この時季に見られる桜の開花。
あっちこちにある有名どころの桜を求めて出かける人は多いだろう。
つい先ほど、拝見していた御所市本馬に咲いていた一本木の桜樹に、野菜つくりの畑地に癒されていた。
実は、高速道から見える、もう一本の桜樹を見つけていた。
本馬から、すぐ近くになる橿原市観音寺町の民家集落。
まずは、高速道から見ていた、小山に寄り添うように咲いていた桜樹を探す。
方角、方向はだいたいがわかっていても、民家集落に入り込んでしまうと、その場所がわからなくなる。
迷い道に踏み込んでしまったのか、と思う民家の先に見えた。
軽バンであっても、狭い道に右往左往するであろう。
やや広地に車を停め、足で運ぶその桜樹の咲く丘は見つかったもののカメラを構える位置付けが難しい。
桜樹の下にガガガと工事の動き。
水路を整備しているように思えた工事に重機が音を立てる。
その場から離れて民家が建ちならぶ町内に移動する。
西から東へと、並びの観音寺町内。
お花を立てて飾っていた石仏地蔵に手を合わせておこう。
その付近にあった自治会の掲示板に町内の人たちへの連絡事項。
「令和3年4月4日(日)の観音寺町公民館においての総会は中止とさせていただきます」とある。
実は、私が住まいする自治会も総会は中止。
役員に委譲した書面総会の形で執り行った。
経緯は、すべてが新型コロナウイルス対策による対応である。
足を東に伸ばして歩けば、判別できなかった石造りの道標に出会った。
屋敷民家の前に建てていた。
もう少し歩いた地にも道標がある。
この通りは、この先に目的地を報せる何らかの街道の標であろう。
刻印記銘から「施主 明治七年甲戌 一月日 當村 土本久・・ 御所 野坂伸助」が、読み取れた。
刻印の彫り具合から、たぶん先に見た標よりも新しい石標。
で、あれば、先に見た石標は江戸時代に遡るであろう。
で、その江戸時代を想定される石標があった場所は、四つ辻。
北東の角地に建つ民家はどことなく庄屋を彷彿されよう。
「橿原市観音寺町」を、キーワードにぐぐったネット情報。
「奈良県の道標集め」ブログにたどり着いた。
ブロガー「こいわい」氏が調査された石造りの道標。」
調査された「橿原市観音寺町の道標-2(集落東端)」をもとに、探した道標が見当たらないが、この東西を往来する街道は、西に御所・室。
東へ向かえば飛鳥の地に着く。
北は、八木。
つまり今井から大和高田に出る四つ辻。
で、先に見た判読不能の道標の刻印は西面が「今井 なら」に「はせ いせ」。
「橿原市観音寺町の道標-1(集落西部十字路-A)」の映像からわかった道標に、なるほどである。
道標情報に感謝申し上げる次第だ。
謎がほぼ解けた街道散策はここまで。
来た道を戻っていく。
戻り道に気づいた赤いポスト。
往路に気づかなかったポストが復路の目線で気づく。
観る角度によって気づかない場合もあれば、気づきに繋がることもある。
その出会いに撮っておこう、とカメラを向けた遠くに見えた小高い丘に咲く桜樹がにっこり。
素晴らしい景観を魅せてくれた観音寺町の街道、民家集落に感謝したい。
(R3. 3.24 SB805SH撮影)
あっちこちにある有名どころの桜を求めて出かける人は多いだろう。
つい先ほど、拝見していた御所市本馬に咲いていた一本木の桜樹に、野菜つくりの畑地に癒されていた。
実は、高速道から見える、もう一本の桜樹を見つけていた。
本馬から、すぐ近くになる橿原市観音寺町の民家集落。
まずは、高速道から見ていた、小山に寄り添うように咲いていた桜樹を探す。
方角、方向はだいたいがわかっていても、民家集落に入り込んでしまうと、その場所がわからなくなる。
迷い道に踏み込んでしまったのか、と思う民家の先に見えた。
軽バンであっても、狭い道に右往左往するであろう。
やや広地に車を停め、足で運ぶその桜樹の咲く丘は見つかったもののカメラを構える位置付けが難しい。
桜樹の下にガガガと工事の動き。
水路を整備しているように思えた工事に重機が音を立てる。
その場から離れて民家が建ちならぶ町内に移動する。
西から東へと、並びの観音寺町内。
お花を立てて飾っていた石仏地蔵に手を合わせておこう。
その付近にあった自治会の掲示板に町内の人たちへの連絡事項。
「令和3年4月4日(日)の観音寺町公民館においての総会は中止とさせていただきます」とある。
実は、私が住まいする自治会も総会は中止。
役員に委譲した書面総会の形で執り行った。
経緯は、すべてが新型コロナウイルス対策による対応である。
足を東に伸ばして歩けば、判別できなかった石造りの道標に出会った。
屋敷民家の前に建てていた。
もう少し歩いた地にも道標がある。
この通りは、この先に目的地を報せる何らかの街道の標であろう。
刻印記銘から「施主 明治七年甲戌 一月日 當村 土本久・・ 御所 野坂伸助」が、読み取れた。
刻印の彫り具合から、たぶん先に見た標よりも新しい石標。
で、あれば、先に見た石標は江戸時代に遡るであろう。
で、その江戸時代を想定される石標があった場所は、四つ辻。
北東の角地に建つ民家はどことなく庄屋を彷彿されよう。
「橿原市観音寺町」を、キーワードにぐぐったネット情報。
「奈良県の道標集め」ブログにたどり着いた。
ブロガー「こいわい」氏が調査された石造りの道標。」
調査された「橿原市観音寺町の道標-2(集落東端)」をもとに、探した道標が見当たらないが、この東西を往来する街道は、西に御所・室。
東へ向かえば飛鳥の地に着く。
北は、八木。
つまり今井から大和高田に出る四つ辻。
で、先に見た判読不能の道標の刻印は西面が「今井 なら」に「はせ いせ」。
「橿原市観音寺町の道標-1(集落西部十字路-A)」の映像からわかった道標に、なるほどである。
道標情報に感謝申し上げる次第だ。
謎がほぼ解けた街道散策はここまで。
来た道を戻っていく。
戻り道に気づいた赤いポスト。
往路に気づかなかったポストが復路の目線で気づく。
観る角度によって気づかない場合もあれば、気づきに繋がることもある。
その出会いに撮っておこう、とカメラを向けた遠くに見えた小高い丘に咲く桜樹がにっこり。
素晴らしい景観を魅せてくれた観音寺町の街道、民家集落に感謝したい。
(R3. 3.24 SB805SH撮影)