天気予報によれば正月三が日は三日とも晴れになると伝えていた。
予報通りになった今年の正月は温かくて気持ちが良い。
例年と違って車は運転できない、取材に出かけることもない正月だが、毎年の初詣は欠かせない。
奈良市石木町に鎮座する登弥神社へは自宅から歩いて500歩ほどで着く。
歩いた先に大灯籠がある。
その前は大きく抉ったカーブ。
一旦停車地帯ではないが、見通しがは悪いからカーブミラーで前方を走って車を現認してから発車する。
そこに住民が利用している奈良交通バスが停まっていた。
バスの前には軽自動車がある。
普通ならバスの前の車はこっちに向かって走ってくるのだが、一向にそういうそぶりを見せない。
そのうちこっちからもあっちからも車が走って来て糞詰まり。
回避するのも難しい県道でたちまち往生する車で渋滞するのだ。
困った人たちが運転する車で歩行する私たちは端っこに寄らなければならない。
困ったものだ。
バスも軽自動車も動く気配はまったくない。
その場を通り過ぎようとしたら大量のガラス片が道路に散らばっていた。
軽自動車の後方の窓ガラスは粉々。
バスは、といえば運転手側の角が若干の凹み擦り傷。
どうやら交通事故のようだが・・・。
バスが向かう先は事故地点より数百メートル。
目と鼻の先にある木島(このしま)停留所だ。
乗客を乗せたバスは次の旭ケ丘、自由ケ丘などに向かう。
はずだった。
バスの発着時間から推定するにほんの数分前に発生したトラブルのようだ。
そこから参道の階段を登っていけば氏神さんに行きつく。
文政年間(1818~)に建てた鳥居前の大燈籠や天明八年(1788)に建てた階段途中にある燈籠には「盃状穴(はいじょうけつ)」がある。
昨年、初めて知ったまじない風習痕である。
今年の参道は遠く感じる。
心臓の脈拍は40拍。
腰は怠く、息切れする。
何度も何度も休憩をとって登壇する。
大正15年4月生まれのおふくろはかーさんとともに先に着いて参拝していた。
神職や奈良市石木町・大和田町に大和郡山市城町の大字総代の3人は一般参賀を迎えてくれる。
二人がトンドにあたっていた時間帯は、改修事業で発見された数々の史料の記念展示品を拝観していた。
改修事業は平成25年10月から始まった本殿などの再建工事である。
登弥神社の二社殿は檜葺き。
消失した翌年の文政四年(1821)に再建された。
近年は老朽化が激しく、平成25年2月の大雪で檜葺きは損壊。
応急措置で繋いでいたが200年も経過する社殿は彩色も剥がれていることから平成の再建を決断されたのだ。
再建工事は平成26年9月に終えて、新しくなった社殿に神遷しがなされて初めての正月を迎えることになった。
再建工事中に発見された史料は床下から出土したという。
文政七年(1824)の記銘がある棟札は「奉祈壽命長遠」、「小和田村 神主吉村越俊正 棟梁 山中藤兵衛・・」他5人の大工人の名がある。
前述したように昨年に村総代から聞いていた再建年代は文政四年(1821)だったが、棟札は文政七年(1824)である。
つまり発願されてから再興するに3年間もかかっていたのである。
ということは、前述した鳥居前の大燈籠はその再興時に建てたのであろう。
天保五年(1834)の平太鼓は太鼓皮が破れて中に墨書があった。
神職の話しによれば「南都西坂」の文字があることから「西坂」に住む人が作ったのでは・・という。
その右下には「寛保元年(1741)九月十六」より記された「算用帳」がある。
「木島大明神算用帳」は天保十三年(1842)の記銘がある帳箱に納めてあったようだと話される。
他にも出土した貴重な史料があるようだが、この日はここまでだ。
(H28. 1. 2 SB932SH撮影)
予報通りになった今年の正月は温かくて気持ちが良い。
例年と違って車は運転できない、取材に出かけることもない正月だが、毎年の初詣は欠かせない。
奈良市石木町に鎮座する登弥神社へは自宅から歩いて500歩ほどで着く。
歩いた先に大灯籠がある。
その前は大きく抉ったカーブ。
一旦停車地帯ではないが、見通しがは悪いからカーブミラーで前方を走って車を現認してから発車する。
そこに住民が利用している奈良交通バスが停まっていた。
バスの前には軽自動車がある。
普通ならバスの前の車はこっちに向かって走ってくるのだが、一向にそういうそぶりを見せない。
そのうちこっちからもあっちからも車が走って来て糞詰まり。
回避するのも難しい県道でたちまち往生する車で渋滞するのだ。
困った人たちが運転する車で歩行する私たちは端っこに寄らなければならない。
困ったものだ。
バスも軽自動車も動く気配はまったくない。
その場を通り過ぎようとしたら大量のガラス片が道路に散らばっていた。
軽自動車の後方の窓ガラスは粉々。
バスは、といえば運転手側の角が若干の凹み擦り傷。
どうやら交通事故のようだが・・・。
バスが向かう先は事故地点より数百メートル。
目と鼻の先にある木島(このしま)停留所だ。
乗客を乗せたバスは次の旭ケ丘、自由ケ丘などに向かう。
はずだった。
バスの発着時間から推定するにほんの数分前に発生したトラブルのようだ。
そこから参道の階段を登っていけば氏神さんに行きつく。
文政年間(1818~)に建てた鳥居前の大燈籠や天明八年(1788)に建てた階段途中にある燈籠には「盃状穴(はいじょうけつ)」がある。
昨年、初めて知ったまじない風習痕である。
今年の参道は遠く感じる。
心臓の脈拍は40拍。
腰は怠く、息切れする。
何度も何度も休憩をとって登壇する。
大正15年4月生まれのおふくろはかーさんとともに先に着いて参拝していた。
神職や奈良市石木町・大和田町に大和郡山市城町の大字総代の3人は一般参賀を迎えてくれる。
二人がトンドにあたっていた時間帯は、改修事業で発見された数々の史料の記念展示品を拝観していた。
改修事業は平成25年10月から始まった本殿などの再建工事である。
登弥神社の二社殿は檜葺き。
消失した翌年の文政四年(1821)に再建された。
近年は老朽化が激しく、平成25年2月の大雪で檜葺きは損壊。
応急措置で繋いでいたが200年も経過する社殿は彩色も剥がれていることから平成の再建を決断されたのだ。
再建工事は平成26年9月に終えて、新しくなった社殿に神遷しがなされて初めての正月を迎えることになった。
再建工事中に発見された史料は床下から出土したという。
文政七年(1824)の記銘がある棟札は「奉祈壽命長遠」、「小和田村 神主吉村越俊正 棟梁 山中藤兵衛・・」他5人の大工人の名がある。
前述したように昨年に村総代から聞いていた再建年代は文政四年(1821)だったが、棟札は文政七年(1824)である。
つまり発願されてから再興するに3年間もかかっていたのである。
ということは、前述した鳥居前の大燈籠はその再興時に建てたのであろう。
天保五年(1834)の平太鼓は太鼓皮が破れて中に墨書があった。
神職の話しによれば「南都西坂」の文字があることから「西坂」に住む人が作ったのでは・・という。
その右下には「寛保元年(1741)九月十六」より記された「算用帳」がある。
「木島大明神算用帳」は天保十三年(1842)の記銘がある帳箱に納めてあったようだと話される。
他にも出土した貴重な史料があるようだが、この日はここまでだ。
(H28. 1. 2 SB932SH撮影)