昼食を済ませた午後の時間帯も砂撒きの調査である。
一カ所目の調査地は昼食を摂ったよし家がある木津川市山城町の綺田(かばた)。
アテはないが、集落付近にいる人を探してみる。
小字垣内はどこであるのかわからないが、車道に沿って自転車を押している婦人がいた。
高齢なのでもしかとすればご存じかもと声をかけたが答えはなかった。
後に調べてみればそこは小字北村か平後のようだ。
そこから北に少し出る。
畑で農作業されていた男性がいる。
その人の話しによれば砂撒きは魔除けだという。
上の高倉神社の氏子であると云った男性は、ここは上(かみ)と下(しも)があり、下の神社は綺原神社になるそうだ。
上と下は仲たがい。
8月1日は下に八朔行事があり、龍の尻尾にあたる地。
そこは頭の方になる西の方角の狛田。
木津川を越えるのか、越えないのか。
判然とせず行き詰まり。
小字柏谷在住の男性が上の高倉神社の方角を指さしてくれた。
車で向かう道は西へまっすぐだ。
着いた上の高倉神社に参拝したら境内を清掃している男性がいた。
お声をかけると高倉神社元七人衆のMさん。
砂撒きの件を尋ねたら、以前はしていたそうだ。
正月前に砂はジグザグに撒いていた。
撒いていた川の砂が採れなくなった。
道もアスファルト舗装になった。
若い人はいやがるが、正月、神社に参るときに欠かせない砂の道であるが、年寄りはけつまずくとかの意見があっていつしか廃れて、しなくなったが12月31日の大晦日は大勢の参拝者がお参りにくる。
綺田の村戸数はおよそ70戸。
全戸がモチゴメで作ったオカガミ(鏡餅)をもってきて供える。
これをオカガミ料という。
お供えする時間帯はおよそであるが、朝から昼ころにかけてだ。
夜の9時ともなれば参拝者振る舞いの年越し鏡割り酒がでる。
鏡割りしたお酒は枡酒に注がれていただく。
翌日は元旦。
その日にお参りする氏子は「トシダマ」と呼んでいるそうだ。
また、12月13日はコトハジメ。
御幣はその日にするという。
そう話すMさんは神社の村神主や村総代も務めた人。
宮守は十人衆。
一年ずつ繰り上がって6年目に村神主を務めるそうだから、実際は七人衆であるかもしれない。
そう話してくれたMさんの肩書は桃山陵墓監区似仁王墓陵墓守部(しゅぶ)。
つまりはれっきとした宮内庁より委嘱された職員である。
以仁王(もちひとおう)は平安時代末期の後白河天皇の第三皇子。
高倉神社に祀られており、後世の村の人が神社境内に葬ったとされる。
清掃されていたのは王墓の方だったのだ。
Mさんは代々続く守部。
つまりは王墓の墓守である。
Mさんは3代目。
12月23日は宮内庁職員が巡回にくる。
京都府京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に来て京都府相楽郡和束町王墓参拝後に綺田にやってこられる「以仁王(もちひとおう)墓」の巡拝。
その際、王墓の南方にある筒井浄妙塚(墓とも)にも参られるそうだ。
筒井浄妙塚は以仁王墓の倍塚。
両墓とも宮内庁の監理である。
ちなみに筒井浄妙は似仁王が挙兵した際に、王側についた僧兵。
平家方を討ち取ったとされる。
その浄妙塚に7月1日に参拝される行事があるらしい。
京都の祇園社とどのような関係にあるのか判然としないが、なんでも祇園祭りの関係者が浄妙塚に参詣されるようだ。
浄妙塚に参ってから高倉神社の参詣になるようだ。
機会があれば、是非とも取材してみたい一件であるが、宮内庁の取材許可はどうすればいいのだろうか。
(H28.12.18 EOS40D撮影)
一カ所目の調査地は昼食を摂ったよし家がある木津川市山城町の綺田(かばた)。
アテはないが、集落付近にいる人を探してみる。
小字垣内はどこであるのかわからないが、車道に沿って自転車を押している婦人がいた。
高齢なのでもしかとすればご存じかもと声をかけたが答えはなかった。
後に調べてみればそこは小字北村か平後のようだ。
そこから北に少し出る。
畑で農作業されていた男性がいる。
その人の話しによれば砂撒きは魔除けだという。
上の高倉神社の氏子であると云った男性は、ここは上(かみ)と下(しも)があり、下の神社は綺原神社になるそうだ。
上と下は仲たがい。
8月1日は下に八朔行事があり、龍の尻尾にあたる地。
そこは頭の方になる西の方角の狛田。
木津川を越えるのか、越えないのか。
判然とせず行き詰まり。
小字柏谷在住の男性が上の高倉神社の方角を指さしてくれた。
車で向かう道は西へまっすぐだ。
着いた上の高倉神社に参拝したら境内を清掃している男性がいた。
お声をかけると高倉神社元七人衆のMさん。
砂撒きの件を尋ねたら、以前はしていたそうだ。
正月前に砂はジグザグに撒いていた。
撒いていた川の砂が採れなくなった。
道もアスファルト舗装になった。
若い人はいやがるが、正月、神社に参るときに欠かせない砂の道であるが、年寄りはけつまずくとかの意見があっていつしか廃れて、しなくなったが12月31日の大晦日は大勢の参拝者がお参りにくる。
綺田の村戸数はおよそ70戸。
全戸がモチゴメで作ったオカガミ(鏡餅)をもってきて供える。
これをオカガミ料という。
お供えする時間帯はおよそであるが、朝から昼ころにかけてだ。
夜の9時ともなれば参拝者振る舞いの年越し鏡割り酒がでる。
鏡割りしたお酒は枡酒に注がれていただく。
翌日は元旦。
その日にお参りする氏子は「トシダマ」と呼んでいるそうだ。
また、12月13日はコトハジメ。
御幣はその日にするという。
そう話すMさんは神社の村神主や村総代も務めた人。
宮守は十人衆。
一年ずつ繰り上がって6年目に村神主を務めるそうだから、実際は七人衆であるかもしれない。
そう話してくれたMさんの肩書は桃山陵墓監区似仁王墓陵墓守部(しゅぶ)。
つまりはれっきとした宮内庁より委嘱された職員である。
以仁王(もちひとおう)は平安時代末期の後白河天皇の第三皇子。
高倉神社に祀られており、後世の村の人が神社境内に葬ったとされる。
清掃されていたのは王墓の方だったのだ。
Mさんは代々続く守部。
つまりは王墓の墓守である。
Mさんは3代目。
12月23日は宮内庁職員が巡回にくる。
京都府京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に来て京都府相楽郡和束町王墓参拝後に綺田にやってこられる「以仁王(もちひとおう)墓」の巡拝。
その際、王墓の南方にある筒井浄妙塚(墓とも)にも参られるそうだ。
筒井浄妙塚は以仁王墓の倍塚。
両墓とも宮内庁の監理である。
ちなみに筒井浄妙は似仁王が挙兵した際に、王側についた僧兵。
平家方を討ち取ったとされる。
その浄妙塚に7月1日に参拝される行事があるらしい。
京都の祇園社とどのような関係にあるのか判然としないが、なんでも祇園祭りの関係者が浄妙塚に参詣されるようだ。
浄妙塚に参ってから高倉神社の参詣になるようだ。
機会があれば、是非とも取材してみたい一件であるが、宮内庁の取材許可はどうすればいいのだろうか。
(H28.12.18 EOS40D撮影)