大晦日に砂モチをしていると思われた宮津の白山神社に行く。
京都府の宮津といえば日本三景の天橋立を思い起こすが、出かけた先は京都府北部、日本海に面する宮津市ではない。
京田辺市にある大字宮津である。
カーナビゲーションにセットして到着した宮津宮ノ口白山神社。
宮ノ口区に鎮座する。
ある人がブログにアップしていた「撒き砂」はここであろう。
ブログの写真では大小それぞれの大きさで砂絵を描いていた。
そのすべては円形である。
どういう具合で作っているのか、それも知りたい砂撒き習俗。
地区神社の年中行事と思えるが、境内には誰一人とおられない。
同行する写真家Kさんとともに境内にある民俗の何がしかを探してみる。
はじめに目についたのは神社の社伝由緒の立札。
「現在の西宮神社(西宮のえべっさん)から勧請された」とあるが、現在の西宮神社は果たしてどこであろうか。
「西宮のえべっさん」と言えば、全国えびす宮総本社の兵庫県西宮市社家町に鎮座する西宮神社であろう。
社伝由緒では「継体天皇が筒城宮(つつきのみや)にいたこと」とあるから、古き時代の勧請である。
それゆえ、かつては夷社、蛭子社といった、とあるが、いつの時代になるのか記されていないのでわからないが、現在の社名は白山神社である。
で、あるが鳥居に掲げる扁額は「蛭子大神宮」である。
鳥居横に立つ石灯籠。
お参りにくる人が多いのか、灯したローソクの蝋が溶けて流れた痕跡がある。
あまりの多さに溶けた蝋でお山ができるくらいだ。
その灯籠に年代記銘を示す刻印があるらしいが、判読できなかった。
立札に書いてあった建之時代は「永享五年(1433)」。
かつて神宮寺であった法雲寺(廃)にあったものと推定されている。
真言宗であった法雲寺は廃仏毀釈から逃れるために本尊の十一面観音菩薩立像(平安後期作)を浄土宗の西念寺に預けたが、いつしか本堂が崩れる状態になり、本尊を修復することになった。
そのために京都国立博物館に預けられたそうだ。
そのようなことを書いてあった立札に「朔日講の神楽」がある。
毎月の1日に行われる講の行事であるから「朔日」講。
今では月初めの第一日曜日に移っているようだ。
ただ、「・・・など」とあるのが気になるが・・。
境内をぐるりと廻ってもう少し探してみる白山神社の民俗。
神社を右へ右へと行けば山というか、崖のような場に石造りの家型ヤカタが見つかる。
うち、右の一社は内部に家型埴輪のようなものが収まっている。
二つとも竹に挟んだ幣を立てている。
この社はなんであろうか。
反対に左側も巡ってみる。
そこにあった木造りの社にも幣がある。
磐というか石の上に建てたと思われる小社もわからないが、気になるのは下、周辺に竹幣があるということだ。
その本数を数えてみれば12本。
なんとなく一年の月数を表しているように思える。
境内の民俗はもう一つある。
本社殿より右の位置に七・五・三の注連縄が張っている場である。
社殿より外れた処にあるから祓戸の地。
そう思ったのであるが・・遥拝所と知ったのはそれから半年後である。
ある程度はわかるが本質的なことは地元民に聞くのが一番である。
そう思って神社付近の民家を訪ねる。
アテはまったくない。
町を歩く人もいないので呼び鈴を押さざるを得ない。
奈良県内であれば畑を巡って村の人を探せば、だいたいが見つかる。
ここ宮津ではまったく人に遭遇しなきから呼び鈴を押させてもらう。
玄関から出てこられた婦人に尋ねた結果は・・。
旦那さんはかつて長老八人衆を務めたことがあるという。
それなら話は早い。
具体的な行事も教えてくださるだろう。
ここ宮津・白山神社の年中行事はいくつほどあるのかわからないが、この日に知った朔日講もあれば、砂撒きも、だ。
まずは立札に書いてあった朔日講である。
朔日講は8人で構成する神社の宮守さん。
昔は長老が担っていたが、年齢が順番に下って現在は若手の人たちで構成しているという。
毎月の第一日曜日は朔日講の所作がある。
太鼓を打って擦り鉦を鳴らす。
朝の7時にしているという。
砂撒きは奈良県内事例と同じように境内に砂が一年間のお参りに減ってしまう。
それを補充するのが目的の砂撒きの砂は神社の山にある山土を掘りだして撒いているそうだ。
川砂でなく山土であった宮津の砂撒きは12月30日か大晦日の31日にしているようだ。
神社境内に砂は撒くが、民家はどうであろう。
それも聞いてみた。
結果はお家に撒く家もあったという。
それがいつしか撒いた砂に滑って危ないという話しになってどの家もしやんようになったという。
安全性をとったのかよくは覚えていないともいう。
当時は舗装した集落の道にも撒いていたそうだ。
家でしていたころもそうだが、砂撒きはどこでも円形に撒く。
箕に砂を盛って人がくるくる廻りながら砂を撒くから半月形。
ぐるりと一周したら円形になるという。
もっと詳しいことはこの本を見ればわかるだろうと見せてくれる。
一冊は昭和59年10月に京都府立山城郷土資料館が展示図録として発刊された『祈りと暮らし』である。
もう一冊は京都府教育委員会が昭和50年3月に発刊した『京都の民俗芸能』である。
宮津に関係する記事は『祈りと暮らし』に「オンゴロドン」がある。
『京都の民俗芸能』は白山神社の「朔日講の神楽」だ。
「オンゴロドン」とは不思議な名称であるが、すぐにわかる。
「オンゴロドン」は奈良県内でもその名でいう人は多い。
特に80歳前後の高齢者からよく聞いた「モグラ」のことである。
「オンゴロドン」は地区の子どもらが藁棒で地面を打って「オンゴロ(モグラ)」を追い払うという行事である。
奈良県内行事でいえば亥の子の槌打ちと同じような行事である。
『祈りと暮らし』に記載してある「オンゴロドン」の詞章は「オンゴロドン ウチニカ ヨコヅチドンノ オンマイジャ オマケ オマケ オマケ」とあった。
「朔日講の神楽」はK夫妻が話す形態以上に書いてあった。
付記するならば「太鼓・鼓に大小のミョウハチ(鐃鈸)」である。
毎月の1日(現在は第一日曜)であるが、4月は3日の行事に、10月は17日のマツリに行われるようだ。
また、16日のヨミヤには各戸を一軒、一軒巡って神楽を舞い、鈴をいただかせる風習があると書いてある。
宮津の神楽については何の伝承もなく、僅かに太鼓の胴に「文化四甲戌年(1807)と見えるだけだと書いてある。
ところが、だ。文化四年は「丁卯」。
「甲戌」年はあり得ない。
「甲戌」年であれば文化十一年(1814)が正しい。
拝見できる機会があればどちらが正しいのか確かめてみたいものだ。
Kさんはかつてしていた行事の在り方を思い出した順にいろいろと教えてくださる。
断片的情報であるが列挙しておく。
正月やマツリの日に供える魚に生きた鯉がある。
鯉は三尾。
宮守さんは烏帽子を被って袴を着用する。
マツリの日は朱智神社の宮司を迎えて行われる。
朱智神社は京田辺市の天王の地にある。
朔日に神楽をあげる。
祝詞をあげるときに神楽をあげるそうだ。
正月もマツリの日も朔日神楽をする。
長老にあたる人が鈴舞いをする。
お日待っちゃんがある。
オンゴロドンもある。
ナワで庭を打つ。
集落各戸を巡る。
成人の日の前日の1月14日の晩に巡る。
オンゴロドンをして宮さんにくる。
そこで左義長のように燃やす。
来年の平成29年は1月8日若しくは日曜になる。
巡るのは小学生の男の子。
子どもが少なくなったら幼稚園児も加わってしている。
門松立ては8人の宮守がする。
一番若い人で50歳代。
昔と違って若返ったなどさまざま行事情報である。
話しは盛り上がって氏子総代の母屋のMさんを呼び出してもくれた。
K家を訪ねる前に神社で拝見した12本の幣はいったい何なのか、聞いてみた。
小社の真ん前はなにもないが、左右横と裏側にそれぞれ4本の幣がさしてあったこの小社は何なのか。
神さんの名は「サセコサン」と呼んでいる。
「サセコサン」は一体何の神さんなのか、わからないが、1月10日に行われる宮守8人衆のうち、一番長老になる村神主が引退するときに幣を立てているという。
長老の村神主は一年ごとに年齢が繰り上がって、その日を境に引退する。
そして二番目の年齢にある人が継いで村神主を務める。
年齢は年々に下って今では一番若い人で50歳代。
いずれは30歳代に下ることになるという。
さらに下ればどうされるのか。そのときは引退した経験者。
つまりは高齢の年長者に戻す可能性もあるという。
もう一つきいておきたい石製作りの社である。
それは山の神。
4月の第一日曜日は本社、末社以外に山の神も参って神楽を舞うという。
もう一つ聞いておきたい民俗にローソクがある。
そう、あの山盛りのようになった蝋である。
そのローソク灯しは毎日。
それだけに山盛りのようになったということだ。
毎日のローソク灯しに燈明箱がある。
かつてはその燈明箱を神社にもっていって灯していたが、今は簡便にということでローソクだけをもっていっているようだ。
宮津の年中行事の話題は尽きない。
正月の飾りに稲穂・根付きのもち米を供える。
ダイコン、ニンジン、マツタケ転じてシイタケなってはいるがカチグリもある。
たくさんのお供えは神さんに捧げる。
その際、息がかからないようにサカキの葉を口に銜えて奉納する。
宮総代も兼ねる現在の氏子総代は65、6歳あたり。
任期は2年間。寺は寺で檀家総代もある。
Mさんは撒き砂と呼ぶのが正しいのかどうかわからないが、昔は年長の村神主一人でしていたそうだ。
今は8人が揃ってする共同作業の砂撒き。
その日は門松立てやしめ飾り作業もある。
細いが注連縄を結ってウラジロを飾る。
注連縄は七・五・三の順に垂らす簾型。
縄は結いやすいモチワラになる。
その翌日の大晦日の31日は御供配りがある。
半紙に籾だねのお米を入れて各戸に配る。
宮津の年中行事情報は溢れるほどに多い。
実際は見てみないとわからない。
少しずつ寄らせてもらいたいと伝えたら、先に拝見した2冊の本を貸してくださった。
(H28.12.10 EOS40D撮影)
京都府の宮津といえば日本三景の天橋立を思い起こすが、出かけた先は京都府北部、日本海に面する宮津市ではない。
京田辺市にある大字宮津である。
カーナビゲーションにセットして到着した宮津宮ノ口白山神社。
宮ノ口区に鎮座する。
ある人がブログにアップしていた「撒き砂」はここであろう。
ブログの写真では大小それぞれの大きさで砂絵を描いていた。
そのすべては円形である。
どういう具合で作っているのか、それも知りたい砂撒き習俗。
地区神社の年中行事と思えるが、境内には誰一人とおられない。
同行する写真家Kさんとともに境内にある民俗の何がしかを探してみる。
はじめに目についたのは神社の社伝由緒の立札。
「現在の西宮神社(西宮のえべっさん)から勧請された」とあるが、現在の西宮神社は果たしてどこであろうか。
「西宮のえべっさん」と言えば、全国えびす宮総本社の兵庫県西宮市社家町に鎮座する西宮神社であろう。
社伝由緒では「継体天皇が筒城宮(つつきのみや)にいたこと」とあるから、古き時代の勧請である。
それゆえ、かつては夷社、蛭子社といった、とあるが、いつの時代になるのか記されていないのでわからないが、現在の社名は白山神社である。
で、あるが鳥居に掲げる扁額は「蛭子大神宮」である。
鳥居横に立つ石灯籠。
お参りにくる人が多いのか、灯したローソクの蝋が溶けて流れた痕跡がある。
あまりの多さに溶けた蝋でお山ができるくらいだ。
その灯籠に年代記銘を示す刻印があるらしいが、判読できなかった。
立札に書いてあった建之時代は「永享五年(1433)」。
かつて神宮寺であった法雲寺(廃)にあったものと推定されている。
真言宗であった法雲寺は廃仏毀釈から逃れるために本尊の十一面観音菩薩立像(平安後期作)を浄土宗の西念寺に預けたが、いつしか本堂が崩れる状態になり、本尊を修復することになった。
そのために京都国立博物館に預けられたそうだ。
そのようなことを書いてあった立札に「朔日講の神楽」がある。
毎月の1日に行われる講の行事であるから「朔日」講。
今では月初めの第一日曜日に移っているようだ。
ただ、「・・・など」とあるのが気になるが・・。
境内をぐるりと廻ってもう少し探してみる白山神社の民俗。
神社を右へ右へと行けば山というか、崖のような場に石造りの家型ヤカタが見つかる。
うち、右の一社は内部に家型埴輪のようなものが収まっている。
二つとも竹に挟んだ幣を立てている。
この社はなんであろうか。
反対に左側も巡ってみる。
そこにあった木造りの社にも幣がある。
磐というか石の上に建てたと思われる小社もわからないが、気になるのは下、周辺に竹幣があるということだ。
その本数を数えてみれば12本。
なんとなく一年の月数を表しているように思える。
境内の民俗はもう一つある。
本社殿より右の位置に七・五・三の注連縄が張っている場である。
社殿より外れた処にあるから祓戸の地。
そう思ったのであるが・・遥拝所と知ったのはそれから半年後である。
ある程度はわかるが本質的なことは地元民に聞くのが一番である。
そう思って神社付近の民家を訪ねる。
アテはまったくない。
町を歩く人もいないので呼び鈴を押さざるを得ない。
奈良県内であれば畑を巡って村の人を探せば、だいたいが見つかる。
ここ宮津ではまったく人に遭遇しなきから呼び鈴を押させてもらう。
玄関から出てこられた婦人に尋ねた結果は・・。
旦那さんはかつて長老八人衆を務めたことがあるという。
それなら話は早い。
具体的な行事も教えてくださるだろう。
ここ宮津・白山神社の年中行事はいくつほどあるのかわからないが、この日に知った朔日講もあれば、砂撒きも、だ。
まずは立札に書いてあった朔日講である。
朔日講は8人で構成する神社の宮守さん。
昔は長老が担っていたが、年齢が順番に下って現在は若手の人たちで構成しているという。
毎月の第一日曜日は朔日講の所作がある。
太鼓を打って擦り鉦を鳴らす。
朝の7時にしているという。
砂撒きは奈良県内事例と同じように境内に砂が一年間のお参りに減ってしまう。
それを補充するのが目的の砂撒きの砂は神社の山にある山土を掘りだして撒いているそうだ。
川砂でなく山土であった宮津の砂撒きは12月30日か大晦日の31日にしているようだ。
神社境内に砂は撒くが、民家はどうであろう。
それも聞いてみた。
結果はお家に撒く家もあったという。
それがいつしか撒いた砂に滑って危ないという話しになってどの家もしやんようになったという。
安全性をとったのかよくは覚えていないともいう。
当時は舗装した集落の道にも撒いていたそうだ。
家でしていたころもそうだが、砂撒きはどこでも円形に撒く。
箕に砂を盛って人がくるくる廻りながら砂を撒くから半月形。
ぐるりと一周したら円形になるという。
もっと詳しいことはこの本を見ればわかるだろうと見せてくれる。
一冊は昭和59年10月に京都府立山城郷土資料館が展示図録として発刊された『祈りと暮らし』である。
もう一冊は京都府教育委員会が昭和50年3月に発刊した『京都の民俗芸能』である。
宮津に関係する記事は『祈りと暮らし』に「オンゴロドン」がある。
『京都の民俗芸能』は白山神社の「朔日講の神楽」だ。
「オンゴロドン」とは不思議な名称であるが、すぐにわかる。
「オンゴロドン」は奈良県内でもその名でいう人は多い。
特に80歳前後の高齢者からよく聞いた「モグラ」のことである。
「オンゴロドン」は地区の子どもらが藁棒で地面を打って「オンゴロ(モグラ)」を追い払うという行事である。
奈良県内行事でいえば亥の子の槌打ちと同じような行事である。
『祈りと暮らし』に記載してある「オンゴロドン」の詞章は「オンゴロドン ウチニカ ヨコヅチドンノ オンマイジャ オマケ オマケ オマケ」とあった。
「朔日講の神楽」はK夫妻が話す形態以上に書いてあった。
付記するならば「太鼓・鼓に大小のミョウハチ(鐃鈸)」である。
毎月の1日(現在は第一日曜)であるが、4月は3日の行事に、10月は17日のマツリに行われるようだ。
また、16日のヨミヤには各戸を一軒、一軒巡って神楽を舞い、鈴をいただかせる風習があると書いてある。
宮津の神楽については何の伝承もなく、僅かに太鼓の胴に「文化四甲戌年(1807)と見えるだけだと書いてある。
ところが、だ。文化四年は「丁卯」。
「甲戌」年はあり得ない。
「甲戌」年であれば文化十一年(1814)が正しい。
拝見できる機会があればどちらが正しいのか確かめてみたいものだ。
Kさんはかつてしていた行事の在り方を思い出した順にいろいろと教えてくださる。
断片的情報であるが列挙しておく。
正月やマツリの日に供える魚に生きた鯉がある。
鯉は三尾。
宮守さんは烏帽子を被って袴を着用する。
マツリの日は朱智神社の宮司を迎えて行われる。
朱智神社は京田辺市の天王の地にある。
朔日に神楽をあげる。
祝詞をあげるときに神楽をあげるそうだ。
正月もマツリの日も朔日神楽をする。
長老にあたる人が鈴舞いをする。
お日待っちゃんがある。
オンゴロドンもある。
ナワで庭を打つ。
集落各戸を巡る。
成人の日の前日の1月14日の晩に巡る。
オンゴロドンをして宮さんにくる。
そこで左義長のように燃やす。
来年の平成29年は1月8日若しくは日曜になる。
巡るのは小学生の男の子。
子どもが少なくなったら幼稚園児も加わってしている。
門松立ては8人の宮守がする。
一番若い人で50歳代。
昔と違って若返ったなどさまざま行事情報である。
話しは盛り上がって氏子総代の母屋のMさんを呼び出してもくれた。
K家を訪ねる前に神社で拝見した12本の幣はいったい何なのか、聞いてみた。
小社の真ん前はなにもないが、左右横と裏側にそれぞれ4本の幣がさしてあったこの小社は何なのか。
神さんの名は「サセコサン」と呼んでいる。
「サセコサン」は一体何の神さんなのか、わからないが、1月10日に行われる宮守8人衆のうち、一番長老になる村神主が引退するときに幣を立てているという。
長老の村神主は一年ごとに年齢が繰り上がって、その日を境に引退する。
そして二番目の年齢にある人が継いで村神主を務める。
年齢は年々に下って今では一番若い人で50歳代。
いずれは30歳代に下ることになるという。
さらに下ればどうされるのか。そのときは引退した経験者。
つまりは高齢の年長者に戻す可能性もあるという。
もう一つきいておきたい石製作りの社である。
それは山の神。
4月の第一日曜日は本社、末社以外に山の神も参って神楽を舞うという。
もう一つ聞いておきたい民俗にローソクがある。
そう、あの山盛りのようになった蝋である。
そのローソク灯しは毎日。
それだけに山盛りのようになったということだ。
毎日のローソク灯しに燈明箱がある。
かつてはその燈明箱を神社にもっていって灯していたが、今は簡便にということでローソクだけをもっていっているようだ。
宮津の年中行事の話題は尽きない。
正月の飾りに稲穂・根付きのもち米を供える。
ダイコン、ニンジン、マツタケ転じてシイタケなってはいるがカチグリもある。
たくさんのお供えは神さんに捧げる。
その際、息がかからないようにサカキの葉を口に銜えて奉納する。
宮総代も兼ねる現在の氏子総代は65、6歳あたり。
任期は2年間。寺は寺で檀家総代もある。
Mさんは撒き砂と呼ぶのが正しいのかどうかわからないが、昔は年長の村神主一人でしていたそうだ。
今は8人が揃ってする共同作業の砂撒き。
その日は門松立てやしめ飾り作業もある。
細いが注連縄を結ってウラジロを飾る。
注連縄は七・五・三の順に垂らす簾型。
縄は結いやすいモチワラになる。
その翌日の大晦日の31日は御供配りがある。
半紙に籾だねのお米を入れて各戸に配る。
宮津の年中行事情報は溢れるほどに多い。
実際は見てみないとわからない。
少しずつ寄らせてもらいたいと伝えたら、先に拝見した2冊の本を貸してくださった。
(H28.12.10 EOS40D撮影)