5月19日は奈良市五条町の唐招提寺で「うちわまき」行事が行われる。
かつては鼓楼下に自由に並んで、というか、群れるような大勢の人たちに包まれたなかで行われるうちわまきだった。
その団扇は魔除けの宝扇と呼ばれる枚数限定の団扇である。
争奪戦に手を伸ばしたらすっと手の中に入ったことがある。
ありがたい魔除けの宝扇は我が家の宝物。
その宝扇を毎年求める農家さんがおられる。
十年ほど前までは自由さがあった。
手を伸ばせば一枚。
うちわまきは何度も鼓楼から撒かれるので立っていたらまたもや手にする。
ポケット7に入らないから宝扇の竹軸部分を腰バンドに挟んでし続けたらお寺さんに注意されたこともあったとか・・。
いつしか危険性があると判断されて先着券、外れなしの1回撒き当たりに鼓楼下に並ぶ人数が50人。
撒く宝扇も50枚。
入手した人からロープ張り場外に出ていかねばならないから争奪戦にならず、である。
今から16年前のこと。
唐招提寺に出かけて撮らせてもらったうちわまき。
鼓楼下に群がる人の手が伸びる状態を撮り込んだ。
今では見ることのない平成14年5月19日の状態である。
翌年の平成15年も訪れて撮った写真は著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載した。
懐かしい映像であるが、今では・・ということしか伝えられなくなった。
5月12日に訪れた川西町下永・東城(ひがしんじょ)。
一つ見つかればそこらじゅうにもあった苗代の水口まつり。
なんと8カ所もあった。
これほどの水口まつりがあるとはつゆ知らず。
実はずいぶん前に下永の苗代状況を見に来たことがある。
意識的に見て廻ったのは唐招提寺の宝扇があると教わっていたからだ。
教えてくれたのは奈良女子大教授の武藤康弘さんである。
平成24年6月10日に聴講した「歴史の視座から見た大和の農耕儀礼」講座に紹介された下永の苗代に立てている魔除けの宝扇である。
つい先月の4月3日。写真家野本暉房さんの写真展並びに著書『神饌・供えるこころ』発刊記念の宴に招かれた会場で久しぶりにお会いした。
あの下永の宝扇は・・との問いに、未だ拝見できていなくて、と答えるしかなかった。
実は、宝扇も気にはなっていたが、先に拝見しておきたかったごーさん札の版木である。
その件もご存じだった武藤康弘教授。
版木そのものは中央に「白米寺」を配置して右に「牛玉」。
左に「寶印」の文字であるが、ごーさん護符にして摺っているのは右にある「牛玉」の文字だけである。
いつからそうされているのか伝わっていないからどうもわからない。
しかも版木に「下長 奉キシン井ケノ坊 矢田門大工正清 己酉十二月日」の刻み文字はあるが、肝心かなめの年号が刻まれていない。
それはともかく今年の1月4日に訪れて松苗にこの護符を巻いて供えていた六人衆の姿を撮らせてもらった。
その松苗・護符はいずれの苗代にもイロバナとともに立てていた。
その付近に鍬を持つ男性に尋ねたら、うちでもしているという。
連休中された苗代作りに立てた松苗・護符は奥さんがしているという。
その男性はFさん。
十年ほど前に村の人を通じて我が家に来られた。
なんでも武藤康弘教授が近くで耳にした魔除けの宝扇を立てる人が村におられると紹介されてやってきたそうだ。
教授が学生に教えている科目に苗代の水口まつりがある。
学生が提出する論文にその宝扇を立てていることを載せてあげたく、訪れたそうだ。
その論文は藤本愛さんが論じた2008-10出版の「オンダ行事と伝承地の稲作農事暦」であろうか。
藤本愛さんも学生時代から存じているが、Fさんが云うには学生さんは三重県出身だったという。
で、あれば論文云々という件は別人である。
それはともかく、一週間前の12日に訪れた際に話してくれたFさんは唐招提寺に出かけて魔除けの宝扇を手に入れてから苗代に立てると話していた。
うちわまきは午後3時から始まる。
先着400名であれば朝早くからでかけなくてはならない。
それを避けで抽選若しくは一般購入になるのか、この日は土曜日だけに大勢になるからどうしようかと云っていた。
入手は一年中売っている一枚千円もあるが・・。
いずれにしても行事が終わるのは午後4時。
それから家に戻られてすぐにされるのか、それとも翌朝に・・。
いずれであっても伺いたく下永に向かった。
午後4時の状況にはかわりなく、まだお戻りになられていないと判断して西城(にしんじょ)方面も探してみるが宝扇はみることがなかった。
時間はまだ早い、それとも翌日であろうか。
家人が居られたらそのことが明白になると思って呼び鈴を押した。
屋内から呼び鈴に気づかれたFさんが出てこられた。
戻ってきたばかりでちょっと一服されていたが、来られたのなら立てましょうと云って苗代田に向かわれる。
ご無理をいって申しわけなく思うが・・。
苗代田は水に浸かっている状態。
周りの田んぼはまだ荒起こしをしていないが、ジュクジュク地。
足元がずぶずぶならないように足を運んで松苗・護符にイロバナがある処に立てた。
魔除けの宝扇に由来がある。
うちわまきの正式行事名は中興忌梵網会。
唐招提寺21代目僧侶であった覚盛(かくじょう)上人の命日は5月19日。
営む中興忌梵網会は中興の高僧である大悲菩薩覚盛上人の高徳を偲ぶ法会である。
「ある夏の日、覚盛上人の体に蚊が止まりました。弟子たちが蚊を叩こうとすると、師はこれを制し、『殺生はいけない。蚊に血を与えるのも菩薩の行である』と仏の道を示したそうです。慈悲深く、清廉な人柄の師を慕う弟子は多く、亡くなられたとき、法華寺〔ほっけじ〕の尼僧が『せめてこれで蚊を追い払ってください』と手作りのうちわを供えました。以来、命日にはうちわが供えられるようになったと伝えられている、と執事の石田太一さんが話される。
その威徳のある団扇は魔除けの団扇と呼ばれている。
蚊も殺さずに追い払う魔除けの宝扇の力によって田畑を荒らす虫を追いやる。
その考えもあって育ってきた苗代に育つ稲苗を虫から守るのに立てるまじないだというFさんはその故事にあやかってこの年も宝扇を立てた。
ところで魔除けの宝扇に巻物に梵語がある。
「千手千眼観音菩薩と鳥須沙摩明王(うっさまみょうおう)」のご真意を梵字で記しているそうだが、ご真意はいかなる内容であろうか・・・。
ちなみに本日のうちわまきに行かれたFさん。
渋滞でもあればと思って奥さんとともに電車で出かけたという。
引いた抽選籤は赤色と緑色。
その緑色が当たりだったそうだ。
見事に引き当てて入手した宝扇であるが、もう1本ある。
その1本は入手できない場合に備えて実費購入したという。
抽選で当たった宝扇はこうして苗代田に立てた。
もう1本はそろそろ戻ってくる母親にあげるために、という。
寒冷紗を被せて育ててきた稲苗。
網目の一部が破れているのはカラスの足によるものらしい。
少しの穴であったが徐々に大きくなった。
2週間後には下永のノガミ行事である「キョウ」がある。
今年は当番年に当たっている地区。
その行事が終われば田植えを始める。
荒起こしもそろそろせんなあかんと云われるFさん。
苗代に並べたトレーの枚数は50枚ほど。
念のための20枚はJAから一枚800円で購入する。
苗代育苗も品種は同じヒノヒカリ。
家族が食べる分量を耕している。
(H30. 5.19 EOS7D撮影)
かつては鼓楼下に自由に並んで、というか、群れるような大勢の人たちに包まれたなかで行われるうちわまきだった。
その団扇は魔除けの宝扇と呼ばれる枚数限定の団扇である。
争奪戦に手を伸ばしたらすっと手の中に入ったことがある。
ありがたい魔除けの宝扇は我が家の宝物。
その宝扇を毎年求める農家さんがおられる。
十年ほど前までは自由さがあった。
手を伸ばせば一枚。
うちわまきは何度も鼓楼から撒かれるので立っていたらまたもや手にする。
ポケット7に入らないから宝扇の竹軸部分を腰バンドに挟んでし続けたらお寺さんに注意されたこともあったとか・・。
いつしか危険性があると判断されて先着券、外れなしの1回撒き当たりに鼓楼下に並ぶ人数が50人。
撒く宝扇も50枚。
入手した人からロープ張り場外に出ていかねばならないから争奪戦にならず、である。
今から16年前のこと。
唐招提寺に出かけて撮らせてもらったうちわまき。
鼓楼下に群がる人の手が伸びる状態を撮り込んだ。
今では見ることのない平成14年5月19日の状態である。
翌年の平成15年も訪れて撮った写真は著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載した。
懐かしい映像であるが、今では・・ということしか伝えられなくなった。
5月12日に訪れた川西町下永・東城(ひがしんじょ)。
一つ見つかればそこらじゅうにもあった苗代の水口まつり。
なんと8カ所もあった。
これほどの水口まつりがあるとはつゆ知らず。
実はずいぶん前に下永の苗代状況を見に来たことがある。
意識的に見て廻ったのは唐招提寺の宝扇があると教わっていたからだ。
教えてくれたのは奈良女子大教授の武藤康弘さんである。
平成24年6月10日に聴講した「歴史の視座から見た大和の農耕儀礼」講座に紹介された下永の苗代に立てている魔除けの宝扇である。
つい先月の4月3日。写真家野本暉房さんの写真展並びに著書『神饌・供えるこころ』発刊記念の宴に招かれた会場で久しぶりにお会いした。
あの下永の宝扇は・・との問いに、未だ拝見できていなくて、と答えるしかなかった。
実は、宝扇も気にはなっていたが、先に拝見しておきたかったごーさん札の版木である。
その件もご存じだった武藤康弘教授。
版木そのものは中央に「白米寺」を配置して右に「牛玉」。
左に「寶印」の文字であるが、ごーさん護符にして摺っているのは右にある「牛玉」の文字だけである。
いつからそうされているのか伝わっていないからどうもわからない。
しかも版木に「下長 奉キシン井ケノ坊 矢田門大工正清 己酉十二月日」の刻み文字はあるが、肝心かなめの年号が刻まれていない。
それはともかく今年の1月4日に訪れて松苗にこの護符を巻いて供えていた六人衆の姿を撮らせてもらった。
その松苗・護符はいずれの苗代にもイロバナとともに立てていた。
その付近に鍬を持つ男性に尋ねたら、うちでもしているという。
連休中された苗代作りに立てた松苗・護符は奥さんがしているという。
その男性はFさん。
十年ほど前に村の人を通じて我が家に来られた。
なんでも武藤康弘教授が近くで耳にした魔除けの宝扇を立てる人が村におられると紹介されてやってきたそうだ。
教授が学生に教えている科目に苗代の水口まつりがある。
学生が提出する論文にその宝扇を立てていることを載せてあげたく、訪れたそうだ。
その論文は藤本愛さんが論じた2008-10出版の「オンダ行事と伝承地の稲作農事暦」であろうか。
藤本愛さんも学生時代から存じているが、Fさんが云うには学生さんは三重県出身だったという。
で、あれば論文云々という件は別人である。
それはともかく、一週間前の12日に訪れた際に話してくれたFさんは唐招提寺に出かけて魔除けの宝扇を手に入れてから苗代に立てると話していた。
うちわまきは午後3時から始まる。
先着400名であれば朝早くからでかけなくてはならない。
それを避けで抽選若しくは一般購入になるのか、この日は土曜日だけに大勢になるからどうしようかと云っていた。
入手は一年中売っている一枚千円もあるが・・。
いずれにしても行事が終わるのは午後4時。
それから家に戻られてすぐにされるのか、それとも翌朝に・・。
いずれであっても伺いたく下永に向かった。
午後4時の状況にはかわりなく、まだお戻りになられていないと判断して西城(にしんじょ)方面も探してみるが宝扇はみることがなかった。
時間はまだ早い、それとも翌日であろうか。
家人が居られたらそのことが明白になると思って呼び鈴を押した。
屋内から呼び鈴に気づかれたFさんが出てこられた。
戻ってきたばかりでちょっと一服されていたが、来られたのなら立てましょうと云って苗代田に向かわれる。
ご無理をいって申しわけなく思うが・・。
苗代田は水に浸かっている状態。
周りの田んぼはまだ荒起こしをしていないが、ジュクジュク地。
足元がずぶずぶならないように足を運んで松苗・護符にイロバナがある処に立てた。
魔除けの宝扇に由来がある。
うちわまきの正式行事名は中興忌梵網会。
唐招提寺21代目僧侶であった覚盛(かくじょう)上人の命日は5月19日。
営む中興忌梵網会は中興の高僧である大悲菩薩覚盛上人の高徳を偲ぶ法会である。
「ある夏の日、覚盛上人の体に蚊が止まりました。弟子たちが蚊を叩こうとすると、師はこれを制し、『殺生はいけない。蚊に血を与えるのも菩薩の行である』と仏の道を示したそうです。慈悲深く、清廉な人柄の師を慕う弟子は多く、亡くなられたとき、法華寺〔ほっけじ〕の尼僧が『せめてこれで蚊を追い払ってください』と手作りのうちわを供えました。以来、命日にはうちわが供えられるようになったと伝えられている、と執事の石田太一さんが話される。
その威徳のある団扇は魔除けの団扇と呼ばれている。
蚊も殺さずに追い払う魔除けの宝扇の力によって田畑を荒らす虫を追いやる。
その考えもあって育ってきた苗代に育つ稲苗を虫から守るのに立てるまじないだというFさんはその故事にあやかってこの年も宝扇を立てた。
ところで魔除けの宝扇に巻物に梵語がある。
「千手千眼観音菩薩と鳥須沙摩明王(うっさまみょうおう)」のご真意を梵字で記しているそうだが、ご真意はいかなる内容であろうか・・・。
ちなみに本日のうちわまきに行かれたFさん。
渋滞でもあればと思って奥さんとともに電車で出かけたという。
引いた抽選籤は赤色と緑色。
その緑色が当たりだったそうだ。
見事に引き当てて入手した宝扇であるが、もう1本ある。
その1本は入手できない場合に備えて実費購入したという。
抽選で当たった宝扇はこうして苗代田に立てた。
もう1本はそろそろ戻ってくる母親にあげるために、という。
寒冷紗を被せて育ててきた稲苗。
網目の一部が破れているのはカラスの足によるものらしい。
少しの穴であったが徐々に大きくなった。
2週間後には下永のノガミ行事である「キョウ」がある。
今年は当番年に当たっている地区。
その行事が終われば田植えを始める。
荒起こしもそろそろせんなあかんと云われるFさん。
苗代に並べたトレーの枚数は50枚ほど。
念のための20枚はJAから一枚800円で購入する。
苗代育苗も品種は同じヒノヒカリ。
家族が食べる分量を耕している。
(H30. 5.19 EOS7D撮影)