宇陀市榛原の石田に住むUさんが教えてくださった神社行事がある。
一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。
二つ目は下平井のモッソのセキハンである。
両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。
マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。
宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。
平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。
ずいぶん前のことである。
宇太水分神社祭礼は10月15日。
前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。
時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。
そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。
一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。
Uさんが話していた神社はどこだろうか。
ネットの地図を拝見しても掴めない。
そうであれば付近の民家を訪ねる。
畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。
ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。
呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。
話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。
平成28年は10月15日にマツリがあった。
本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。
御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。
他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。
それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。
夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。
ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。
話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。
神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。
当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。
Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。
本社、境内を見てまわる。
「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。
それより古かったのは手水鉢。
「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。
手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。
それを見届けて次の訪問地に出かける。
二つ目は下平井の皇大神社である。
マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。
ここでも田畑に村人はいない。
これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。
出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。
近くの家も訪ねてみるが不在だ。
もう一軒のM家も行事のことはわからないという。
その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。
宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。
そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。
なるほど、ここにあったのか、である。
車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。
何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。
その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。
葉は椿のようだが花一輪。
お参りしている人が供えたのであろう。
マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。
いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。
その帰路の道中に行っておきたい地域がある。
宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。
半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。
そこへどうのようにすれば行けるのか。
それを確認したくて帰路に立寄った。
行事場は村の中心部。
それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。
バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。
何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。
狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。
迂回しても同じような村の道である。
昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。
その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。
その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。
その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。
地蔵堂があるとされる村の会所である。
そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。
それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。
一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。
それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。
バックで到達した地は平ら。
会所であることはわかったが鍵が締まっている。
当然である。
その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。
掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。
行事があるのかどうかわからない。
戻って会所前にある祠を見る。
それは庚申さんだった。
左右に枯れた竹があった。
その形から右は花立。
左は御供台だ。
たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。
これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。
仕方なく隣家を訪ねる。
お声をかけたら若い男性が出てこられた。
行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。
地蔵寺は集会所内になる。
寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。
苗代田に立ててあったお札は祈祷札。
正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。
その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。
その日の夕飯会食に籠り。
そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。
区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。
(H28.10.20 SB932SH撮影)
一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。
二つ目は下平井のモッソのセキハンである。
両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。
マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。
宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。
平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。
ずいぶん前のことである。
宇太水分神社祭礼は10月15日。
前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。
時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。
そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。
一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。
Uさんが話していた神社はどこだろうか。
ネットの地図を拝見しても掴めない。
そうであれば付近の民家を訪ねる。
畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。
ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。
呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。
話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。
平成28年は10月15日にマツリがあった。
本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。
御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。
他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。
それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。
夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。
ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。
話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。
神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。
当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。
Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。
本社、境内を見てまわる。
「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。
それより古かったのは手水鉢。
「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。
手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。
それを見届けて次の訪問地に出かける。
二つ目は下平井の皇大神社である。
マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。
ここでも田畑に村人はいない。
これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。
出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。
近くの家も訪ねてみるが不在だ。
もう一軒のM家も行事のことはわからないという。
その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。
宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。
そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。
なるほど、ここにあったのか、である。
車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。
何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。
その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。
葉は椿のようだが花一輪。
お参りしている人が供えたのであろう。
マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。
いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。
その帰路の道中に行っておきたい地域がある。
宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。
半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。
そこへどうのようにすれば行けるのか。
それを確認したくて帰路に立寄った。
行事場は村の中心部。
それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。
バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。
何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。
狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。
迂回しても同じような村の道である。
昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。
その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。
その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。
その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。
地蔵堂があるとされる村の会所である。
そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。
それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。
一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。
それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。
バックで到達した地は平ら。
会所であることはわかったが鍵が締まっている。
当然である。
その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。
掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。
行事があるのかどうかわからない。
戻って会所前にある祠を見る。
それは庚申さんだった。
左右に枯れた竹があった。
その形から右は花立。
左は御供台だ。
たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。
これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。
仕方なく隣家を訪ねる。
お声をかけたら若い男性が出てこられた。
行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。
地蔵寺は集会所内になる。
寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。
苗代田に立ててあったお札は祈祷札。
正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。
その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。
その日の夕飯会食に籠り。
そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。
区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。
(H28.10.20 SB932SH撮影)