つずつのヒシノモチを3社それぞれに供える。

今までは七つずつだった。

3社に供えるから21個も揃えたそうだ。

8月31日の夜は八朔のお籠り。

オトヤ(大当)にコトヤ(小当)決めのフリアゲをしている。

夜中に泊まる八朔の籠り。

目が覚めた籠りの場から学校に出かけたそうだ。

今では泊まることもない籠り。

当時は家の布団を持ち込んでいた。

マツリの際してオトヤとコトヤは宇陀川に出かけた。

川にある小石を拾って宮さんに供えた。

小石は一個ずつ。朝早くに起こされて川に出かけた。

小石を拾って急ぎ足で戻った神さんごとの習わしは子供も一緒に籠っていたのである。

小石拾いで思いだされた「オシライシ」。

吉野地方では亡くなった人が先祖帰りをすると云って川に入った。

流れる川にある綺麗な石を拾って参ったら人が生き返ったと話す。

「オシライシ」と呼ぶ石は「白石」だったと話す。

人づてに聞いた奇譚だと思うが、興味ある民俗の分野でもある。

9月第3日曜日は神送り。

その行事を行ってから「ゼンショサン」に登って参る。

登った場は綺麗に清掃する。

そこに参って御供を供えるのはオトヤとコトヤだ。

「ゼンショサン」は同家の管理下にある山に鎮座する。

ホラ貝を吹けば村の人が集まってくる。

区長の引継ぎ事項にあるようだ。

もう一つの神さんごとがある。

「ハツオジサン(八王子かも)」の「ゴンゲンサン(権現であろう)」である。

7軒の垣内が祭りをしているという。

5月は牛に付けたマンガンを引っ張ってマンガ掻き。

6月は田植え。

平尾の田植えが終われば、国中平坦に雇われて田植えをしに行った。

雇われたのは村の女性だった。

国中平坦の住民から牛を貸してくれと云われたが親父は断った。

平坦地は大和郡山や天理に田原本町だった。

頼まれた牛遣いは朝に出発して昼頃に着いた。

榛原には牛を売買する処があった。

「市」にかけるときはちゃんちゃんと歩ける牛がいた。

ちっちゃい牛は親牛も一緒に連れて散歩するような感じで歩かせた。

ホンヤ(本屋)の右を入った処に牛小屋があった。

家族同然に暮らしのなかに溶け込んだ牛小屋にいたのが農耕する飼牛だった。

小学校に行くまでの時代は親の手伝いにマンガ掻きをしていた。

田んぼの田起こしにカラスキも曳かせた。

端っこまで行ってくるりと回すときの「牛は動きまへんねん」とご主人が話す。

ちっちゃいときやった。

そのときは親父に助けを求めて呼んだ。

学校から帰ってきたとき。酒を水で薄めた。

その水で牛の背中を刷毛で掃いて綺麗にした。

酒を水で薄めるのは小学3年生のときに教わった。

昭和14年生まれのご主人。

高校生のころというから今から57年前の昭和33年。

田を耕す牛がいたのはそのころだ。

漬物を桶から出した。

漬物を切って皿に盛った。

テーブルに置くまでの一連を「ハヤス」という。

煮炊きしたコーヤド-フも皿に盛るときを「ハヤス」という。

親から「はやしとくれさ」と云われた子供はお皿をお膳に移していた。

そのような話しを聞きながら夫婦もてなしの料理をいただく。

ご飯はキヌヒカリ。

アキタコマチよりもキヌヒカリが美味しいという。



豆腐とワカメを入れた味噌汁も美味しいが、小皿に盛った大和マナの辛子味噌和えが美味すぎる。

一品はウコン漬けのコウコ。



これらは奥さんの手料理だ。

一方、パックに詰めた料理は手作り弁当屋さんのお弁当。



エビやイカのフライにサツマイモ天ぷら、焼き塩鮭、ニヌキ卵、茹でエビ、シイタケ、ゴボウ、大和マナの辛子味噌和えなどだ。

再び始まった作業はモミオトシ。

平日は仕事をしているのでどうしても休日にせざるを得ない苗代作り。

苗箱の土入れは予めしておいた。

籾は消毒剤に一昼夜浸けておく。

籾の品種は「アキツホ」だ。

培養土と籾を入れる口はそれぞれ二つ。



コンベアに乗せて機械を動かす。

かつては手回しだった機械。

今では電動で動く機械。

型番のSR122KWJからクボタ社製のニューきんぱだった。

この機械、モミオトシと同時に消毒剤を注いでいる。

籾が毀れて培養土で覆う。



出てきた苗箱は育苗機の棚に納めていく。

これを繰り返すこと86枚。

最大108枚を育苗する期間は5日間。



設定温度を30度にしたそうだ。

翌週の休日は3度目の苗代作りをされる240枚の苗箱は3回区分け。

すべてを終えるには3週間もかかる。

この日の作業を終えたのは午後3時。

朝から始めてやっと一息つくおやつの時間。



話題は方言に移った。

大和言葉と思われる方言があれやこれや出る。

「チョナワ」は「ミズナワ」と呼ぶ。

一丁の長さの板を「アユミ」と呼んでいる。

「オゴロ」は「モグラ」だ。

「アワイサ」、「ハンダイ」、「ハンザイコ」・・。

どれもこれも同じ意味。

「アワイサ」は「ヒャワイサ」ともいうちょっとした「間(空間)」を意味する。

例えば家と家の間。雨がかからない程度の間は傘も要らない隙間。

そこを「ヒャワイサ通り」という。

後日テレビで紹介していた三重テレビ放送の「ええじゃないか」。

江戸川乱歩生誕地の名張市でも同じように人一人が通れるような狭い道を「ヒャワイサ」と紹介していた。

平尾住民の「ヒャワイサ」事例でもちょっとした間。

「ヒャワイサにいれといて」とか「花火がヒャワイサに見える」とかの用語に使われるらしい。

お葬式に「テンガイモチ」があった。

「テンガイ」の文字は「天蓋」であろうが、どのような形であったか聞きそびれた。

30年前にこの地でツキノワグマが出没した。

出没した「モチヤマ」へ行く道は通行止めになったが熊を探しに行った。

その件は新聞で紹介された。

「ヨンナイ」でと子供に云っていたらしい。

カキの実を採る棒は「ハサンバリ」と呼ぶ。

ワラビの葉。大きく育ったワラビを「ホトロ」と呼ぶ。

「ホトロ」がある処は翌年もワラビが芽だしをする。

吉野町では枯れた「ホトロ」を水に浸けて炊く。

それに収穫した柿を浸けてシブ(渋)を抜く。

平尾では「カラシヤ」と呼んでいた「カラウス」。

米を搗くことから「コメツク」とも呼んでいた。

これを娘さんが嫁いだ結崎では「コメフム」と呼ぶ。

「フム」は足で踏む。

「ツク」は米を石臼で搗く。

カラウスの状態を見る角度が違えば呼び名も変わるということだ。

「ナガタン」は菜切り包丁。

「ナバ」は「テバ」・・・とか、ツメを立てて傷が入ったことで消えたツルシガキなど尽きない話題提供は他にもいろいろあったが、ここでは文字数が多くなることから省いておく。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)