マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

華香る芝桜庭園

2018年05月21日 09時31分34秒 | 山添村へ
さて、である。旧都祁村荻で売っていた臭い猪肉の原因がわかったところで、次はどこへ行く。

ここより川沿いに下っていく国道25号線がある。

北上すれば山添村桐山にでるが、手前の的野から県道80号と交差する信号の少し手前に集落がある。

そこは峰寺の村外れ。

数日前に通りかかったときに見つけた田植えの初めの在り方と思えるミトマツリである。

田の所有者はたぶんに宮総代のMさん。

伺ってミトマツリの件の教えを乞いたい。

そう思って家までたち寄ったら不在だった。

M家の隣になるお家は平成24年の当家を務めたくO家。

六所神社の祭りに出仕される当家。

宵宮のお渡りに本祭のお渡りについていって取材させてもらった。

祭りを終えて当家に戻ってくれば当家の祭りを家でする。

祝い唄を謡いながら神社奉納から戻ってきた一行は当家家でもてなし宴になる。

賀状でやり取りはしているもののお元気にしておられるのか、表敬訪問する。

玄関扉の向こう側はピンク色の庭園がある。

呼び鈴を押したらOさんが居られた。

懐かしいお顔に再会する。

当家の祭りのときの庭園はなにもなかった、と云えば失礼だが、お渡りの出発地だけにお花を植えるわけにはいかない。

あれから数年かけてここまえ拡がったという芝桜で覆いつくしている。

見事な庭園にうっとりする。

この芝桜はピンク色だけでなく白色もあれば紫色も。

同じピンク色でも濃淡がある。

何種類の芝桜を植えたのですか、ときけば一種だという。

何年か経てばそうなったという華の庭園に寝そべってみたいと思った。

Oさんと別れて隣村の室津に行く。

戸隠神社の祭りも宵宮、本祭ともお世話になった当屋家がある。

撮らせていただいた何十枚もの写真を届けたくて訪れた。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)

車中持込の我が家のちらし寿司

2018年05月20日 08時32分03秒 | あれこれテイクアウト
前夜の晩食はちらし寿司。

美味しいのだが食べる量が限られる。

おかわり2杯目は厳禁。

基本的にはご飯をたべない晩食。

宿屋に宿泊したときはいただきもするが、二十歳代からご飯抜きを原則としている。

なぜにそうなったのか。

一つは中学時代の友人たちと東北旅行に行ったときだ。

彼らは酒を飲む。

アテというか酒の肴でビールを飲む。

当時の私はおぼこかた。

最初に口にするのはおかずにご飯だ。

何してんねんと云われて真似るようになった。

もう一つの要因は先輩からの教えである。

先輩といっても人生の先輩。

数人でその先輩たち数人と若手職員が集まって旅にでることになった。

なにかと気が合うメンバーだった。

その当時は先に酒を飲むようになっていた。

飲み終えたら〆のご飯である。

どこの旅館もそうだが、〆に香物とご飯が出てくる。

先だって泊まった大宇陀の椿寿荘でもそうだ。

当たり前の世界だが、一人の人生の先輩が云った。

私は朝も、昼も、夜もご飯を食べたことがない、という。

その人はとてつもなく酒量の多い酒飲みだった。

酒はお米でできとる。

お米が酒や。

酒を飲んでいたらお米は要らん。

ビールもそうや。

ビールの原料もお米や。

コーンスターチが原料もんもあるが、お米もある。

お米もコーンスターチも穀物や。

お腹を満腹にさせよる。

酒、ビールの液体を飲むだけで適量や。

そういって一生、死ぬまでそう生きていくと云っていた人生の先輩に感化されて、我が家の食事にご飯は不要とした。

尤も我が家といっても私だけのやり方である。

ただ、私の朝食は必ず一杯のご飯と味噌汁を食べる。

朝のおかずはたき物の天ぷら。

いわゆるさつま揚げが一番美味い。

毎日はいただけないが・・。

で、この日の朝食は昨夜の残り物のちらし寿司だった。

たったの一杯しか食べないから、また残る。

仕方ないというわけではないが、ついでだからと思ってパックに詰めて持ってきた。

お腹が減った時間帯にいただく我が家のちらし寿司。

3回目になっても美味しかった。

(H29. 5. 5 SB932SH撮影)

旧都祁村荻の村産直販売所

2018年05月19日 09時24分58秒 | 民俗あれこれ(売る編)
全廃の可能性が高まった県内のフキダワラ習俗に愕然とした天理市山田町を離れて次に向かう地は旧都祁村の一つ。

荻に向かう。

気になっていた村の産直販売所である。

施設は末広屋大野橋直売所の名が正式。

ここに行けば美味しいものがある。



自家栽培の採れたて野菜に高齢のばあちゃんたちが真心こめて作っているイロゴハンやちらし寿司。

行けば何かがある。

もう一つの目的は民俗行事について教えを乞うことである。

その前に確認しておきたいことが一つある。

それはここで売っていた猪の焼肉の件である。

美味しそうな香りに釣られて買った焼肉。

冷めてしまったらとんでもない臭い。

えー匂いではなく腐った臭い。

戻しそうになる強烈な臭いがたまらんかった。

もし、この日も売っているなら、ご注進したくて立ち寄った。

店番していた二人の売り子さん。

あの猪肉を焼いて売っていたのは村の人ですか、と聞けば、そうではないという。

肉を焼いて売っていた男性は荻ではなく、隣村の下深川に住む男性だという。

ときおりであるが、店の横で売っているが、場所借りして売っているから、売り物についてはお店に責任はないという。

注進はできなかったが、原因を教えてもらった。

冷めたら臭いのは猪の下処理が上手くできていなかった証拠。

それも血抜き処理をしていなかったからや、という。

私らもいっぺん買って食べたら、とんでもない臭い、味だったという。

なんてこったい、である。

話題は民俗行事に切り替える。

一つは2月15日に行っているという子供のネハンコ。

もう一つは4月28日に村神主が山に登って、荒神さん参拝をしているという。

詳しく知らないから区長に聞いてみたら、と云われるが、次回廻しに尋ねるとして次の地へ向かった。

その道沿いである。

荻に珍しい、てっぺんに杉の葉をつけたコイノボリの支柱がある。



今年もしていたのが嬉しい。

初めて見たのは平成26年の5月6日だった。

なぜにここにあるのか尋ねた結果は、道行く人たちに愉しんでいただこうということだった。

(H29. 5. 5 SB932SH撮影)

別所町・苺農家の水口まつり

2018年05月18日 08時05分50秒 | 天理市へ
二日前の3日に立ち寄った季節販売の採れたて苺を売っているお店である。

奈良の特産苺の一つであるあ・す・か・ル・ビ・ーを販売しているお店である。

毎週の通院に必ず通る街道沿いにある、そのお店が気になって、窓越しに店外に並べる苺パックの値段を見ていた。

今年こそは、と思って狭い停車地に車を停めて品定め。



どれもこれも美味しそうな苺。

我が家で食べる量を考えて1パック250円の苺を買った。

売り子は高齢婦人。

奥の部屋でパック詰めなどをしていた婦人に苺栽培の難しさなどを聞いていた。

話せば住まいは天理市の別所町。

苺ハウスがある地も別所町。

婦人が云うには、苺は季節もん。筍も掘る時季母とにかく忙しいが、稲作栽培もしているという。

もしや、と思って尋ねてみたら、水口まつりをしているという。

築400年の家。かつてはみしろ(※筵)百枚も敷いていたと話す。

敷いた場は、おそらくカド。

収穫した玄米を筵に広げて干していた。

場がカドであるから、これをカド干しと呼んでいた。

旧村農家の人たちは、どこでもそう呼んでいた場である。

かつては“なえまっつあん”を苗代に立てていた。

“なえまっつあん”とは言い得て妙な名前である。

稔った稲が穂をつける姿に見立てて松葉を束ねて作った“苗松”さんを“なえまっつあん”と呼んでいた。

今でもその名残もあって、石上神宮が祭祀されるでんでん祭のお田植祭の松苗も“なえまっつあん”と呼んでいた。

時期は聞かずじまいだったが、家にある荒神さんに“なえまっつあん”を奉っていたらしい。

正月飾りの注連縄を燃やすとんど焼き。

焼いた灰を畑に蒔いたら豊作になるという習俗も話してくださった。

今年の5月5日は孫とともに苗代作りの作業をするという。

二日前に教えてもらった苗代田に行ってみた。



風除け、日除けの幌も被せていた。

この状況では、苗代作業のすべてが終わっている証拠。

どなたもおられない苗代田に呆然と立っていた。

朝早いと云っていた時間帯は6時。

作業をはじめだした2、3時間が作業の終わりぐらいであろう、と思ってやってきた午前9時。



使用していた農具はそのままの状態で残っている。

がらんとした雰囲気を拝見して、田主さんらはどこかに行かれたような状態にあった。

待っている間には、どなたかが戻って来られるだろうと思って、作業を終えた苗代田の情景を撮っていた。

その場にあった不思議なもの。



これってなぁに、と思った不思議である。

これまで県内各地でさまざまな苗代田を拝見してきたが、見たことのない不思議な様相。

私がこれまで見た限り、前例のない在り方。

これはいったいなんであろうか。

幌を被せた水苗代の四方に4カ所。

それぞれの場所に不特定な葉付きの枝木を挿していた。

葉は萎れているから、挿した間際でない。

時間はどれくらい経過しているのだろうか。

葉が萎れている状態から判断する。

摘んで、挿して、それから今に至る経過時間は30分。

いや、そうでもなくて1時間・・・。

いくら待っていても時間が経過するばかり。

田主さんが不在であれば、婦人が居られる苺売り場に行くしかない。

行って、こういう状態だったと伝えたい。

いや、それは文句ではなく、田主さんの所在を尋ねることである。

まさか、今、私が見ている苗代田は苺売り婦人の所ではないかもしれない。

そんなことはないと思うが念のため、苺売り場に移動する。

そこには婦人も居られたが、軽トラに乗ったまま休んでいた旦那さんもいた。

話しを聞けば苺農家の朝は早い。

真夜中の1時に起きて苺を収穫している。

息子さんもおられるがたいへんな作業。

朝方までかかって収穫した苺は息子さんが奈良県中央卸売市場に出荷する。

苺の収穫作業を終えた親父さんは朝の6時から娘たちの力を借りて苗代作りをした。

作業は7時に終わって、ようやく一段落。

車内で身体を休めていたという。

私を待っていたかどうかは別にして、ついてこいという。

先を走る軽トラに離されないように、かつ慎重な運転でついていく。

狭い道をあちこち曲がって線路も渡る。

ここら辺りの旧道は天理街道だったと思う。

随分前に通ったことがあるから、どことなくわかる旧道。

線路を渡った西。

そこは苺ハウスでもなくいろんな作物を栽培している畑だった。

おもむろに動いた親父さんは咲いていたお花の摘み取り、と思ったが、そうではなかった。



先にし出した作業は栽培する苺苗の水やりだ。

この日はカンカン照り。



暑くなった日には幌を捲って風を通す日課作業である。

ハサミを持った田主は奥にある花畑に。



黄色い花に花しょうぶも摘み取る。

何本かを摘んで軽トラに乗った。

すぐに向かうと思ったが、そうではなかった。

車を停めた場所で立ち話である。

40年前のこと。

当時の苗代田に“ナエノマツ”の名で呼んでいた松葉を束ねた模擬苗を立てていた。

模擬苗は別所町の氏神さんである山邉御縣座神社(やまのべみあがたにいますじんじゃ)行事に奉っていた。

おそらく祈年祭であろう。

その模擬苗をたばって苗代田に立てていた、と話す。

山邉御縣座神社は別所町の他に天理市西井戸堂の地にもあるが、正式神社名は山邉御縣坐神社である。

別所町の山邉御縣座神社の本殿は明治期まで建築されることなく、背後の尾崎山をご神体に岩座跡の石組遺構が。

その場を玉垣宮と称した斎宮であったようだ。

例祭は10月1日。

今では村行事のお渡りがあるようだが、かつては神社付近の御一統(※宮座組織であろう)で神社を護っていた。

一統は10軒であったが、一統を抜けるとか、病に伏して引退するなど、徐々に縮退し、昨年にはたったの3軒になったという。

当時のお渡りにトーヤが就く白装束姿だった。

一老、二老は終身制。亡くなるか、引退しなかぎり一統中を務めていた。

一統入りを認めてもらう「イリク」祝いの行事もあったという村座である。

明治21年、赤と白の二分に分かれたときは40人。

歴史ある神社行事は廃れる部分もあるが、今でも装束を着てお渡りをしているようだ。

その様相を詳しく知りたくなった山邉御縣座神社は、一度伺いたいと思った。

イロバナを摘み取った田主のNさんは、乗っていた軽トラのエンジンを始動した。

こからから苗代田に戻ってハナを立てるというから、再び、遅れないように後ろにくっついて走る。

戻ったところで聞いてみた苗代田に挿してある枝木の目的。

それは並べる苗箱の端を示す位置にある。

東の苗代に2カ所。

北と南の端にそれぞれ1本ずつ。



そこらに生えていたなんでもない枝木を折って挿した。

一方、西側にも同じように北と南の端に挿した。

それらは苗箱を並べるときにズレはないように挿した印であった。

距離を測るために挿したという。

なるほど、である。

つまりはチョナワを張らなくとも、その枝木の印をもって距離をとるということは、幌被せをしてもわかるということになる。

並べた苗箱は205枚。



すべてが熊本産のヒノヒカリだという苗代田。

育った1カ月後の6月10日ころに田植えをするという。

昭和11年生まれのNさん御歳81歳。



水口辺りの場に立ったままの姿で花を立てる。

普通であれば、膝を曲げて屈んでするが、膝は伸ばしたままである。



水口を挟んだ両端にそれぞれイロバナを立てた。



なかなか見事な立ちっぷりである。

Nさんが云うには、たばってきた石上神宮の苗ノ松を立てる場合もあるらしいから、再訪してみなければならない。



使ったか、使わなかったのか聞かずじまいのチョナワや櫛歯のレーキなどを片づけ始めたNさん。

今年は遅霜だった。

キュウリやスイカ畑にキャップはなかなか外せなかった、といいつつ畑に出かけた。

(H29. 5. 3 SB932SH撮影)
(H29. 5. 5 EOS40D撮影)

竹之内町の苗代マツリ

2018年05月17日 09時32分41秒 | 天理市へ
昨年に訪れたとき、田主が私に云った。

神社行事に祈年祭のオンダ(御田植祭)がある。

場所は山の辺の道にある環濠集落。

天理市の竹之内町である。

オンダと云っても牛は登場しないし、所作もない。

あるのは村の戸数分の40セットを作って奉った松苗があるだけだ。

行事の前日までに4人トーヤが山中に入ってチンチロ付きの雄松を採取して2本を藁縄括り。

参拝者が持って帰った松苗はイロバナとともに苗代田に立てる。



そんなことをしているのはうちだけやと云っていた柿農家の男性に背中を押されて今年初めてオンダの行事を拝見した。



苗代田は昨年と違って隣家でもしていた。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)

乙木町の苗代イロバナ

2018年05月16日 09時02分15秒 | 天理市へ
かつて天理市の乙木町に御田植祭があったと云われる。

小正月の1月15日に一老が牛男となって祭祀を務めた。

御供に握り飯があったとされるが今は行事すらない。

ずいぶん前に中断したと聞いたことがある。



御田植祭がなくとも苗代田にイロバナがあった。

花は白色のカラー。

後方の白い幌と同じなので目立たない。

目立たないが目についた。

田主に話を聞いてみたいが、付近には誰もいない。

再訪する機会があれば、行事も含めて尋ねてみたい。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)

豊井町の苗代マツリ

2018年05月15日 08時50分03秒 | 天理市へ
大和郡山市を離れて天理市に足を運ぶ。

はじめに見ておきたい地域は豊井町。



ここら辺りではたぶんにこの田主しかしていないと思われる苗代田がある。

今年も端っこの角に奉っていたケッチン行事の松苗である。

ケッチン行事は1月19日に行われる豊日神社の結鎮行事。

ヤナギの枝に結わえたごーさん札も奉るが、なぜか苗代まつりに登場しない。

結鎮行事をされていた村の人らはカッチンと呼ぶチンチロ付きの松苗とともにイロバナを立てると云っていたが、ヤナギの枝に結わえたごーさん札は話題に上らなかった。

上らないということはしていないということになる。

豊作を願って奉った松苗の1束が風に煽られて苗代水面を移動していた。



折角なので、元の場所と思えるところに戻してあげた。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)

井戸野の水口マツリ

2018年05月14日 09時02分40秒 | 大和郡山市へ
天理市中之庄町の苗代作りの一部始終に水口まつりを拝見して一旦は自宅に戻る。

その帰り道に選んだ道は大和郡山市の井戸野町を通る道。

これまで何度も通っていたのにまったく気がつかなかった苗代のイロバナ。

まさか、ここにあるとは・・。



ここより西方にある地は同市の美濃庄町や、大江町若槻町、稗田町。道沿いにある苗代田にはイロバナに松苗がある。

井戸野町もそうだが、これらの地域は大和郡山市にある旧春日神領地。



その他の地域に下三橋町、上三橋町、番匠田中町、横田町、発志院町、中城町、石川町もある。



今では少なくなったが、農家は村の鎮守社の春祭りなどでたばったお札などとともに春日大社の松苗も立てている。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)

中之庄町の水口マツリ

2018年05月13日 09時21分29秒 | 天理市へ
5月3日は水口まつりの調査に天理市の和爾町や森本町を流離っていた。

付近は圃場が広がる田園地。

何カ所かに白い幌を被せた苗代田がある。

集落民家に近いところにもある。

念のためにと思って探してみたが、イロバナなどは見られない。

その近くに農小屋があった。

声がするので伺えば、隣の家は苗代を作って、明日にはイロバナを立てるという。

そう話す天理市の中之庄町の男性。

うちは明日に苗代をするという。

しかもだ。

煎った米を蕗の葉にのせて祭るというから色めいた。

中之庄町は京都二条家の荘園だった。

代々が宮家か宮司を務めていた。

昔は伊勢神宮との関係があった。

また、平安神宮の調書に柿本人麻呂の住居があったと記されているという由緒ある旧村。

集落中央に位置する場にある神社は天神社。

そこより東南の集落端にある小社は宇迦内入之大神(稲荷社)。

大和郡山市の稗田町の稗田神社の宮司が出仕されて祭祀を務めているそうだ。

さて、煎った米を蕗の葉にのせてイロバナを添えて奉るという苗代のまつり。

苗代田に水を入れ、逆に流す水口。

水苗代の育苗に必要な水を出し入れする口である。

その水口にイロバナを添えているなら水口まつりと称していいだろう。

予め、家でフライパンに入れた米を煎っておく。

これをイリゴメ(煎り米)と呼ぶ。

予めしておく訳は、苗代作りの作業に長靴を履くことである。

一旦、長靴を履いたら家には戻り難い。

イロバナを立ててイリゴメをするのは苗代作りの最後の工程になる。

いちいち戻ることが難しいので、先に準備しておくということだ。

ちなみにイリゴメの米は粳米でなく、糯米である。

籾種にする糯米をフライパンで煎ると爆ぜる。

爆ぜる米は飛び散る。

ばらばらに飛んでしまわないようにザルを伏せて抑えているそうだ。

弾けるというか、爆ぜる米である。

これを蕗の葉にのせて水口に祭る。

つまり田んぼの神さんに供えるのは糯米であった。

昔は、山に住む人が来た。

その人たちは苗取りをしていた。

その作業から“ナエトリサン”と呼んでいた。

ナエトリさんは束にした苗は水を湛えた田に投げていた。

田植えをしている人の前に投げて手にしやすくしていた。

その時代は直播きだったという。

このような話題を提供してくれたTさん。

中之庄町の集落から西になる旧村は森本町。

そこにある碑文は大峯山に33回も登った先達の記念碑だという。

さて、翌日の4日である。

苗代作りのすべてを終えてから水口まつりになるので昼前になる、と話してくれたが、苗代作りの一部始終を拝見したく朝一番に訪れた。

T家の育苗箱は170枚。

品種は粳米のヒノヒカリに糯米のアサヒモチである。

T家の苗代作りの場から少し離れたところにイロバナがあった。

白い幌を被せて苗代作りを終えた。

そのお家はモチゴメの御供はなかったが、アヤメやシャガ、コデマリなどのお花でイロバナをしていた。



先ずは均しておいた苗床にチョナワを張る。

チョナワは俗称であるが、農家の人はまず間違いなく田植え縄のことをチョナワ(※ミズナワと呼ぶ人もいる)と呼んでいる。

T家のチョナワ張りは苗床の縦に一筋。

苗床の中心ではなく端っこである。

これまで拝見した県内事例ではたいがいが中央であるが、T家のような端っこは事例的に少ないのかもしれない。

次の工程は穴開きシート置きである。



苗床際の側面を一直線に張ったチョナワを基点に穴開きシートを広げていく。

ロール状の穴開きシートを広げるには二人がかり。

腰を屈めて転がしてシートを伸ばす。

泥田の苗床だからぺちゃっ、とくっつく。

そんなことで外れないように端を抑えておく必要性もない。

くるくる回して少しずつ広げていく。

この日の苗代作りに応援する人がいる。

コウノトリが飛ぶ町として名高い兵庫県豊岡から駆け付けた娘婿さん。

孫さんも手伝う家族ならではの苗代作りはどことなく温かくてほのぼのする。

水口まつりはすべての作業を終えてされる豊作願いの行為。

それまでの工程をこうして拝見させていただくことに感謝する。

苗床が調えば農小屋に納めていた苗箱運びである。

何枚か重ねて運ぶ人海戦術もあるが、運ぶ距離が徐々に伸びていくから体力も余計に増えていく。

体力負担を避けるためには運搬機が要る。

その運搬機に運べる苗箱の量はしれている。

段数を数えてみれば3×6枚の18枚だ。



まずは近場から。

運搬車から取り出して抱えた苗箱は奥さんに手渡す。

基点のチョナワの線に沿って、一枚をまず苗床に置く。

次の苗箱も奥さんに手渡す。

奥さんは苗床の向こう側に立つご主人に手渡す。

ご主人はその位置で苗箱を下ろす。

その際、先に置いた苗箱の角を合わせて下ろす。

なるほどである。

こうして作業を繰り返していけば、張ったチョナワ線通りのぶれない苗箱置きができるというわけだ。

ただ、手渡す際に、どうしても中腰にならざるを得ない距離がなんとも辛い。

これまで各地で拝見してきた苗箱置き。

中腰が一番辛い。

腰を痛めていたご主人は、これがなんとも耐えられない作業だった。



運搬車のプレートに「Robin」の文字がある。

型番はEH12番。

型番はロビンエンジンであったが、キャタピラ駆動の運搬車はどこの製造会社だろうか。

名称もわからないので、ロビンEH12エンジン搭載キャタピラ駆動運搬車と呼んでおこう。



徐々に運ぶ距離が伸びていく。

積みだし作業に運搬作業。

その間は腰かけて身体を休めるご主人。

そうしないとますます腰を痛めることになるから少しでも休憩しながらの作業である。



置き場に到着した苗箱はこれまでと同じように、一枚、一枚の手渡しでおいていく。



この日は青空が一面に広がる快晴日。



真っ青な空に白い雲がふわふわ移動する。

次の工程は風除け、鳥除けのトンネル覆い。

白い幌を被せるが、その前にしておきたいぐにゃっと曲がるポール立て。

一方を苗床すれすれの泥土に差し込む。

もう一方は曲げて同じように差し込む。

差し込みが浅いと外れる場合もあるから深く、ぐいと押し込むように挿す。



ご主人に、このポールの名前を尋ねたら、特に名称はなく、グラスファイバー製だという。

ただ、新品のグラスファイバーであれば、なんともないが、長年使って、古くなったポールは経年劣化に、ピッ、ピッと毛が立つ。

細かい毛がいっぱいあるから素手で掴んだら怪我をする。

棘が刺さったとなればたいへんなことだ。

そういうポールであるから取り扱い注意。

写真でもわかるように軍手ではなく、厚めのゴム手袋に履き替えて作業をしていた。

ポール立て作業にもう一つの道具が登場する。

写真でわかるようにポールを立てる位置に定規を充てて距離を一律にとっている。

定規は幅が同じ長さの板である。

ざっくりとした距離でなく正確に間隔をとりたいということである。

すべてのポール立てをし終えたころ。

向こうのハウスからトコトコ歩いてくる婦人がいた。



朝に出かけた婦人の畑。

農作業をしてちょっとした収穫野菜を持ち帰っていた婦人。

畑作業をするのもそうだが、こうして毎日動いているのがイチバンだと笑っていた。

T家のすぐ近くに住んでいると話していたご高齢の婦人。

昔はうちでもしていたが・・と。

そのころに娘さんがやってきた。



今から水口に立てるお花を採りにいくというからついていく。

実はイロバナにツツジの花を用意していたが、茎が短くて水を吸い上げることができなくて、花が萎れてしまった。

仕方ないからお花の採取にもう一度ということである。

ここ苗代の場からちょっと歩いて県営圃場整備事業竣工に合わせて造った農道にまで行く。

そこにあったT家の畑。

稲作は苗代の地でするが、野菜やお花などはここで栽培している。



向こうの山々は奈良市・旧五ケ谷村になる。

気持ちが良い天気の日の花摘みは矢車草に大きなボタンの花。

抱えるようにして戻ってきた。

その間にも作業は進展する。

先ほど立てたポールの上からゴツ目生地の白い幌を被せていく。



この日は無風状態。

風があれば幌の下に空気が入って幌は煽られる。

強風であればなんとも作業し難い状況であるが、本日は風がまったくない。



幌の縁を折りたたんだところに抑えのポールを立てる。

ぐいと押し込んで、それこそ抜けないように強く挿しこむ。

こうなると孫さんの出番がなくなる。



暇を持て余してスコップで掘り起こし作業。

さて、何をしているのだろうか。

幌のすべてを被せて、また風で飛ばされないように裾部分をしっかり押さえる。

抑えに使う道具は鉄棒。

それが見えないように幌の端に置いて、くるくる巻いた。

合計で170枚のヒノヒカリとアサヒモチのすべてを並べ終えた。

娘婿、孫にも手伝ってもらった苗代作りは目途がたった。

そろそろ始めますと云ってくれた奥さんの声に慌てて動く。



お家で煎ってきたモチゴメを蕗の葉にパラパラと落とす。

煎ったお米の形はまるでまるでポップコーン。

蕗の葉を優しく手で包んだ漏斗状態。

毀れないようにそこにパラパラ落とした。

粳米なら煎ってもここまで爆ぜない。

その点、糯米はフライパンで煎るだけでこのように爆ぜてくれる、という。

できあがった水苗代の水口に持っていく。

そこに娘さんが採ってきた矢車草とボタンの花を立てる。

爆ぜコメをのせた蕗の葉を広げた。

これまで見てきたイロバナの中では一番豪勢なボタンの花が見事である。

水口まつりをする前から風が吹き始めていた。

立てたイロバナは風に煽られないが、軽い蕗の葉はすぐにめくれ上がる。



風がおさまったときの一瞬にシャッターを押す。



その様子を上空から見つめているカラスがいた。

人がいなくなれば降りて来て爆ぜたお米を喰うらしい。

その場を離れたら、すぐに飛んできてかっさらっていくから、この一瞬しか撮れない。



朝一番に撮っておいた隣の苗代。

お花だけになっていた理由はカラスの仕業であったろう。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)

上三橋の水口マツリ

2018年05月12日 08時32分01秒 | 大和郡山市へ
この日も朝から水口まつりの取材がある。

そこへ行くまでに見ておきたい苗代田がある。

今でもしているなら赤と白の御幣があるはずだ。

そう思ってこのルートを走った。

目指す地は大和郡山市の上三橋町である。

道路右手に白い幌が見える。

今年も西側に立てていた赤と白の御幣。

松苗もイロバナもそこにある。

御幣は4月3日に行われる須佐之男神社行事のテンマサンの祭りで配られたものだが、松苗は3月15日に行われた春日大社御田植祭の松苗である。

上三橋町は春日大社の旧神領地。

上三橋以外に美濃庄、稗田、下三橋、井戸野、若槻、大江、番匠田中、横田、発志院、石川、中城の旧村である。

なお、同町にお住まいのIさんは春日若宮おん祭りに出仕される大和士であることを付記しておく。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)