大宇陀の野依、栗野を抜けて吉野町に。
国道370号線が国道28号線と交差する地点に信号がある。
その表示は三茶屋(みっちゃや)である。
ここより信号折れしてトンネルを潜れば吉野町の小名(こな)に着く。
下垣内から中垣内。
そして上垣内を巡ってみるが、やはり見つからない。
当地で聞取りをしていた知人のHさんが聴いた話ではごく数年前まで卯ツキヨウカのテントバナをしていた、ということだ。
Hさんが聴きとった年は平成25年。
その年から数年前。
1軒のお家がしていたということだが、知り得る人もまた探すのも難しい。
車を走らせた奥の上垣内。
そこに地蔵堂が建つ。
山の上にあった地蔵堂を下ろしてここに移転したという。
平成26年4月3日に訪れて撮らせてもらった上垣内の地蔵さんの祭り。
このときのお堂は地蔵堂だけが建っていた。
その隣に真新しいお堂がある。
その場より車道側のコンクリート造りの崖。
その崖に凹みがあった。
拝見したのは平成24年の12月7日だ。
北谷の山の神行事を取材した折に足を伸ばした場のコンクリート造りの崖は山崩れの防止対策。
その凹んだところに安置していたのは青面金剛仏の庚申仏だった。
この日に訪れてみた崖にそれが見当たらない。
もしかとすれば、この新しく建てた小堂に遷したのでは、と思った。
お花を立てているところを考えれば、すでに安置済みであろう。
辺りをぶらぶら歩いていけば話し声が聞こえる。
そこに居られた二人は幾つかの行事取材でお話してくださったかつて総代を務めていたIさんと、小名の花まつりに当屋を務めたことのあるMさん。
小堂のことを聞けば、やはり移転したということだった。
Iさんが思い出す昭和30年代の民俗行事。
小名の端午の節句は菖蒲に蓬がつきものだった。
長めの蓬葉は屋根の庇に挿した。
カヤに栗と枝豆をお月さんに供えていた宮さんの行事があった。
Iさんの出里は吉野町の津風呂。
その津風呂の鬼輪垣内の3軒でしていた豆名月があった。
豆名月の日は旧暦の8月15日。
垣内周辺に住む子どもたちが豆たばりに来ていたという。
鬼輪の豆名月を調べに訪れた吉野町の津風呂湖。
鬼輪を探してみたものの、わかったことは津風呂湖の湖水に沈んだということだった。
調査に立ち寄った日は平成28年の8月28日。
当時の関係者の記憶を聞けたのが嬉しかった。
Iさんが続けて話される当時の体験記憶はまだある。
稲作における民俗である。
一つは6月の田植え。
カヤを挿していたというから、植え初めの作法である。
本数は聞けなかったが、おそらく12本のカヤ。
田植えを始める前に田んぼに挿す作法である。
5月はマクラと呼ぶ2本の藁束を苗代田に置いた。
そこにイロバナも立てていた。
話しの様相から大宇陀の平尾と宇陀市榛原萩原・小鹿野に玉立の水口まつりの様相と同じだと思った。
マクラと呼んでいたのは平尾のI家である。
遠く離れているこの三つの地域と直接的な関連性はないと思えるが、何らかの生活文化が伝わったのでは、と思える記憶の断片である。
すくすくと育った稲が稔れば稲刈り。
12月に稲刈りをしていたのは、当時は麦も作っていた、二毛作時代の農事暦だったからである。
そんな話を聞いた小名にコイノボリが揚がる。
風を待っていたが・・・。
(H29. 5. 8 SB932SH撮影)
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
国道370号線が国道28号線と交差する地点に信号がある。
その表示は三茶屋(みっちゃや)である。
ここより信号折れしてトンネルを潜れば吉野町の小名(こな)に着く。
下垣内から中垣内。
そして上垣内を巡ってみるが、やはり見つからない。
当地で聞取りをしていた知人のHさんが聴いた話ではごく数年前まで卯ツキヨウカのテントバナをしていた、ということだ。
Hさんが聴きとった年は平成25年。
その年から数年前。
1軒のお家がしていたということだが、知り得る人もまた探すのも難しい。
車を走らせた奥の上垣内。
そこに地蔵堂が建つ。
山の上にあった地蔵堂を下ろしてここに移転したという。
平成26年4月3日に訪れて撮らせてもらった上垣内の地蔵さんの祭り。
このときのお堂は地蔵堂だけが建っていた。
その隣に真新しいお堂がある。
その場より車道側のコンクリート造りの崖。
その崖に凹みがあった。
拝見したのは平成24年の12月7日だ。
北谷の山の神行事を取材した折に足を伸ばした場のコンクリート造りの崖は山崩れの防止対策。
その凹んだところに安置していたのは青面金剛仏の庚申仏だった。
この日に訪れてみた崖にそれが見当たらない。
もしかとすれば、この新しく建てた小堂に遷したのでは、と思った。
お花を立てているところを考えれば、すでに安置済みであろう。
辺りをぶらぶら歩いていけば話し声が聞こえる。
そこに居られた二人は幾つかの行事取材でお話してくださったかつて総代を務めていたIさんと、小名の花まつりに当屋を務めたことのあるMさん。
小堂のことを聞けば、やはり移転したということだった。
Iさんが思い出す昭和30年代の民俗行事。
小名の端午の節句は菖蒲に蓬がつきものだった。
長めの蓬葉は屋根の庇に挿した。
カヤに栗と枝豆をお月さんに供えていた宮さんの行事があった。
Iさんの出里は吉野町の津風呂。
その津風呂の鬼輪垣内の3軒でしていた豆名月があった。
豆名月の日は旧暦の8月15日。
垣内周辺に住む子どもたちが豆たばりに来ていたという。
鬼輪の豆名月を調べに訪れた吉野町の津風呂湖。
鬼輪を探してみたものの、わかったことは津風呂湖の湖水に沈んだということだった。
調査に立ち寄った日は平成28年の8月28日。
当時の関係者の記憶を聞けたのが嬉しかった。
Iさんが続けて話される当時の体験記憶はまだある。
稲作における民俗である。
一つは6月の田植え。
カヤを挿していたというから、植え初めの作法である。
本数は聞けなかったが、おそらく12本のカヤ。
田植えを始める前に田んぼに挿す作法である。
5月はマクラと呼ぶ2本の藁束を苗代田に置いた。
そこにイロバナも立てていた。
話しの様相から大宇陀の平尾と宇陀市榛原萩原・小鹿野に玉立の水口まつりの様相と同じだと思った。
マクラと呼んでいたのは平尾のI家である。
遠く離れているこの三つの地域と直接的な関連性はないと思えるが、何らかの生活文化が伝わったのでは、と思える記憶の断片である。
すくすくと育った稲が稔れば稲刈り。
12月に稲刈りをしていたのは、当時は麦も作っていた、二毛作時代の農事暦だったからである。
そんな話を聞いた小名にコイノボリが揚がる。
風を待っていたが・・・。
(H29. 5. 8 SB932SH撮影)
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)