昭和5年秋、陸軍特別大演習の為、歩兵41連隊は福山から金光町八重山へ隊を組んで旧国道2号線を進軍した。大軍の行進を城見の人たちは激励を込めて見物した。
この演習では、式典出席の為岡山に発とうとした浜口雄幸首相が東京駅で撃たれる事件が起きた。
昭和6年、城見村を含む岡山2区から選出の政友会総裁・犬養毅代議士が岡山県初の首相に就任した。昭和7年5月15日、犬養首相は暗殺された。犯人の海軍将校に対して「国士」であると救命嘆願や求婚者が現れた。そうした延長に昭和11年2・26事件が起きた。
昭和12年、組閣を命じられた岡山市出身の宇垣一成陸軍大将は陸軍の反対で首相就任が頓挫した。以後も陸海軍は政治力を一層強めていった。
なお城見小学校には、戦後参議院議員となった宇垣書の「忠魂碑」が校庭に建っている。
昭和12年7月7日盧溝橋事件が起こった。
戦争は3ヶ月で終結する見込みであったが昭和20年8月、日本が降伏するまでつづいた。
中国では「七七事変」と呼ばれ毎年この日、抗日戦争勝利の記念式典が行われている。
正義の皇軍
日本軍は自らを「皇軍」と呼んだ。神である天皇の軍であった。
正義の皇軍が「東洋平和の為」に相手国を懲らしめるという、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」と報道された。
戦争を新聞が支持し販売を伸ばし、国民の大半は喝采した。
武漢三鎮陥落 ~茂平出身初年兵の日誌より(昭和13年12月3日)~
漢口へ上陸した。揚子江が流れ政務・行政・軍事・交通・経済・外務の中心地たるや、その建物もまた雄大かつ壮大だ。
しかし高く聳える高層の上に、日章旗がひるがえる光景は実に美しい。第三国の援助無くしては出来なかったであろう、揚子江岸の防備を見た。それでも我皇軍の前には落城か!
見よ皇軍の蹂躙の跡、家・屋根・壁、集落は焼け落ち、ただ残るのはレンガ、焼け石ばかり。
我軍砲撃の成果だ。
昭和15年、国を挙げて「皇紀2600年」を祝った。国民はこぞって「金鵄輝く日本の 榮ある光身にうけて いまこそ祝へこの朝 紀元は二千六百年」を歌った。
当時の日本は「一等国」であり、世界「三大大国」であり、西洋よりも700年古い万系一世の天皇の神の国だった。
昭和16年12月6日、大東亜戦争が始まる
戦争は「大東亜戦争」と名付けられた。天皇がひろく「世界を一つの家にする」という「八紘一宇(はっこういちう)が唱えられた。日本軍がアジアを欧米の圧政から解放する戦いであると宣伝された。
太平洋戦争
アメリカは「太平洋戦争」と呼んだ。日本人にとって敵国アメリカ人・イギリス人は人間以下の「鬼畜」米英であった。大和魂を持つ日本人とは比較及ばぬ享楽人種と卑下した。万に一つ、戦争に負ける事態があれば日本人は殺されると信じられた。
線路に近い城見小学校では、軍用列車で外地へ赴く軍人を見送っていた。小学生は普段から用意している日の丸の小旗を手にして山陽線の土手に整列し汽車を待った。軍用列車が近づくと速度が落ちた。先生と生徒は日の丸を振った。軍人はお礼に窓から菓子類を落す事もあった。
なお制空権を失って以降は、夜間秘密裏に鉄道輸送が行われた。
城見小学校の真田講堂の前付近に「二宮金次郎」の銅像があった。金次郎像は溶かされて砲や軍艦に変わった。各戸では家の物置まで所持する金属類を調べられ、農具以外の金属は役場へ供出させられた。
城見小学校の校門をすぎると右手に「奉安殿」があった。「小国民」は毎朝、その前を一礼してから教室に入った。奉安殿に保管されている天皇・皇后の写真(御真影)は、児童の命よりも大切なものだった。
産めよ増やせよ。日本軍に足りないものは兵器と兵隊だった。未来の兵士を増やすため「生めよ増やせよ」をスローガンにして子沢山が奨励された。子宝が10人を越えると表彰された。兵士として死ねば「名誉(ほまれ)の家」、それを多産で補う「子宝の家」、国家にとって人は消耗品であった。
用之江・大の2号線(当時)は乗合バスの路線だった。その道を木炭バスが走っていた。油の一滴は「血の一滴」と言われた。日本の石油は底を突き、小学生達は下校後に松の木から松脂を集めに励んだ。
隣村に、海軍大津野飛行場があった。この飛行場は軍機を格納する場所が無かった。その為、神島見崎や茂平苫無の松林に隠された。
飛行場周辺は米軍の機銃掃射を数回受けた。低空飛行で人を狙い撃つ突然の襲撃に茂平や用之江住民は逃げ震えた。
神社参り。出征が決まると家族・縁者は「武運長久」を願い神社参りをした。街頭では「千人針」を依頼した。国の戦争勝利を願う神社参りも盛んになった。敗色濃厚になっても、最後には「神風」が吹き、建国以来負けを知らぬ「神州不滅」の国という神話にすがった。
家々には防空壕があった。自宅のまわりに壕を掘り空襲から逃れる準備をすることが義務付けられた。戦争の末期になると、城見にも空襲警報が度々鳴らされるようになった。白壁の家は標的になりやすいと墨で塗ることが推奨された。日没後は電灯の傘を更に新聞紙で囲み、灯りが外に漏れないようにした。城見の夜は真暗闇だった。
昭和20年8月8日の夜
夜の10時頃、城見の西の空は真昼のように明るくなった。それが米軍の福山空襲で、福山市街地の大部分と国宝・福山城が焼失した。その2時間後の8月9日午前0時00分、ソ連軍が日本と満洲国に攻め込んできた。
「一億総玉砕」
敗戦必至の状況であっても「本土決戦」「一億総玉砕」が叫ばれた。言葉通りにすすめば日本民族は消滅する可能性すらあった。天皇の終戦の“ご聖断”は、民族が滅びるのを避けたと伝えられる。
玉音放送
A少年の話(城見国民学校1年生)
「あんたらーもう止めにゃあ。戦争はもう終わったんじゃけぇ。今天皇陛下の放送があったんで」。
戦争が終わった事を知ったのはその言葉からで、それが最初の情報であった。
防空壕を掘っていた時だった。8月15日は暑い日であった。
戦争終結の知らせを持ってきてくれたのは隣家のおばさんで、その家にはラジオがあって玉音放送を聞いたので早速知らせに来てくれたのだ。
用のなくなった防空壕は、それからかなり長い間、ぽっかりと暗い口を開けたまま放置されていた。
M婦人の話(茂平出身満洲吉林市・22才)
戦争に負けたらロシア人が馬に乗ってうわぁーと、やってきた。
もう日本人は全員殺される。「一日中出るな。出ると、絶対殺される。」ゆうて、ひとところにおった。
それで窓越しに見ると、大きな男で、手には指にも毛がむじゃむじゃ生えとった。顔は真赤。・・・・怖かった。女性は頭は坊主にして、顔に炭を塗った
社宅をくりぬいて、一部屋にして、畳をあげて床の下に隠りょうた。出るな言うても、どうせ殺される、そう思ようた。
城見村戦没者数 95人(笠岡市史3巻による)
終戦後
城見村長や在郷軍人会城見分会長や大政翼賛会城見分会長は「公職追放」となった。学校の教科書で兵や思想の部分は墨で塗られ、男女は相席するようになった。女性に選挙権が与えられ、男女とも20才で投票となった。小作地は開放された。復員や、家を失った都市からの移住者で家は満杯状態となり、住むところ着るものに事欠く人が多かった。昭和25・6年の朝鮮戦争の頃から、ようやく生活に落ち着きがみられるようになった。
あとがき
大正一桁生まれの父は三度出征している。「運が悪い世代じゃ」と嘆くことと、「生き残った」ことの感謝と、「戦争はしてはいけない」思いを語していた。ある時、「兵隊で人を殺したことはあったか」という問いを察するように、「軍刀を抜いて豚を切った」と話した。父は晩年まで戦争の話をすることはなかった。父の話は子や孫への遺言であったような気がする。