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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

カストリ雑誌②発禁処分”H大佐夫人”

2020年09月20日 | 昭和21年~25年
有名な「H大佐夫人」のストーリー。
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『猟奇』2号 昭和21年12月発行


H大佐夫人  北川千代三


中学四年生の私は、昭和19年の歳末、東京からさのみ遠くないC県C市から二三里奥のY町に疎開しました。
その家の主人といふのは、現役の陸軍大佐で、陸軍砲兵学校の教官をしている人でした。
家族は、大佐の夫人の美根子さんと、下働きの雇婆さんの三人でした。そこへ私が加わったのでした。


美根子夫人は、軍人の妻であるに拘わらず、何かと思ふほど、身繕ひや、お化粧に念をいれる人でした。
高雅な香水の匂ひをあびせられた時、私の全官能を、いやが上にも掻き立てるのでした。
「喬雄さん、此処に居る間は遠慮しないでネ・・・・」
と言ひながら、私の肩の辺りに手を触れて起き上がる時など、魅惑的な香りが堪らなく私の神経をゆさぶるのでした。


「喬雄さんは・・・中学生だから、まだ無理ね。」
「---何がです・・・」
「ううん、何でもないんですのーー」
「大人ですよ、僕だって。」
「さう?でもこんなこと訊いて、もしご両親に知れたら、妾お叱りを受けるわねーーー。」
と言ひながら,俯向いた夫人の顔は、私が初めて見る羞恥に富んだ表情だったのです。


湯殿の中で人声らしい気配がするのです。
「冴ッーーーーー」
其所には、裸形の赤黒い巨大な肉体と、透き通るような真っ白い肉体が見えたのです。
大きな眼は細められ、眉根には皺を寄せて、口は半ば開いているのです。
私は、自分の身体全体が上下して、息が詰まるような気がしました。
夫の愛撫に全身を任せきった妻の姿形とはこんなものかと、私は恍惚になってしまいました。


「喬雄クン。空襲の時は注意し給え・・・」
大佐は出て行きました。
「十日ばかり帰って来ないのよ。」
私の背中から、夫人はそんな言葉を滑らせました。
「喬雄さん、貴郎もお湯に入って来なさいよーー」
「お入りなさいよ。一度お背中を流してあげたいから・・」
夫人は真っ白い柔軟い手で、私の肩の辺りを抱きすくめるようにしながら入念に流してくれるのでした。
「僕も、流すしませうーーー」
「そう・・・じゃあお願いしようかしらーー」
「・・・喬雄さんーーーとてもご立派なのねホホホホ」
私は身体の何処を立派と指されたのか,此時は解りませんでした。


突如、遠くの方から警報のサイレンが吹鳴し出したのです。
「喬雄さんB29の編隊ですって。壕へ入りませうよ、ねェ」
完全無欠だという大佐自慢の防空壕へ待避したのです。
私たち二人が壕の中に下りると、夫人は蓋をピタリと防めてしまひました。
二人の身体は、外界と隔離した、別世界のような地下室へ呑み込まれてしまったのです。
瞬間、私の理性は失ひました。
生まれて初めての接吻を味はったのでした。
優しい夫人の手は、抱擁から上着のボタンを外したり、ズボンのバンドを外してくれていました。
夫人は、私の手や指先を、私の未経験の神秘境へ誘導してくれました。
そして湧き出る泉の中へーーーー。
夫人のつぶらな眼からは涙さえ出させたのです。
それは悲しみの涙では勿論ありません。



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カストリ雑誌①どくとるマンボウ孵化直前

2020年09月19日 | 昭和21年~25年
後年、有名なった作家もカストリ雑誌に執筆している。



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「北杜夫 どくとるマンボウ文学館」  北杜夫著 河出書房新社 2012年発行


僕の怪談 黄山木精

何しろあのくらいゾッと背筋が寒くなった話はなかった。
それは僕が高等学校の寮に入った時の話。

僕の同室者は奇妙な奴だった。
同じ新入生なのだが、入寮して一週間にもなるのにロクスッポ口をきかない。
顔色は青ざめていて、目はドロンとして気味が悪いくらい。
でも二人部屋の同室者でこいつと一緒に居なければならない。

入寮してから半月ばかりたった、ある夜のことだった。
夜中に僕はふと目をさました。
寝静まりシーンとして、窓から月光が流れ込んでいた。

その時、廊下の方でミシッという音がした。
僕は布団の中でちじこまった。なんだろう、今の音は。
僕は布団がめくられるのを感じた。足の方の布団が。
そして冷たい手が僕の足にふれた。
恐怖で叫ぶ声もでなかった。
僕は生きた心地もなかった。

明け方、ようやく恐怖心が解かれてはじめてきた頃、今度は蚤でもいるらしく僕はあっちを掻き、こっちを掻き、とうとうその夜は眠れなかった。
朝が来た。
同室者は「お早う」と言ったあと、こういった。

「俺は昨夜は蚤がいて眠れなかった。
寝巻にいた蚤をつかまえ、君の寝ている布団に蚤をいれてやったんだよ。
本当に済まない・・・」

僕はあきれかえってゲラゲラ笑いだした。
それからはすっかり仲よくなってしまった。
そいつはどうして素敵な快闊な男だった。

(「うきよ」’49年2月号)



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真備町「岡田更生館事件」その2・・・「岡山県史」から

2020年09月13日 | 昭和21年~25年
岡山県史に「岡田更生館」の文字はある。
そこで何があった、なかった、とかいう記述はない。
同じ目的の施設である「少年の丘」の自慢話が載っているだけ。

なお、「真備町史」や「新修倉敷市史」に、岡田更生館の記述は一文字もない。

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「岡山県史 現代1」より転記


戦災孤児と浮浪者

戦災のため両親を失い、頼るべき親戚や知人のない子供たちや、中国東北部で敗戦を迎え、親を失った子供たちがそれである。
一時は浮浪児の数は約800人と推定された。
浮浪児は岡山市に集中し、殊に人の通行量の多い岡山駅周辺(ヤミ市含む)と残飯の入手が容易な津島の進駐軍兵舎の周囲に多かった。

1946年(昭和21)9月7日の合同新聞記事によれば、
浮浪児は乗客から弁当や残飯を貰ったり、自由市商人(ヤミ市の商人)の手先、売子となっているが、一般に労働を嫌い、
自由奔放な生活を送りつつその日その日の糧を求めている。
中には傷痍軍人が団長となり、孤児を手先に集団生活をしているもの、夜の女と一緒に生活している孤児、
妻が夜の女として働いて夫を養っている者等、生活は区々である。
と記している。

特に進駐軍兵舎付近に出没する者は、軍政部からも指示されて1946年9月15日から1948年12月までの間に43回にわたって一斉強制収容した。
収容された人員は延べ2672人、うち児童は1241人であった。
これについて合同新聞は、
県や市は年少者は各団体に引渡し、或いは本籍地へ送還する等の処置を講じてはいるが、逃走し再び流入し、
また彼らの巣窟も一定していないため、対策も意にまかせぬ実情にある。
と記している。

婦女子の多くは街娼をしており、重い性病をうつされている者もいた。
このような成年浮浪者との接触の中で、孤児たちの多くは堕落していった。

・・・・
この当時の、
戦災児・浮浪児・浮浪者収容施設

少年の丘 300 浮浪児
岡田更生館 300 浮浪者強制収容所
黒崎更生館 200 浮浪成年女子、引揚家族の一部
学童合宿所 100 戦災児
若松園 100 幼少児童
西川寮 100 浮浪者
その他 10~80人 9施設

・・・

少年の丘




「少年の丘」と記載されているのは成徳学校の子供の家のこと。
その頃、この薄幸な子供たちに特別な関心を寄せ、良い環境を与えて、
健やかに育ててやろうと積極的に援助の手をさしのべた幾人かの人がいた。
当時の成徳学校校長の坂本先生もその一人でした。
巷にあふれる戦災孤児たちに”良い環境と教育の場を”との情熱を持って、
岡山県立成徳学校の一隅に、恩賜財団同胞援護会岡山県支部保護児童収容所「小年の丘」を併設されました。
時に昭和20年12月15日。

大人中心の施設「岡田更生館」に一時的に収容された子供たちに”子供には子供の環境を”との配慮から、
昭和22年4月64名の子どもたちが丘の保護児童収容所に移されてきました。
これが「第二子供の家」の発足でした。
9月になって、岡田更生館からさらに100名を超す子供たち移ってきて、第三、第四の子どもの家が生まれました。

これら四つの子どもの家で保護され、教育される子供たちは日に日に増えて、ついに200名を超す大所帯になりました。

「子どもの家」(保護児童収容所)は1948年4月に本校である成徳学校に合併吸収されたが、
県下各地から、この子たちと生きることに情熱を燃やした若者が次々と参加してきたこと、
後援会・母の会の結成されたことは長く記憶されるべきことである。




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真備町「岡田更生館事件」その1・・・TV「アンビリバボー」から

2020年09月04日 | 昭和21年~25年
フジテレビ・「アンビリバボー」
放送日・2020年9月3日 20:00~21:00


真備町といえば、「2018西日本豪雨」で全国に被災報道がされた。

その、真備町岡田といえば
横溝正史の疎開先で知られ、地区には「金田一耕助」の看板や標識があふれている。


終戦後、町に浮浪者があふれていたころ吉備郡真備町岡田に厚生施設ができた。




それが「岡田更生館」。



管理人の妻は、学校卒業後、真備町岡田に毎日通勤していた。
その妻に「岡田更生館」のことを聞いても、まったく知らなかった。
管理人も、知らなかった。



(一定の年齢以上の人なら)
誰でも知っている、毎日新聞”大森実記者”。






大森記者が更生館を取材した。





そこには、
監禁・虐待・暴行・傷害・殺人・搾取横領、
栄養失調・感染症が充満していた。





大森記者の記事が毎日新聞に載ると、国会に取りあげられた。




岡田更生館はモデルともいわれた施設。
県の指導下にあり補助金もあり、当然県の監督責任も大きかった。





70余名が死んだこの事件は、
結局、更生館の館長等が裁判で、執行猶予付きの判決を受けて終了した。






時代背景があり、関係者の事情や言い分は、現在の人には理解できにくい面があると思う。


しかし、
「実際に在ったこと」は史実として書き残さないと、無かったことになってしまう。
その面からも、今回の放送は意義あると評価したい。


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軍事施設の転換利用

2020年09月01日 | 昭和21年~25年
施設の転換利用といえば、
明治の初め、日本全国のお城はすべてお殿様から国家(陸軍)の所有となった。
・・・戦目的なので転換とはいえないかな。
昭和20年8月の敗戦により、軍隊は消滅したので、自動的に転換利用となった。
昭和40年代になると紡績工場閉鎖・売却による、大型ショッピングセンターの開店。
これらが転換利用で目立つ。

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「岡山県史 現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行


軍事施設の転換利用

津島の兵舎と練兵場は連合軍に接収され、兵舎は進駐軍の営舎。
練兵場は飛行場に使用された。
1947年(昭和22)3月に連合軍は呉に引き揚げた。

兵舎
第六高等学校は校舎焼失していたが、兵舎の一部(旧兵器支廠)を借りて授業を続けた。
それが足掛かりとなり、1949年に岡山大学が設立の際、旧兵舎の全部をキャンパスにすることができた。


練兵場
荒地となり、住民が食糧難のため畑にしていた。
県警が西南部に警察学校、
西南隅に、保健所、衛生研究所、身障者指導所などが設けられた。
国道53号に沿う東、北側の33ヘクタールは、
岡山県が津島運動公園とすることにした。
1949年から失業対策事業として建設が進められた。

(元・練兵場 2019.11.9)


蒜山原・日本原
食料事情の緩和を図る。開墾面積2200ヘクタール、入植農家199戸。


三菱重工水島航空機製作所

三菱は経営困難のため、不要となった土地・住宅を大蔵省に物納。
海軍省の敷地・飛行場も大蔵省所管となった。
1950年以降、順次、県・水島塩業・新三菱重工などに払い下げられた。
県の土地は、次々と企業に譲渡されて、水島臨海工業地帯成形の基礎となった。
飛行場跡地は三菱石油の用地になっている。


岡山陸軍病院
国立岡山病院となり、その後病院は南方に移転。
1962年以降は岡山県立短大が使用している。


海軍衣料廠
一時岡山県庁・議事堂が移転したが、
県立岡山工業高校が1959年に入り、現在に至っている。

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戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

2020年06月26日 | 昭和21年~25年
「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行


昭和20年8月15日
終戦
隊内にありし御真影、軍人勅語其の他貴重な書類全部を焼棄せり。
昭和20年11月1日
米軍先遣隊10名飛行場に来る。翌2日、1.200名来り駐屯す。

かつての大津野は、田が1300ヘクタール、畑が1900ヘクタールで農家平均耕作面積は50アールという零細農家であった。
作付品目は全く多彩であった。
除虫菊、
はっか、
麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。
葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、中一致団結して全家族があたった。
甘藷、馬鈴薯の生産も盛んで特に、甘藷は戦後の食糧難時代貢献したものである。
特産物としては大津野大根の沢庵漬があり、福山、尾道、呉、広島へも出荷していた。
果樹の先進地茂平に隣接していることもありて、ぶどう、桃、戦後は夏柑、温州等蜜柑も導入された。


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戦後の食糧問題

2020年06月14日 | 昭和21年~25年
岡山県中央町誌(民俗編)より転記する。

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戦後の食糧問題

国は、供出だけ強制しても、食糧問題は解決できず、このため開墾と食糧増産を呼びかけた。

もはや開墾できる所はほとんどなく、学校の運動場、公共の広場を見出し、村中総動員で鍬を入れ、サツマイモ、じゃがいもなどを植えた。
それだけにとどまらず、それまで普通の食糧として利用されていなかった、いわゆる未利用食糧である、
わらび、ぜんまい、山ふき、よもぎ、甘藷の蔓、里芋の茎、大根葉、葛根などを採取し、乾燥させた物を供出する運動が始まった。
これらの作業は、農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。

昭和18年からスイカ、キュウリ、いちごなどは、贅沢品として作付け禁止になった。
横流しやヤミ売りなどの違反に対しては警察などによる厳しい取り締まりが行われた。
昭和20年の敗戦の年は、労働力、肥料の極端な不足と9月10月の二度の風水害で、米作は大減収になり、
敗戦の人心の荒廃で供出私欲も低下、供出の完納には遠く及ばなかった。
県は、くず米、大豆、雑穀、甘藷などの代替品供出を認めた。
農家でありながら配給を受けなければならない家も続出した。

戦争末期、終戦後は
津山線は買い出し列車と言われるほど、食料を求めて、子どもを背負い、木口の袋を持ち、身体に袋を巻き付けてた女性たちが農村に殺到した。
少しばかりの品物を持ち、各駅から農家の庭先に来ては、持参した品物と米麦やイモ、くず米など食べられるものならなんでもよいから交換してくれといい、一日に何人もきた。
農家にも、交換するものに困ったという。

昭和23年ごろになると農村にも米麦に多少のゆとりができ、都市部に商品が出回るようになった。





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「占領下の日本人」

2019年02月05日 | 昭和21年~25年
「昭和史9占領下の日本」研修出版より転記

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昭和昭和史対談「占領下の日本人」
藤本義一
会田雄次


進駐軍と子供たち
藤本・・東京裁判は昭和21年にはじまりました。
会田・・陸海軍の将官などは敗戦の責めを負ってみんな自決しているだろうなあと思い込んでいました。
藤本・・全員が死刑にされたっておかしくない、当たり前だったんですね。
会田・・私だけでなく、一般の受け取り方だって、そんなに強烈じゃあなかった。
    もう、食うことが先決で。
会田・・今の人はテレビなどで、当時のさまを悲痛な思いで見ていますけど、そうゆうものではなかったんですよ。
藤本・・終戦になって人間天皇の宣言をしましたね。これには困りましたよ。
    写真に天皇とマッカーサ―がいっしょに写っている。これも困った。
    僕の中学の校庭の奉安殿は、学校へ行ったらまず、その神殿に向かって最敬礼するわけです。
    一日はそれから始まったんですよ。
    ところが終戦を境にして最敬礼は必要なくなった。
    それまでの習慣がぷつんとなくなったんです。

    遠いところだった大坂城が、焼け野原で一挙に近くなったんです。
    それまでもっていた信念みたいなものが全部一挙に崩壊して逆になった。
    そこへアメリカ軍がジープ・トラックでやってきた。
藤本・・「出てこい!ニミッツ マッカーサー 出てくりゃ地獄へ逆落とし」だったのが、もう何も恨みは無し。
    「天皇陛下」も言わなくなる。
    そしてアメリア人が近づくとニコニコしようと努力する。
    屈辱が無いのか、あの時の憎悪は、いったいどこへ行ってしまったのか・・・そのへんのところがわかりませんね。

会田・・それは日本人が劣等意識民族で権威と権力に極端に弱いという性格をもっている。
    それと、世界史的にこんなひどい負け方は初めてだということなんですね。
    ヨーロッパの民族は、戦争をしなれているから負け方を知っている。サッと降参する。
    ところが日本は昭和20年になってからはほとんど抵抗力もないのに、それから6ヶ月も7ヶ月も抗戦を続ける。

    B29に対抗する力もなかった。
    音だけさして逃げて帰ってくる。
    されているだけですよ。
    アメリカにとっては演習に近い状態ですよ。
    そんな虚脱状態で終戦になり、
    アメリカ兵などは相当に暗殺などでやられると思っていたところが逆に歓迎ばかり。気持ちが悪かったでしょうね。


会田・・大阪や東京の兵隊はこんなバカな戦争早くやめてくれと言ってました。
    18年頃になると、敵も何も見えないのに弾が飛んできて死んだり、食べ物がなくて餓死するだけ。
    現役兵は戦闘心をもっていた。
    召集兵はバカバカしくって仕方がない。
    三次も四次も召集されて、帰ってみると家はぺんぺん草、そんな経験だけです。
    病床にいた私の妹は「マッカーサーは神様です」と言ったのにギョッとしました。
    「日本の軍人は何も何もくれなかったのに、マッカサ―は食糧をくれた」と言うんです。
    「鬼畜米英」はわずか三か月くらいで鬼から神様に思えるんですから。日本人は情けないものだと思いました。

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新制高校の誕生

2018年07月06日 | 昭和21年~25年

「流れる おかやま百年」  昭和42年1月 山陽新聞発行より転記する。

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新制高校の誕生

23年には新制高校、教育委員会制度が生まれ、PTAも各校に設けられた。
総司令部は総合化と男女共学、学区制を指導した。

旧制中学をそのまま新制高校とし、21年までの入学生は付設中学に収容、24年8月から県立51校、市立3校、計54校を県立35校に統合した。
旧岡山一中と二女が統合され、岡山朝日高校となったのもこのときから。

総合化の掛け声で笠岡高校は普通、家庭、工業、商業の4科を持ち、7校が3科を設けた。
しかし、この総合化は生徒同士のコンプレックスの助長、あるいは経営の複雑化などから、しだいに分離され、間もなく笠岡は3校に分かれ、27校につくられた家庭科も11に減っている。

初の県教育委員選挙は23年10月5日行われ、11月5日から委員会が成立した。

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カストリ雑誌

2018年04月15日 | 昭和21年~25年
管理人が高校生の頃、映画は「邦画」「洋画」「エロ映画」と三分割されていた。
高校の卒業式が終わってすぐ、福山に友と二人で初めてエロ映画を見に行った。
エロ場面になると、白黒映画からカラー映画に変わり、音楽も微妙に変わった。
その映画を見ながら友は泣いていた。
エロ映画を見て泣くことにびっくりしたが、後に本を読むと、当時のエロ映画は脚本がしっかりして高いレベルだったそうだ。

戦後氾濫し時代を彩ったカストリ雑誌は、どのような人気を得たのだろうか?

毎日新聞社「冷戦・第三次世界大戦」1946-1956 より転記する。

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1947の調査によると、前戯なしの性行為が半数を占めていた。

いわゆるカストリ雑誌は,B5判の大きさで約50ページ、挿絵には女性の裸体。
1946年10月に創刊された月刊誌「猟奇」が草分けで、2万部発行された創刊号はわずか2時間で完売。つづく第二号が戦後初の発禁処分を受け、一躍有名になった。
問題になったのは小説「性愛告白譚・H大佐夫人」。約6万部刷ったうち回収できたのはわずか873部だったという。
46年から49年にかけて百数十誌が創刊されては消えた。
内容はエログロ・犯罪、実話、猟奇もの。
「接吻について」という論文を巻頭に載せたり、
「ズロース物語」女性の下着史があったりで、当時の世相をストレートに表していた。

日本人の貧弱なセックス・イメージを広げる役割を果たした。

やがて「夫婦生活」を機に小型本化し、さらに本格な性研究誌「人間探求」などが登場すると勢いを失った。

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