朗読および解説は元県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん。
「日本の民俗をきく3」の第3回は「高田十郎の大和-採集の鬼-」と題して解説されるから聞きに行こうとお誘いの電話があった。
電話の主は写真家のKさん。
「高田十郎という人は知っていますか」の問いに「平城京跡を発掘調査していた人」と答えたら・・・。
Kさんがいうには「民俗の大御所」らしい。
まことにもって不知なことで・・・。
私は奈良県内の行事の写真撮りから「民俗」に入り込んだ。
専門的な学習をしたこともない単なる情報処理を仕事にしていたサラリーマンだった。
大御所なる人はまったく知らない。
そうであれば勉強してみようと云われて出かけることにした。
会場は奈良県立民俗博物館内ではなく、奈良県立大和民俗公園内にある移設民家の旧岩本家。
古民家の利用促進の意味もある場は自然観察会でたびたび訪れる。
観察会の場は園内の自然であるが、移設展示している古民家は建物の「民俗」を紹介する建造物。
奈良県立民俗博物館の併設会場にある。
たまたま訪れるときで出くわすのが竃の火くべ。
公園職員が雑木をくべて竃に置いた釜の湯を沸かす。
燃えた煙が上昇して室内に充満する。
充満という言い方は相応しくないが、室内をいぶす。
特に天井が煙でいぶされる。
こうすることで動態保存ができる。
この日はくべることのない講演会。
会場となった旧岩本家の座敷は聴講者でいっぱいになった。
鹿谷勲さんが主宰する「奈良民俗文化研究所」の公開講座。
代表の鹿谷勲さん自らが解説・朗読する。
講演参加費は無料だが、資料代として200円がいる。
座敷にあがって聴講するのであるが、正面の部屋であれば鹿谷さんの声が聞きとれたと思う。
私が座った場は隣の部屋。
襖に遮られるのか、聞きとり難い。
それはともかく鹿谷さんが話すテーマはいろいろある。
タイトルだけでも列挙しておこう。
「住」をテーマに「ワラビ縄」(昭和十八年刊行『奈良井上町年代記抄』所蔵の貞享二年(1685)「会所やね茸入用ノ覚え」の註)。
「食」のテーマは「茶粥」(大正九年八月「大和習俗雑話(其一)」『なら』第一号)。
「信仰」は「山の神」(昭和十一年十一月二十二日調査『随筆山村記』三 のせがわ雑記)。
「人の一生」は「婚礼」(大正十三年「奥宇陀の見聞」『なら』第二十六号)。
「俗信」は「ツチヒキ」(大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号)。
「世間話」に「夫婦ともにツハリ(悪阻)をやむ家」(昭和十二 内話『随筆民話』)。
「十五堂」の名をもつ「水木要太郎」(「大福帳の水木翁」『野火』三の十)に「方言」(大正九年「大和の方言(其一)」『なら』第一号)もある。
私の今後の勉学のために、高田十郎が執筆した出典物を( )書きしておく。
他にも高田十郎の活動日誌などもあったが、一度に読み込むにはちょっと時間がかかる。
また、庶民の生活文化への感心として「村井古道」や「吉川覚兵衛」など県内における個人レベルの民俗探訪の話題提供や近代の探訪についてなどはどうやら時間がなくて話せなかったようだ。
近代といえば何人かの名前を存じている。
県史編纂は未だみられない奈良県であるが、一部の市町村史には民俗編があり調査された報告者が執筆されている。
鹿谷さんが執筆された著書の『やまとまつり旅』は私が調査するキッカケにもなった源流だと思って書庫に収めている。
それはともかく襖の向こうから聞こえてくる話者の声。
聴講されていた知人の名前を挙げる。
田原の里に住むOさんだ。
鹿谷さんが話したワラビ縄に応えたOさん。
「今井町にある家に竹で編んだものがあった。おばあさんの家は大工だった。ワラビで編んだら落ちんど、と云われた。そのときに初めて知ったワラビナワ」である。
ワラビナワとは何ぞえ、である。
ワラビは春の山野草。
天ぷらで食べるのが一番美味しいと思っている。
そのワラビが建築に用いられる。
初めて知った構造物は干したワラビの茎。
それを編んで縄にする。
そういうモノであるが、見たことも聞いたこともなかっただけに感動する。
峠を越えるときの儀礼にある「ハナオレ」はテーマ「山の神」で紹介する。
「花を折る」とは任意にそこらにある草木の枝を折って神仏に供えることのようだ。
私は聞いたことがない「ハナオレ」を充てる漢字は「花折」。
それで思いだすのが京都の朽木村。
たしか、「花折峠」があったと思う。
思うどころか、そこら辺りの渓流で魚釣りに行った覚えがある。
思いだすのは渓流の魚釣りより以前の話し。
乗ってきたワゴン車を川原に寄せた。
そのときだ。砂場に捕まって車輪が空転する。
どうしようもない状況に車道を通る四輪駆動車に応援を求めた。
ロープでラクラク引き上げた四輪駆動車の実力に感謝した。
事故ではないが、私の事件でもあるそこら辺りが「花折峠」。
有名な活断層がある地帯であった。
祝いのモノモノを運ぶ道具に「ホッカイ」がある。
「ホッカイ」を充てる漢字は「行器」。
漢字のほうが判りやすい「ホッカイ」は「人の一生」の「婚礼」の事例で挙げられた。
「ホッカイ」そのものの道具は神社の年中行事にも登場するが事例は極端に少ない。
吉野町山口の吉野山口神社の秋祭りに並べられる餅御供を詰めた「ボッカイ」の呼び名がある道具は円筒形。
まさに祝いの形である。
田原本町八田の伊勢降神社の御田植祭のお渡りに松苗を運ぶ「ホッカイ」があるが、その形から唐櫃ではないだろうか。
天理市大和神社のちゃんちゃん祭に登場する「ホッカイ」は大字成願寺の人たちが奉納する牛の舌御供を詰めた御供箱である。
呼び名の「ホッカイ」はさまざまな形があるようだ。
近江先生の話しによれば、父親が亡くなったときに「何かせんぞというて、ツチを引っ張った」そうだ。
近江先生とは、天理丹波市の中之町伊勢講行事が納め最後になったに平成25年7月16日にお会いしたことがある。
先生が住まいする地域の行事(公納堂町阿弥陀さんの夏祭り)を取材させてもらったこともある。
続けて鹿谷さんが伝えるツチノコを奉納している地蔵さん。
場所はすぐに思いだす懐かしい奈良市の南庄町。
大晦日の日に特殊な形の注連縄を架けることを知って取材した。
その帰り道に大変な目にあった。
たいへんとは大雪である。
取材中に降りだした雪はあっという間に真っ白な景観に変化した。
道路も当然ながらの真っ白け。
しかもアイスバーン状態。
少しは溶けてからと思って夕方近くまで滞在したかな。
頃合いを見計らって行事をされていた南庄町を離れた。
道路は滑る、滑る。
ノーマルタイヤだったので滑るのは当然。
カーブ連続の坂道ドライブウエイに冷や汗・・ではなく熱い汗をかきながら必死でハンドルを握った。
スピードは出せないが停止したら動かすことは不可能。
とにかくアクセルを踏み続けて。
道路の端っこには立ち往生した車が何台も放置されていた。
市内に入ったときはほっとした。
自宅になんとか帰ってぐったり。
そのときの反省から12月になればスタッドレスタイヤに履き替えることにした。
そんな話しはともかく南庄町には腰痛地蔵と呼ばれている地蔵尊がある。
ここでは腰痛にならないように願掛けされたツチノコがいっぱいある。
掛けた願が叶って苦しんでいた腰痛が治った。
お礼に奉納したのがツチノコである。
ツチノコと呼ばれているツチの形はヨコヅチだったように思える。
とにかく多いツチノコに圧倒された話ではなく鹿谷さんが語るツチは、大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号に収録された死人が出たときの「ツチヒキ」である。
町内の人たちは今でも「ガンゴジ」と呼んでいる元興寺町。
目出度い正月に黙ってツチを引っ張っていたそうだ。
付近の町内では伊勢音頭を唄っていたというのだから、祝いもあれば喪にもあった「ツチヒキ」っていったいなんだろう。
提供される民俗話しは満載であった。
ふっと我に返って旧岩本家で聴講されていた人たちの顔をみる。
隣に座って聞いていたのは誘ってくれた写真家のKさん。
その横はサンハライ念仏を取材させてもらった奈良市鳴川町の徳融寺住職の阿波谷さん。
八島の六斎念仏取材以来お世話になっているが、何故か私の名前はKさんと思いこんでいるようだ。
Kさんに届いた賀状の文でそのことがわかった。
3人の顔が揃ったところで思い込みを解消したく、説明させてもらったら笑っていた住職は7月23日に境内地蔵堂内で地蔵盆の数珠繰りをすると話してくれた。
ありがたいことであるが、スケジュールブッキングになるから翌年持越しとしたい。
会場で声をかけていたのは田原の里のOさん。
その隣におられたのが、奈良市矢田原町でお会いしたMさん。
先月の6月1日に、である。
なんでも今月の7月1日に斎主された月次祭で平成22年3月24日に掲載した産経新聞の切り抜き記事を長老六人衆に見せて紹介していたという。
ありがたいことである。早いうちに6月1日に撮らせてもらった写真を届けたい。
この場で「おう」と手を振った男性も顔馴染み。
地元大和郡山市で源九郎稲荷神社代表を務めているNさん。
すぐ横にはFBトモダチのAさんも同席していた。
Nさんとは大和郡山市の一大行事のお城祭りの白狐渡御出発時にお会いした。
その前は「水木十五堂授賞記念講演」の式典があったやまと郡山城ホールで、だ。
1月、3月のときの私の身体を心配してくれている。
今ではすっかり・・とはいえないが、可も不可もない健康状態。
口だけは元気ですと伝えたら笑っていた。
「水木十五堂授賞式」は記録を重視していた人々を称える表彰である。
これまでお世話になっていた人たちと顔を合わせば元気になる。
そう、思った会場で紹介された二人組。
名前を伺えば「桃俣獅子舞保存会」の団体だった。
写真家Kとともに目を輝かす桃俣の獅子舞。
奈良県内には曽爾村、御杖村、旧室生村などで獅子舞を披露演舞する集団がある。
そのうちの一つであるが、大字桃俣の行事はなぜか足を運んでいない。
いずれは、と思いつつも実現はしていなかった桃俣に藁人形で作った「ワッカ」と呼ぶモノがあるそうだ。
藁に串で挿したコンニャクやエダマメなど。
それは「ヒトミゴク」の呼び名もあるらしいからほっとけない。
今年のヨミヤは10月8日。
トウヤ家の行事があるように聞こえた。
翌日の9日はマツリ。
上や下垣内の一軒ずつのトウヤ家に出かけて竃祓いを舞うそうだ。
取材してみたいが第二日曜日。
県内でもっとも行事が多い日。
さて、どうするか、である。
(H28. 7.17 SB932SH撮影)
「日本の民俗をきく3」の第3回は「高田十郎の大和-採集の鬼-」と題して解説されるから聞きに行こうとお誘いの電話があった。
電話の主は写真家のKさん。
「高田十郎という人は知っていますか」の問いに「平城京跡を発掘調査していた人」と答えたら・・・。
Kさんがいうには「民俗の大御所」らしい。
まことにもって不知なことで・・・。
私は奈良県内の行事の写真撮りから「民俗」に入り込んだ。
専門的な学習をしたこともない単なる情報処理を仕事にしていたサラリーマンだった。
大御所なる人はまったく知らない。
そうであれば勉強してみようと云われて出かけることにした。
会場は奈良県立民俗博物館内ではなく、奈良県立大和民俗公園内にある移設民家の旧岩本家。
古民家の利用促進の意味もある場は自然観察会でたびたび訪れる。
観察会の場は園内の自然であるが、移設展示している古民家は建物の「民俗」を紹介する建造物。
奈良県立民俗博物館の併設会場にある。
たまたま訪れるときで出くわすのが竃の火くべ。
公園職員が雑木をくべて竃に置いた釜の湯を沸かす。
燃えた煙が上昇して室内に充満する。
充満という言い方は相応しくないが、室内をいぶす。
特に天井が煙でいぶされる。
こうすることで動態保存ができる。
この日はくべることのない講演会。
会場となった旧岩本家の座敷は聴講者でいっぱいになった。
鹿谷勲さんが主宰する「奈良民俗文化研究所」の公開講座。
代表の鹿谷勲さん自らが解説・朗読する。
講演参加費は無料だが、資料代として200円がいる。
座敷にあがって聴講するのであるが、正面の部屋であれば鹿谷さんの声が聞きとれたと思う。
私が座った場は隣の部屋。
襖に遮られるのか、聞きとり難い。
それはともかく鹿谷さんが話すテーマはいろいろある。
タイトルだけでも列挙しておこう。
「住」をテーマに「ワラビ縄」(昭和十八年刊行『奈良井上町年代記抄』所蔵の貞享二年(1685)「会所やね茸入用ノ覚え」の註)。
「食」のテーマは「茶粥」(大正九年八月「大和習俗雑話(其一)」『なら』第一号)。
「信仰」は「山の神」(昭和十一年十一月二十二日調査『随筆山村記』三 のせがわ雑記)。
「人の一生」は「婚礼」(大正十三年「奥宇陀の見聞」『なら』第二十六号)。
「俗信」は「ツチヒキ」(大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号)。
「世間話」に「夫婦ともにツハリ(悪阻)をやむ家」(昭和十二 内話『随筆民話』)。
「十五堂」の名をもつ「水木要太郎」(「大福帳の水木翁」『野火』三の十)に「方言」(大正九年「大和の方言(其一)」『なら』第一号)もある。
私の今後の勉学のために、高田十郎が執筆した出典物を( )書きしておく。
他にも高田十郎の活動日誌などもあったが、一度に読み込むにはちょっと時間がかかる。
また、庶民の生活文化への感心として「村井古道」や「吉川覚兵衛」など県内における個人レベルの民俗探訪の話題提供や近代の探訪についてなどはどうやら時間がなくて話せなかったようだ。
近代といえば何人かの名前を存じている。
県史編纂は未だみられない奈良県であるが、一部の市町村史には民俗編があり調査された報告者が執筆されている。
鹿谷さんが執筆された著書の『やまとまつり旅』は私が調査するキッカケにもなった源流だと思って書庫に収めている。
それはともかく襖の向こうから聞こえてくる話者の声。
聴講されていた知人の名前を挙げる。
田原の里に住むOさんだ。
鹿谷さんが話したワラビ縄に応えたOさん。
「今井町にある家に竹で編んだものがあった。おばあさんの家は大工だった。ワラビで編んだら落ちんど、と云われた。そのときに初めて知ったワラビナワ」である。
ワラビナワとは何ぞえ、である。
ワラビは春の山野草。
天ぷらで食べるのが一番美味しいと思っている。
そのワラビが建築に用いられる。
初めて知った構造物は干したワラビの茎。
それを編んで縄にする。
そういうモノであるが、見たことも聞いたこともなかっただけに感動する。
峠を越えるときの儀礼にある「ハナオレ」はテーマ「山の神」で紹介する。
「花を折る」とは任意にそこらにある草木の枝を折って神仏に供えることのようだ。
私は聞いたことがない「ハナオレ」を充てる漢字は「花折」。
それで思いだすのが京都の朽木村。
たしか、「花折峠」があったと思う。
思うどころか、そこら辺りの渓流で魚釣りに行った覚えがある。
思いだすのは渓流の魚釣りより以前の話し。
乗ってきたワゴン車を川原に寄せた。
そのときだ。砂場に捕まって車輪が空転する。
どうしようもない状況に車道を通る四輪駆動車に応援を求めた。
ロープでラクラク引き上げた四輪駆動車の実力に感謝した。
事故ではないが、私の事件でもあるそこら辺りが「花折峠」。
有名な活断層がある地帯であった。
祝いのモノモノを運ぶ道具に「ホッカイ」がある。
「ホッカイ」を充てる漢字は「行器」。
漢字のほうが判りやすい「ホッカイ」は「人の一生」の「婚礼」の事例で挙げられた。
「ホッカイ」そのものの道具は神社の年中行事にも登場するが事例は極端に少ない。
吉野町山口の吉野山口神社の秋祭りに並べられる餅御供を詰めた「ボッカイ」の呼び名がある道具は円筒形。
まさに祝いの形である。
田原本町八田の伊勢降神社の御田植祭のお渡りに松苗を運ぶ「ホッカイ」があるが、その形から唐櫃ではないだろうか。
天理市大和神社のちゃんちゃん祭に登場する「ホッカイ」は大字成願寺の人たちが奉納する牛の舌御供を詰めた御供箱である。
呼び名の「ホッカイ」はさまざまな形があるようだ。
近江先生の話しによれば、父親が亡くなったときに「何かせんぞというて、ツチを引っ張った」そうだ。
近江先生とは、天理丹波市の中之町伊勢講行事が納め最後になったに平成25年7月16日にお会いしたことがある。
先生が住まいする地域の行事(公納堂町阿弥陀さんの夏祭り)を取材させてもらったこともある。
続けて鹿谷さんが伝えるツチノコを奉納している地蔵さん。
場所はすぐに思いだす懐かしい奈良市の南庄町。
大晦日の日に特殊な形の注連縄を架けることを知って取材した。
その帰り道に大変な目にあった。
たいへんとは大雪である。
取材中に降りだした雪はあっという間に真っ白な景観に変化した。
道路も当然ながらの真っ白け。
しかもアイスバーン状態。
少しは溶けてからと思って夕方近くまで滞在したかな。
頃合いを見計らって行事をされていた南庄町を離れた。
道路は滑る、滑る。
ノーマルタイヤだったので滑るのは当然。
カーブ連続の坂道ドライブウエイに冷や汗・・ではなく熱い汗をかきながら必死でハンドルを握った。
スピードは出せないが停止したら動かすことは不可能。
とにかくアクセルを踏み続けて。
道路の端っこには立ち往生した車が何台も放置されていた。
市内に入ったときはほっとした。
自宅になんとか帰ってぐったり。
そのときの反省から12月になればスタッドレスタイヤに履き替えることにした。
そんな話しはともかく南庄町には腰痛地蔵と呼ばれている地蔵尊がある。
ここでは腰痛にならないように願掛けされたツチノコがいっぱいある。
掛けた願が叶って苦しんでいた腰痛が治った。
お礼に奉納したのがツチノコである。
ツチノコと呼ばれているツチの形はヨコヅチだったように思える。
とにかく多いツチノコに圧倒された話ではなく鹿谷さんが語るツチは、大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号に収録された死人が出たときの「ツチヒキ」である。
町内の人たちは今でも「ガンゴジ」と呼んでいる元興寺町。
目出度い正月に黙ってツチを引っ張っていたそうだ。
付近の町内では伊勢音頭を唄っていたというのだから、祝いもあれば喪にもあった「ツチヒキ」っていったいなんだろう。
提供される民俗話しは満載であった。
ふっと我に返って旧岩本家で聴講されていた人たちの顔をみる。
隣に座って聞いていたのは誘ってくれた写真家のKさん。
その横はサンハライ念仏を取材させてもらった奈良市鳴川町の徳融寺住職の阿波谷さん。
八島の六斎念仏取材以来お世話になっているが、何故か私の名前はKさんと思いこんでいるようだ。
Kさんに届いた賀状の文でそのことがわかった。
3人の顔が揃ったところで思い込みを解消したく、説明させてもらったら笑っていた住職は7月23日に境内地蔵堂内で地蔵盆の数珠繰りをすると話してくれた。
ありがたいことであるが、スケジュールブッキングになるから翌年持越しとしたい。
会場で声をかけていたのは田原の里のOさん。
その隣におられたのが、奈良市矢田原町でお会いしたMさん。
先月の6月1日に、である。
なんでも今月の7月1日に斎主された月次祭で平成22年3月24日に掲載した産経新聞の切り抜き記事を長老六人衆に見せて紹介していたという。
ありがたいことである。早いうちに6月1日に撮らせてもらった写真を届けたい。
この場で「おう」と手を振った男性も顔馴染み。
地元大和郡山市で源九郎稲荷神社代表を務めているNさん。
すぐ横にはFBトモダチのAさんも同席していた。
Nさんとは大和郡山市の一大行事のお城祭りの白狐渡御出発時にお会いした。
その前は「水木十五堂授賞記念講演」の式典があったやまと郡山城ホールで、だ。
1月、3月のときの私の身体を心配してくれている。
今ではすっかり・・とはいえないが、可も不可もない健康状態。
口だけは元気ですと伝えたら笑っていた。
「水木十五堂授賞式」は記録を重視していた人々を称える表彰である。
これまでお世話になっていた人たちと顔を合わせば元気になる。
そう、思った会場で紹介された二人組。
名前を伺えば「桃俣獅子舞保存会」の団体だった。
写真家Kとともに目を輝かす桃俣の獅子舞。
奈良県内には曽爾村、御杖村、旧室生村などで獅子舞を披露演舞する集団がある。
そのうちの一つであるが、大字桃俣の行事はなぜか足を運んでいない。
いずれは、と思いつつも実現はしていなかった桃俣に藁人形で作った「ワッカ」と呼ぶモノがあるそうだ。
藁に串で挿したコンニャクやエダマメなど。
それは「ヒトミゴク」の呼び名もあるらしいからほっとけない。
今年のヨミヤは10月8日。
トウヤ家の行事があるように聞こえた。
翌日の9日はマツリ。
上や下垣内の一軒ずつのトウヤ家に出かけて竃祓いを舞うそうだ。
取材してみたいが第二日曜日。
県内でもっとも行事が多い日。
さて、どうするか、である。
(H28. 7.17 SB932SH撮影)