この写真は「新山人物誌」から借用した。
「奉安殿」という説明だが、奉安殿と共に魚雷が写っている。
小学校の校庭に“魚雷”が建っているのは非常に珍しいと思えるが、
何時、如何なる事情で建ったのか?
また、何時、如何なる状況で撤去されたのか?
聞き調べしたいと思っている。
なお「新山人物誌」は郷土史家・山部明氏の著作であるが、発刊にいたった思いが伝わってくる。
(以下「新山人物誌」より転記した)
私の新山村助役時代は、支邦事変から大東亜戦争の真只中で、私は来る日にも来る日にも出で立つ若き戦士の勇姿を新山駅頭に送った。
そして、その多くは彼方の地で散華され、迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
この事は素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、これらの方々の名前だけでも集録して、後世にとどめておきたいという念願が、長く私の胸に去来し、これが本書をものにした第一の動機であります。
昭和46.6.15
「奉安殿」という説明だが、奉安殿と共に魚雷が写っている。
小学校の校庭に“魚雷”が建っているのは非常に珍しいと思えるが、
何時、如何なる事情で建ったのか?
また、何時、如何なる状況で撤去されたのか?
聞き調べしたいと思っている。
なお「新山人物誌」は郷土史家・山部明氏の著作であるが、発刊にいたった思いが伝わってくる。
(以下「新山人物誌」より転記した)
私の新山村助役時代は、支邦事変から大東亜戦争の真只中で、私は来る日にも来る日にも出で立つ若き戦士の勇姿を新山駅頭に送った。
そして、その多くは彼方の地で散華され、迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
この事は素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、これらの方々の名前だけでも集録して、後世にとどめておきたいという念願が、長く私の胸に去来し、これが本書をものにした第一の動機であります。
昭和46.6.15