天理市の下山田の庚申講、十九夜講行事は清水、広出、東村の各垣内で行われている。
例年の営みはそれぞれの垣内や組単位で行われている。
営みの場は当番の家であるヤド(宿)だ。
ところが旧暦の閏年となれば、三つの垣内による合同行事となる。
そのあり方は先週とこの日に行われた。
村行事として行われた旧暦閏年の「うる庚申講」、「うる十九夜講」であった。
下山田における閏年の行事はもう一つある。
「うる山ノ神」と呼ばれる行事である。
清水、広出、東村垣内それぞれにあるという山ノ神。
各垣内が守ってきた山ノ神である。
山ノ神の行事と云えば、山添村で見られるカギヒキやクラタテを思い起こす。
それを行う日は正月の7日。
村中の人たちは山ノ神に参ってお供えをしたりカギヒキの所作をしている。
ところが、下山田では一切ともそれらの行いは見られないのである。
あるというのは旧暦閏年のときだけだ。
「うる庚申講」、「うる十九夜講」と同じように葉付きの杉の木の塔婆と竹の花立てを仕立てて参る「山ノ神」。
いずれの垣内も花立てにシキビを添える。
塔婆の願文も同じように中山田の蔵輪寺の住職が書かれるが、「奉高顕供養者為 山王大権現 山の神講中 山内安穏五穀成就祈攸」となる。
この願文が示すように山の神講中が参られる場は、山ノ神とされる山王大権現である。
しかも、安穏五穀成就を祈るのは「山内」である。
現在では山の仕事をする家もまったく聞かれない下山田であるが、村内を見守っているのが山麓付近の山ノ神。
それゆえに、家内ではなく「山内」になるのであろう。
三つの垣内それぞれに祀られている山ノ神へは一斉に参ることはない。
時間帯を少しずつずらしながら参るのである。
なぜなら山ノ神に参って祈祷するのは蔵輪寺住職のお一人。
同一時間帯であればとてもじゃないが不可能だ。
夕刻の5時から約30分刻みで三つの垣内を巡拝する。
始めに行われたのは清水垣内だ。
会所として利用している永楽寺に集まってきた山の神の講中。
まずは、塔婆に願文を書いてもらう。
ゴクモチやサバ、キュウリ、ニンジンなどの御供を持って講中たちは裏の山に向かった。
そこはエイラクジヤマと呼ばれる地である。
ご神木とされる栗の樹木に塔婆と花立てを立て掛けて法要が始まった。
ローソク立ては竹を割ったものだ。
山の神さんの法要を終えれば永楽寺に戻っていく。
この日は日待ち講を兼ねた直会の寄合である。
清水垣内の年度行事は数々されてきた。
1月は初日待ちに十九夜講、3月はねはん講、5月は日待ちにこの日に行われたうる十九夜講だ。7月17日はぎおんさんで、9月も日待ちと十九夜講がある。
10月10日は八日講である。
先週に行われた「うる庚申講」を終えた講中の話によれば、今年が最後になるかも知れないという。
清水には2組の講中で営まれていた。
1組は前回のうる庚申講が最後だった。
残る組は一つ。
それも解散する議題があがっているとドウゲは話す。
ドウゲは「當家」と呼ばれる年番役である。
その方が語った農作業の一端。
「田の苗代に撒いた。芽が出かけたモミを入れた。苗代はいつしか苗箱になった。それでハウスで作るようになった苗。苗代があった時代は、水口にごーさんを立てた。ウメの木やツバキも立てておました」という。
もっと詳しい農作業の在り方を聞きたかったが時間はない。
次に行われる広出に向かった。
広出は「ひろで」だが、ほとんどの人たちが「ひどれ」と訛る。
清水垣内の山ノ神を終えた住職を待っていた講中。
ここは地蔵寺境内だ。
広出も同じように願文を塔婆に書いてもらう。
重箱に入れたゴクモチを持って山の神に向かう。
広出のご神木はヒノキの大樹だ。
塔婆と花立てを立て掛けて、お神酒とともにゴクモチを供える。
樹木に覆われて鬱蒼とした山の神の地。
時間も経過して陽が沈めば一層暗い。
法要が営まれる間に少しずつ闇の世界に移っていく。
灯されたローソクの明かりが僅かに照らしだす。
法要を終えればお神酒いただく直会の場となった。
こうして山ノ神参りを終えた広出の人たちは解散する。
それを見届けた住職は三つ目になる東村垣内へと急ぐ。
落日の時間帯が過ぎて辺りはすっかり夜の雰囲気になった東村。
集会所に集まった講中は会所の部屋明かりが照らし出す場で願文を書いてもらう。
講中が向う先はドヤマ。
かつては索道があった場である。
都祁小倉から針、下山田を経由して田原の里、奈良市の京終(きょうばて)まで結んでいた索道。
大和高原との間で物資を運んだロープウェイである。
運んでいた時代は大正八年から昭和27年の期間だ。
東山中で生産された凍り(高野)豆腐、野菜、木炭、木材などが運ばれた。
逆ルートでは、凍り(高野)豆腐の原料になる大豆、ニガリ以外に住民の生活物資も運んでいた索道である。
ドヤマはおそらく堂山が訛ったのではないだろうか。
それはともかく索道跡を訪ねる人は度々あるという。
東村の山の神はそのドヤマにある。
石仏でもなく岩である山の神は、かつてドヤマ下にあったそうだ。
整地してここにもってあがったという。
モチやお神酒を供えて法要が始まった途端に降りだした雨。
雨がかかっては・・・と云って住職には傘をさす講中の配慮。
そんなことはおかまいなしに無情の雨が降る。
集まった講中は傘もささずに法要を見守る。
法要を終えれば、その場から下に向けてパン撒きが行われる予定だった。
雨中では酷なこと。
待ち焦がれていた子供たちにはパン配りで終えた。
下山田のうる山ノ神はこうして三つの講中すべてを終えた。
会所で行われる東村の直会。
ここでは住職とともにときを過ごす。
広出も清水垣内と同様に八日講、ねはん講、大師講、日待ち講などがあるという。
(H24. 5.20 EOS40D撮影)
例年の営みはそれぞれの垣内や組単位で行われている。
営みの場は当番の家であるヤド(宿)だ。
ところが旧暦の閏年となれば、三つの垣内による合同行事となる。
そのあり方は先週とこの日に行われた。
村行事として行われた旧暦閏年の「うる庚申講」、「うる十九夜講」であった。
下山田における閏年の行事はもう一つある。
「うる山ノ神」と呼ばれる行事である。
清水、広出、東村垣内それぞれにあるという山ノ神。
各垣内が守ってきた山ノ神である。
山ノ神の行事と云えば、山添村で見られるカギヒキやクラタテを思い起こす。
それを行う日は正月の7日。
村中の人たちは山ノ神に参ってお供えをしたりカギヒキの所作をしている。
ところが、下山田では一切ともそれらの行いは見られないのである。
あるというのは旧暦閏年のときだけだ。
「うる庚申講」、「うる十九夜講」と同じように葉付きの杉の木の塔婆と竹の花立てを仕立てて参る「山ノ神」。
いずれの垣内も花立てにシキビを添える。
塔婆の願文も同じように中山田の蔵輪寺の住職が書かれるが、「奉高顕供養者為 山王大権現 山の神講中 山内安穏五穀成就祈攸」となる。
この願文が示すように山の神講中が参られる場は、山ノ神とされる山王大権現である。
しかも、安穏五穀成就を祈るのは「山内」である。
現在では山の仕事をする家もまったく聞かれない下山田であるが、村内を見守っているのが山麓付近の山ノ神。
それゆえに、家内ではなく「山内」になるのであろう。
三つの垣内それぞれに祀られている山ノ神へは一斉に参ることはない。
時間帯を少しずつずらしながら参るのである。
なぜなら山ノ神に参って祈祷するのは蔵輪寺住職のお一人。
同一時間帯であればとてもじゃないが不可能だ。
夕刻の5時から約30分刻みで三つの垣内を巡拝する。
始めに行われたのは清水垣内だ。
会所として利用している永楽寺に集まってきた山の神の講中。
まずは、塔婆に願文を書いてもらう。
ゴクモチやサバ、キュウリ、ニンジンなどの御供を持って講中たちは裏の山に向かった。
そこはエイラクジヤマと呼ばれる地である。
ご神木とされる栗の樹木に塔婆と花立てを立て掛けて法要が始まった。
ローソク立ては竹を割ったものだ。
山の神さんの法要を終えれば永楽寺に戻っていく。
この日は日待ち講を兼ねた直会の寄合である。
清水垣内の年度行事は数々されてきた。
1月は初日待ちに十九夜講、3月はねはん講、5月は日待ちにこの日に行われたうる十九夜講だ。7月17日はぎおんさんで、9月も日待ちと十九夜講がある。
10月10日は八日講である。
先週に行われた「うる庚申講」を終えた講中の話によれば、今年が最後になるかも知れないという。
清水には2組の講中で営まれていた。
1組は前回のうる庚申講が最後だった。
残る組は一つ。
それも解散する議題があがっているとドウゲは話す。
ドウゲは「當家」と呼ばれる年番役である。
その方が語った農作業の一端。
「田の苗代に撒いた。芽が出かけたモミを入れた。苗代はいつしか苗箱になった。それでハウスで作るようになった苗。苗代があった時代は、水口にごーさんを立てた。ウメの木やツバキも立てておました」という。
もっと詳しい農作業の在り方を聞きたかったが時間はない。
次に行われる広出に向かった。
広出は「ひろで」だが、ほとんどの人たちが「ひどれ」と訛る。
清水垣内の山ノ神を終えた住職を待っていた講中。
ここは地蔵寺境内だ。
広出も同じように願文を塔婆に書いてもらう。
重箱に入れたゴクモチを持って山の神に向かう。
広出のご神木はヒノキの大樹だ。
塔婆と花立てを立て掛けて、お神酒とともにゴクモチを供える。
樹木に覆われて鬱蒼とした山の神の地。
時間も経過して陽が沈めば一層暗い。
法要が営まれる間に少しずつ闇の世界に移っていく。
灯されたローソクの明かりが僅かに照らしだす。
法要を終えればお神酒いただく直会の場となった。
こうして山ノ神参りを終えた広出の人たちは解散する。
それを見届けた住職は三つ目になる東村垣内へと急ぐ。
落日の時間帯が過ぎて辺りはすっかり夜の雰囲気になった東村。
集会所に集まった講中は会所の部屋明かりが照らし出す場で願文を書いてもらう。
講中が向う先はドヤマ。
かつては索道があった場である。
都祁小倉から針、下山田を経由して田原の里、奈良市の京終(きょうばて)まで結んでいた索道。
大和高原との間で物資を運んだロープウェイである。
運んでいた時代は大正八年から昭和27年の期間だ。
東山中で生産された凍り(高野)豆腐、野菜、木炭、木材などが運ばれた。
逆ルートでは、凍り(高野)豆腐の原料になる大豆、ニガリ以外に住民の生活物資も運んでいた索道である。
ドヤマはおそらく堂山が訛ったのではないだろうか。
それはともかく索道跡を訪ねる人は度々あるという。
東村の山の神はそのドヤマにある。
石仏でもなく岩である山の神は、かつてドヤマ下にあったそうだ。
整地してここにもってあがったという。
モチやお神酒を供えて法要が始まった途端に降りだした雨。
雨がかかっては・・・と云って住職には傘をさす講中の配慮。
そんなことはおかまいなしに無情の雨が降る。
集まった講中は傘もささずに法要を見守る。
法要を終えれば、その場から下に向けてパン撒きが行われる予定だった。
雨中では酷なこと。
待ち焦がれていた子供たちにはパン配りで終えた。
下山田のうる山ノ神はこうして三つの講中すべてを終えた。
会所で行われる東村の直会。
ここでは住職とともにときを過ごす。
広出も清水垣内と同様に八日講、ねはん講、大師講、日待ち講などがあるという。
(H24. 5.20 EOS40D撮影)