午後は県立民俗博物館の催しがある。
今回で6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展。テーマは「住」である。
11人の写真家がとらえた「住」を3枚組で紹介している。
うち7人の写真家が揃って座談会が行われる。
これまではカメラマントークと称して博物館の講堂で喋っていた。
今回のテーマは「住」だけに、民俗公園に移築された古民家に場を移すのもテーマ性からいってもぴったしカンカン。
移築した民家であるが当時住まいしていた雰囲気を味わいながら座談会をしようということになった。
さて、である。
午前中はこれらの古民家について解説されるツアーが組まれた。
古民家は建築物。
構造論が中心に解説されるのであるなら、また一般参加者の迷惑になっては、と思って参加は見送っていた。
ところがともに出展している森川さんがツアーに参加するからと誘われて仲間に加えてもらった。
駐車場に車を停めたら今度は志岐さんも登場する。
同じ考えで私も、というわけだ。
ツアーの出発地になる移築民家は高取町上土佐にあった旧臼井家の建物。
昭和49年に指定された国の重要文化財である。
そこにもまたもや出展者。
野口さんも、である。
暇かどうかは聞かなかったが関心をもった四人が集まった。
参加者は写真家だけでなく一般参加の男性もおられる。
学芸員に案内されて会場に来られた解説者は関西大学文学部教授の森隆男氏。
民俗が出発点である先生は建物構造にあるのは人が住まいする点を強調される。
臼井家には五つ並んだ竃がある。
そこを指さして云われたのは「奈良のニワカマド」である。
なんとなく聞いたことがある「ニワカマド」。
手元にデジタル映像で複写させていただいた中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
書かれていた記事に目が大きく開いたことは多々あった。
複写した時期は平成19年。
勤務していた大和郡山市の施設。
市民交流館時代のときにお世話になった係長がいた。
係長はこんな本を持っているが、勉強になるならと見せてくださる。
頁をめくるなり「宮座一覧」に飛びついた。
それが記載されていた大和の宮座の他にも御杖村の年中行事や曽爾村の一年、平野の一年、大神神社と芸能、大和八王子とモリサンなどなど。
「奈良のニワカマド」のキーワードで思い出したのが「奈良の庭竃と大歳の客」の章である。
書によれば「元禄五年(1692)、正月刊行の井原西鶴の『世間胸算用』五巻五冊は、西鶴最晩年(51歳)の作品群。
その巻一第一章に中・下層町人がせっぱつまって演ずる世態・人情の悲喜劇が描かれており・・・。
この中の巻四の二に「奈良の庭竃」という歳末風景が書かれている」とある。
詳しくは割愛するが、森先生が云うには、一年が新しくなるときに竃を塗り替えたということだ。
西鶴の書は江戸時代のはじめ。
大晦日から正月にかける「和歌山の火継ぎ」儀礼があると云う。
奈良では新しく点けた火を・・・次の年次に移る、つまりは時間の境界跨ぎである。
土間で暮らしていた奈良の町屋。
寝室の敷居は一段高い処にある。
それを「帳台構え」と呼ぶ。
岐阜では藁を積んでいた寝室だった。
藁敷きは温かいということである。
「帳台構え」の寝室に寝ていたのは当主夫妻に子供たち。
代替わりに隠居した祖父母は「帳台構え」から外れて奥の客間に移る。
土間には張り出しの腰かけがある。
ちょこんと座るような感じの張り出し腰かけの板の間。
実は家人が食事をする場であった。
上部を見上げてみよう。
私は茅葺家を拝見したらついつい見上げてしまう屋根裏構造。
先日に訪れた京都府の南山城にある神社の舞殿の屋根は銅板葺きになってはいるものの、内部の屋根裏は茅葺だった。
木材で組み立てた屋根は茅であったのだ。
何度か訪れた桜井市小夫の秀円寺は茅葺。
屋根裏構造に使われていたのはススンボの竹だった。
屋根裏の材が何であるのか、ついつい知りたくなるのである。
旧臼井家の屋根裏は竹の簀の子に土を混ぜて組んでいた。
火事を避けて、なおかつ防寒にもなる屋根裏構造である。
ところで玄関を入ったところの右上に開き戸がある一室がある。
いわば中二階にある構造の部屋は使用人が寝泊まりする場である。
玄関を出て外に出て外観を見る。
茅葺民家の臼井家を移築したのは昭和51年。
すでに40年も経過している。
屋根の茅葺は移築したままなのか、それとも間にカヤサシをしていたのか存じていないが、やや朽ちかけている部分がある。
屋根のてっぺんにのせてある木材である。
棟押さえの別名に「ウマ」とか「カラス」の名で呼ばれることもある。
この棟押さえの本数は奇数が基本。
神社建築も同じように偶数はあり得ないそうだ。
ちなみに旧臼井家の本数は17本。
一般的な庄屋家であっても7本。
あまりにも多い本数に森先生は驚かれる。
ちなみに旧臼井家は二万五千石の旧高取藩城下町。
主に油・酒・醤油の販売をしていた名家であった。
場を移動する。
次は大和高田市永和町にあった旧鹿沼家。
昭和55年に指定された奈良県指定文化財。
昭和54年に移築された。
次は昭和52年に同じく指定された県指定文化財の橿原市中町の旧吉川家。
奈良県平たん盆地部にある農家建築。
農家と云っても庄屋宅である。
ここで教わったのが雨だれを避ける雨どいである。
参加していた一般男性が質問された雨どい(雨樋)は昔からあったのでしょうか、である。
雨樋が一般的に広まったのは江戸時代。
大火に悩んだ奉行は類焼を防ぐために瓦葺の町屋を奨励した。
つまりは都市化である。
町屋は普及したものの雨水の落下による柱根元や土台が傷む。
傷めば腐る。
腐れば民家は崩れる。
こうした事象を防止するための構造が雨樋である。
今では金属製からプラスチック製になったが、江戸時代は木製か竹製。
古代の水路もそうだが同じく木製か竹製。
場によって材は違うが、江戸時代の雨樋は木製か竹製である。
参加者が気づかれた雨どいはすべてにあるわけではなかった。
ここが不思議。
一般的な家屋であれば雨だれを避ける雨樋は雨が流れ落ちるすべてのところにあるはずだ。
旧吉川家は何度も見ているが、今の今まで、なんで気がつかなかったのだろうか。
家屋にある玄関口辺りにしか構築されていないのである。
つまり昔は雨どいなんてものはなかったのである。
森先生が云うには玄関はここを越えるかどうか、別世界に出たり入ったりする結界にあるという。
雨どいを構築していない奥にある部屋がある。
そこには縁側がない。
縁側は江戸時代後期に造られた。
特別な場合になる縁側から直接出入りする場合がある。
家人が亡くなったときはその人が使っていた茶碗は縁(この場合は縁側でなく縁である)から捨てて割る。
藁火を焚いて葬儀の旅立ちをするのも縁である。
つまりはこの家から縁を切るということだ。
その縁のところに直線状の石畳がある。
足元をとらえた写真がある。
その端の部分は「雨だれ落ち」。
つまり雨どいもなく、茅葺屋根から流れ落ちる雨が石畳の縁沿いに当たる。
砂地であれば打たれた雨で穴ぼこになる、石畳であればそうならないのである。
昔はこうした構造であったということだ。
なるほど、である。
話は戻すが、縁切りには抜歯した歯もあった。
下顎の歯が抜けた場合は屋根に放り投げる。
上顎の歯であれば地面に捨てる。
捨てて縁を切るのである。
生まれ育った住之江の大阪市営木造住宅時代ではトイレの屋根・地面であったような気がする。
先生は続けて云った。
徳島県の事例ではこの雨だれ落ちにヒイラギの木を植えたいたそうだ。
鬼の目突きに立春のヒイラギイワシがある。
それと同じようなことなのであろう。
学芸員の許可をもらって屋内に上がらせてもらって解説をされる。
日本は座る文化。
日本間にあるのは畳部屋だ。
その昔は畳部屋なんぞなかった。
あったのは板の間に敷く畳で編んだ円座である。
それに座っていたのは室町時代からだ。
韓国や中国は椅子に座る立つ文化。
座るのは日本独自の文化である。
ちなみに正座はいつから始まったのか、である。
実は昔の女性は膝を立てて座っていた。
これを片膝とよぶ座り方。
それが正座であった。
遊女は今も昔も片膝で座るそうだ。
そういえば、映画やテレビで放映される戦国時代の様相。
戦いの戦術を意見交換する会議に武将が座っていたのは胡坐である。
稀には片膝姿の場面も記憶にある。
そんなことも教えてくださる森先生の話題提供はぐいぐいと引き込まれる。
ところで先生が座った位置に意味がある。
当主は家の状況を常に把握しておくということだ。
この位置荷に座っておれば玄関辺りが見える。
侵入者の動きがここで判る。
逆に私が座った位置は背中。
扉もあるから余計にわからない。
そこに当主が座ることはない。
室町時代より始まった家の神棚。
仏壇は江戸時代である。
神棚を背にしておけば玄関正面が見える構造である。
その座る位置を「ヨコ座」と呼ぶそうだ。
この部屋の奥は寝室。
もっと暗かったはずだ。
寝室は外に向けて閉じた世界を形成している。
寝室は真っ暗なのが本来の在り方。
ここに帳台構えがあれば、時代的にも古いのである。
また寝室は「なんど」とも呼ばれる部屋。
「なんど」に神さんがいる。
その神さんは女性であるという。
「ぬりごめ(塗籠)」という表現がある。
平安時代の読み物に竹取物語がある。
「ぬりごめ」は土壁。
竹取物語の最後に出てくる籠る場所が「ぬりごめ」。
パソコンでキーボードを打てば「塗籠」が出る。
土を塗った壁がある部屋で籠るということだ。
多彩な民俗話に益々のめり込んでいく。
竃柱は神の依り代。
敷居は屋内と屋外の境界を示す結界。
旧鹿沼家の玄関でそう話される。
玄関に建つ柱をみられた先生は、これを乞食柱と昔の人が云っていたそうだと云う。
乞食は施しでなく、家の中に居た災いを持ち去ってもらう役にあると韓国の研究者が論をたてたそうだ。
その乞食柱はホイト柱とも呼ばれるらしい。
「ホイト」とは何ぞえ、である。
調べてみれば岡山県地域言語の一つ。
『岡山民俗事典』によれば、「ホイトー、ホイト、フェートゥ、ヘートーは寿ぎ人から転じて乞食のこと」とあるそうだ。
同事典に乞食柱がホイトー柱とあり、岡山県の備中南部や倉敷市児島地区、真庭市蒜山地区を中心に認められるとあった。
桜井市下にあった旧萩原家を経て奥に向かう。
森先生が是非とも見て欲しいと云われた十津川村旭・迫の旧木村家である。
この建物も昭和50年に指定された県の文化財である。
同家は十津川村特有の建物。
ウチオロシの構造も独特である。
十津川村は谷を挟んだ急峻な地形に建つ。
向こうの岸に見える隣家に行くには一旦は谷に下りてまた登る。
片道歩いて40分もかかると森先生が云う。
敷地は僅かで奥行きがないから横に並んだ棟続きの家屋である。
幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られる大字旭の旧木村家も郷士であった。
たぶんにここ玄関に郷士を示す「士族」の札があったのでは、と云われる。
ちなみに玄関は室町時代から登場する。
それまでの時代は縁が出入りする処だったそうだ。
この家の土間にカラウスがある。
土間であれば地面が見えるが、ここは後年に板の間に換えたようだ。
丸い穴から大きな石の頭が突き出している。
その石は刈った稲の藁打ちの台である。
山間の民家は土間が狭いのが当たり前。
土間が広いほど稲作をしていたことになるのである。
十津川の一部にしか見られないハザカケ構造を建物の外に建てていた。
20云年間に亘って自然観察していた古民家周辺。
建物を写し込んで撮っていたが。
それが今頃になって気がついた。
今年の9月初めに初めて拝見した多段の棚がある。
棚は支柱で支えられた木造の建造物。
大字の内原や滝川にあった多段の棚は稲を架ける構造物である。
十津川村の滝川や内原は「ハダ」と呼ぶ。
同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」である。
吊り橋で有名な谷瀬は「ハデ場」。
旧西吉野村の永谷では「ハゼ」という人もおれば「ハゼ」もある。
地域によっても人によっても呼び名が異なる多段架けの稲架けが大和民俗公園にあったことをあらためて知ったのである。
森先生はここに建っていた構造物を「ハデ」場と呼んでいた。
十津川村の民家に竃がない。
囲炉裏に頼って生活してきた十津川村。
通常は板の間で生活する。
旧木村家の奥には畳部屋がある。
畳を敷き詰めるようになったのは近年である。
村は明治の神仏分離令によって、一部に残ってはいるもののすべてのお寺がなくなった神道の村。
であるが、奥の部屋にある神棚に仏壇がある。
仏壇の名だけが残った証しだそうだ。
戒名もなく、位牌は「ゆはい」と呼ぶ。
仏壇は「ぶちだん」と訛るそうだ。
興味深い話しにどっぷり浸かって2時間。
短く感じたのはとても面白かったからだ。話題の提供もあるが、先生の話し方が心地よくて・・・。
穏やかに丁寧に語ってくれた森先生に感謝する。
この日に話してくださった古民家解説は午後に開催された座談会にも活かされた。
解説を聞けなかった写真展拝観者のみなさん
是非とも館内で販売されている200円の図録を買って、見て、読んでくださればありがたい。
(H28.11.20 SB932SH撮影)
今回で6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展。テーマは「住」である。
11人の写真家がとらえた「住」を3枚組で紹介している。
うち7人の写真家が揃って座談会が行われる。
これまではカメラマントークと称して博物館の講堂で喋っていた。
今回のテーマは「住」だけに、民俗公園に移築された古民家に場を移すのもテーマ性からいってもぴったしカンカン。
移築した民家であるが当時住まいしていた雰囲気を味わいながら座談会をしようということになった。
さて、である。
午前中はこれらの古民家について解説されるツアーが組まれた。
古民家は建築物。
構造論が中心に解説されるのであるなら、また一般参加者の迷惑になっては、と思って参加は見送っていた。
ところがともに出展している森川さんがツアーに参加するからと誘われて仲間に加えてもらった。
駐車場に車を停めたら今度は志岐さんも登場する。
同じ考えで私も、というわけだ。
ツアーの出発地になる移築民家は高取町上土佐にあった旧臼井家の建物。
昭和49年に指定された国の重要文化財である。
そこにもまたもや出展者。
野口さんも、である。
暇かどうかは聞かなかったが関心をもった四人が集まった。
参加者は写真家だけでなく一般参加の男性もおられる。
学芸員に案内されて会場に来られた解説者は関西大学文学部教授の森隆男氏。
民俗が出発点である先生は建物構造にあるのは人が住まいする点を強調される。
臼井家には五つ並んだ竃がある。
そこを指さして云われたのは「奈良のニワカマド」である。
なんとなく聞いたことがある「ニワカマド」。
手元にデジタル映像で複写させていただいた中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
書かれていた記事に目が大きく開いたことは多々あった。
複写した時期は平成19年。
勤務していた大和郡山市の施設。
市民交流館時代のときにお世話になった係長がいた。
係長はこんな本を持っているが、勉強になるならと見せてくださる。
頁をめくるなり「宮座一覧」に飛びついた。
それが記載されていた大和の宮座の他にも御杖村の年中行事や曽爾村の一年、平野の一年、大神神社と芸能、大和八王子とモリサンなどなど。
「奈良のニワカマド」のキーワードで思い出したのが「奈良の庭竃と大歳の客」の章である。
書によれば「元禄五年(1692)、正月刊行の井原西鶴の『世間胸算用』五巻五冊は、西鶴最晩年(51歳)の作品群。
その巻一第一章に中・下層町人がせっぱつまって演ずる世態・人情の悲喜劇が描かれており・・・。
この中の巻四の二に「奈良の庭竃」という歳末風景が書かれている」とある。
詳しくは割愛するが、森先生が云うには、一年が新しくなるときに竃を塗り替えたということだ。
西鶴の書は江戸時代のはじめ。
大晦日から正月にかける「和歌山の火継ぎ」儀礼があると云う。
奈良では新しく点けた火を・・・次の年次に移る、つまりは時間の境界跨ぎである。
土間で暮らしていた奈良の町屋。
寝室の敷居は一段高い処にある。
それを「帳台構え」と呼ぶ。
岐阜では藁を積んでいた寝室だった。
藁敷きは温かいということである。
「帳台構え」の寝室に寝ていたのは当主夫妻に子供たち。
代替わりに隠居した祖父母は「帳台構え」から外れて奥の客間に移る。
土間には張り出しの腰かけがある。
ちょこんと座るような感じの張り出し腰かけの板の間。
実は家人が食事をする場であった。
上部を見上げてみよう。
私は茅葺家を拝見したらついつい見上げてしまう屋根裏構造。
先日に訪れた京都府の南山城にある神社の舞殿の屋根は銅板葺きになってはいるものの、内部の屋根裏は茅葺だった。
木材で組み立てた屋根は茅であったのだ。
何度か訪れた桜井市小夫の秀円寺は茅葺。
屋根裏構造に使われていたのはススンボの竹だった。
屋根裏の材が何であるのか、ついつい知りたくなるのである。
旧臼井家の屋根裏は竹の簀の子に土を混ぜて組んでいた。
火事を避けて、なおかつ防寒にもなる屋根裏構造である。
ところで玄関を入ったところの右上に開き戸がある一室がある。
いわば中二階にある構造の部屋は使用人が寝泊まりする場である。
玄関を出て外に出て外観を見る。
茅葺民家の臼井家を移築したのは昭和51年。
すでに40年も経過している。
屋根の茅葺は移築したままなのか、それとも間にカヤサシをしていたのか存じていないが、やや朽ちかけている部分がある。
屋根のてっぺんにのせてある木材である。
棟押さえの別名に「ウマ」とか「カラス」の名で呼ばれることもある。
この棟押さえの本数は奇数が基本。
神社建築も同じように偶数はあり得ないそうだ。
ちなみに旧臼井家の本数は17本。
一般的な庄屋家であっても7本。
あまりにも多い本数に森先生は驚かれる。
ちなみに旧臼井家は二万五千石の旧高取藩城下町。
主に油・酒・醤油の販売をしていた名家であった。
場を移動する。
次は大和高田市永和町にあった旧鹿沼家。
昭和55年に指定された奈良県指定文化財。
昭和54年に移築された。
次は昭和52年に同じく指定された県指定文化財の橿原市中町の旧吉川家。
奈良県平たん盆地部にある農家建築。
農家と云っても庄屋宅である。
ここで教わったのが雨だれを避ける雨どいである。
参加していた一般男性が質問された雨どい(雨樋)は昔からあったのでしょうか、である。
雨樋が一般的に広まったのは江戸時代。
大火に悩んだ奉行は類焼を防ぐために瓦葺の町屋を奨励した。
つまりは都市化である。
町屋は普及したものの雨水の落下による柱根元や土台が傷む。
傷めば腐る。
腐れば民家は崩れる。
こうした事象を防止するための構造が雨樋である。
今では金属製からプラスチック製になったが、江戸時代は木製か竹製。
古代の水路もそうだが同じく木製か竹製。
場によって材は違うが、江戸時代の雨樋は木製か竹製である。
参加者が気づかれた雨どいはすべてにあるわけではなかった。
ここが不思議。
一般的な家屋であれば雨だれを避ける雨樋は雨が流れ落ちるすべてのところにあるはずだ。
旧吉川家は何度も見ているが、今の今まで、なんで気がつかなかったのだろうか。
家屋にある玄関口辺りにしか構築されていないのである。
つまり昔は雨どいなんてものはなかったのである。
森先生が云うには玄関はここを越えるかどうか、別世界に出たり入ったりする結界にあるという。
雨どいを構築していない奥にある部屋がある。
そこには縁側がない。
縁側は江戸時代後期に造られた。
特別な場合になる縁側から直接出入りする場合がある。
家人が亡くなったときはその人が使っていた茶碗は縁(この場合は縁側でなく縁である)から捨てて割る。
藁火を焚いて葬儀の旅立ちをするのも縁である。
つまりはこの家から縁を切るということだ。
その縁のところに直線状の石畳がある。
足元をとらえた写真がある。
その端の部分は「雨だれ落ち」。
つまり雨どいもなく、茅葺屋根から流れ落ちる雨が石畳の縁沿いに当たる。
砂地であれば打たれた雨で穴ぼこになる、石畳であればそうならないのである。
昔はこうした構造であったということだ。
なるほど、である。
話は戻すが、縁切りには抜歯した歯もあった。
下顎の歯が抜けた場合は屋根に放り投げる。
上顎の歯であれば地面に捨てる。
捨てて縁を切るのである。
生まれ育った住之江の大阪市営木造住宅時代ではトイレの屋根・地面であったような気がする。
先生は続けて云った。
徳島県の事例ではこの雨だれ落ちにヒイラギの木を植えたいたそうだ。
鬼の目突きに立春のヒイラギイワシがある。
それと同じようなことなのであろう。
学芸員の許可をもらって屋内に上がらせてもらって解説をされる。
日本は座る文化。
日本間にあるのは畳部屋だ。
その昔は畳部屋なんぞなかった。
あったのは板の間に敷く畳で編んだ円座である。
それに座っていたのは室町時代からだ。
韓国や中国は椅子に座る立つ文化。
座るのは日本独自の文化である。
ちなみに正座はいつから始まったのか、である。
実は昔の女性は膝を立てて座っていた。
これを片膝とよぶ座り方。
それが正座であった。
遊女は今も昔も片膝で座るそうだ。
そういえば、映画やテレビで放映される戦国時代の様相。
戦いの戦術を意見交換する会議に武将が座っていたのは胡坐である。
稀には片膝姿の場面も記憶にある。
そんなことも教えてくださる森先生の話題提供はぐいぐいと引き込まれる。
ところで先生が座った位置に意味がある。
当主は家の状況を常に把握しておくということだ。
この位置荷に座っておれば玄関辺りが見える。
侵入者の動きがここで判る。
逆に私が座った位置は背中。
扉もあるから余計にわからない。
そこに当主が座ることはない。
室町時代より始まった家の神棚。
仏壇は江戸時代である。
神棚を背にしておけば玄関正面が見える構造である。
その座る位置を「ヨコ座」と呼ぶそうだ。
この部屋の奥は寝室。
もっと暗かったはずだ。
寝室は外に向けて閉じた世界を形成している。
寝室は真っ暗なのが本来の在り方。
ここに帳台構えがあれば、時代的にも古いのである。
また寝室は「なんど」とも呼ばれる部屋。
「なんど」に神さんがいる。
その神さんは女性であるという。
「ぬりごめ(塗籠)」という表現がある。
平安時代の読み物に竹取物語がある。
「ぬりごめ」は土壁。
竹取物語の最後に出てくる籠る場所が「ぬりごめ」。
パソコンでキーボードを打てば「塗籠」が出る。
土を塗った壁がある部屋で籠るということだ。
多彩な民俗話に益々のめり込んでいく。
竃柱は神の依り代。
敷居は屋内と屋外の境界を示す結界。
旧鹿沼家の玄関でそう話される。
玄関に建つ柱をみられた先生は、これを乞食柱と昔の人が云っていたそうだと云う。
乞食は施しでなく、家の中に居た災いを持ち去ってもらう役にあると韓国の研究者が論をたてたそうだ。
その乞食柱はホイト柱とも呼ばれるらしい。
「ホイト」とは何ぞえ、である。
調べてみれば岡山県地域言語の一つ。
『岡山民俗事典』によれば、「ホイトー、ホイト、フェートゥ、ヘートーは寿ぎ人から転じて乞食のこと」とあるそうだ。
同事典に乞食柱がホイトー柱とあり、岡山県の備中南部や倉敷市児島地区、真庭市蒜山地区を中心に認められるとあった。
桜井市下にあった旧萩原家を経て奥に向かう。
森先生が是非とも見て欲しいと云われた十津川村旭・迫の旧木村家である。
この建物も昭和50年に指定された県の文化財である。
同家は十津川村特有の建物。
ウチオロシの構造も独特である。
十津川村は谷を挟んだ急峻な地形に建つ。
向こうの岸に見える隣家に行くには一旦は谷に下りてまた登る。
片道歩いて40分もかかると森先生が云う。
敷地は僅かで奥行きがないから横に並んだ棟続きの家屋である。
幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られる大字旭の旧木村家も郷士であった。
たぶんにここ玄関に郷士を示す「士族」の札があったのでは、と云われる。
ちなみに玄関は室町時代から登場する。
それまでの時代は縁が出入りする処だったそうだ。
この家の土間にカラウスがある。
土間であれば地面が見えるが、ここは後年に板の間に換えたようだ。
丸い穴から大きな石の頭が突き出している。
その石は刈った稲の藁打ちの台である。
山間の民家は土間が狭いのが当たり前。
土間が広いほど稲作をしていたことになるのである。
十津川の一部にしか見られないハザカケ構造を建物の外に建てていた。
20云年間に亘って自然観察していた古民家周辺。
建物を写し込んで撮っていたが。
それが今頃になって気がついた。
今年の9月初めに初めて拝見した多段の棚がある。
棚は支柱で支えられた木造の建造物。
大字の内原や滝川にあった多段の棚は稲を架ける構造物である。
十津川村の滝川や内原は「ハダ」と呼ぶ。
同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」である。
吊り橋で有名な谷瀬は「ハデ場」。
旧西吉野村の永谷では「ハゼ」という人もおれば「ハゼ」もある。
地域によっても人によっても呼び名が異なる多段架けの稲架けが大和民俗公園にあったことをあらためて知ったのである。
森先生はここに建っていた構造物を「ハデ」場と呼んでいた。
十津川村の民家に竃がない。
囲炉裏に頼って生活してきた十津川村。
通常は板の間で生活する。
旧木村家の奥には畳部屋がある。
畳を敷き詰めるようになったのは近年である。
村は明治の神仏分離令によって、一部に残ってはいるもののすべてのお寺がなくなった神道の村。
であるが、奥の部屋にある神棚に仏壇がある。
仏壇の名だけが残った証しだそうだ。
戒名もなく、位牌は「ゆはい」と呼ぶ。
仏壇は「ぶちだん」と訛るそうだ。
興味深い話しにどっぷり浸かって2時間。
短く感じたのはとても面白かったからだ。話題の提供もあるが、先生の話し方が心地よくて・・・。
穏やかに丁寧に語ってくれた森先生に感謝する。
この日に話してくださった古民家解説は午後に開催された座談会にも活かされた。
解説を聞けなかった写真展拝観者のみなさん
是非とも館内で販売されている200円の図録を買って、見て、読んでくださればありがたい。
(H28.11.20 SB932SH撮影)