昭和30年代の前半、北川村は山陽新聞をにぎわした記憶が強い。
村民が矢掛合併派と笠岡市合併派に二分され騒動が数年間にわたり続いた。
村民は笠岡市合併派が多数であったと思われるが、
最初、5町村(小田・中川・北川・新山・吉田)合併または同調。
次に、3町村(小田・中川・北川)同調。
その次に、2町村(小田・北川)同調。
そこへ県の合併勧告が混乱に拍車をかけた。
小田町・北川村とも同一歩調は取る、がしかし小田町は矢掛派が占め北川村へ働きかけをしたようだ。
最後は北川村長辞職により、北川村は笠岡市へ合併集約ができた。
その間、7年の長さを要している。
この騒動は市町村合併の教訓になる面があるが、不思議に
以後
山陽新聞・中国新聞に当時の回顧録的な記事が載ることはなかった。
本年発行の郷土史本「北川の史跡ガイドブック」にも一行たりとも記述はない。同誌の巻頭に「北川の昔を知る手がかり、互いの話題になる」ことを目的としてあるが、地域の人が知って記憶にとどめておく必用があるのは、こうゆう事ではないだろうか?
村民が矢掛合併派と笠岡市合併派に二分され騒動が数年間にわたり続いた。
村民は笠岡市合併派が多数であったと思われるが、
最初、5町村(小田・中川・北川・新山・吉田)合併または同調。
次に、3町村(小田・中川・北川)同調。
その次に、2町村(小田・北川)同調。
そこへ県の合併勧告が混乱に拍車をかけた。
小田町・北川村とも同一歩調は取る、がしかし小田町は矢掛派が占め北川村へ働きかけをしたようだ。
最後は北川村長辞職により、北川村は笠岡市へ合併集約ができた。
その間、7年の長さを要している。
この騒動は市町村合併の教訓になる面があるが、不思議に
以後
山陽新聞・中国新聞に当時の回顧録的な記事が載ることはなかった。
本年発行の郷土史本「北川の史跡ガイドブック」にも一行たりとも記述はない。同誌の巻頭に「北川の昔を知る手がかり、互いの話題になる」ことを目的としてあるが、地域の人が知って記憶にとどめておく必用があるのは、こうゆう事ではないだろうか?