しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

2020年05月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
武漢占領で日本国内はお祭り騒ぎ、
現地では、漢口から軍機による重慶への無差別攻撃が始まった。

日中戦争全史・下 笠原十九司著 高文研 2017年発行

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重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

1941年9月、海軍航空隊がアジア太平洋戦争の開戦準備で各地へ移動した。
それまでの4年間、ほぼ連日にわたり、中国全土の都市・鉄道・軍事施設などへの爆撃をおこなった。
なかでも、
中国の鉄道と駅舎、中国空軍飛行場、海軍の艦船、民間の船舶への回数が際立つていた。
走行中の列車への爆弾投下など、対米戦争にみたて、格好の爆撃訓練になった。
数十機、さらには100機をこえる爆撃機・戦闘機の航空燃料は軍事機密として、どこからもチェックされなかった。

空爆作戦
日本軍が武漢占領後、蒋介石は重慶を臨時首都として、長期抗戦の基盤とした。
1938年12月、陸軍が最初の重慶爆撃をおこなった。
1939年になると海軍航空隊が加わり、本格的な重慶爆撃を開始した。
重慶の首都機能を徹底的に破壊し、降伏を強いる作戦なのである。

1939年の「53.54大空襲」
5月3日、1時間余りの爆撃で674人死亡、350人負傷、数百戸焼失。
5月4日夜、先に爆弾投下、後に焼夷弾投下。3318人死亡、1973人負傷、
イギリス大使館、フランス領事館にも爆弾が命中した。
アメリカのタイム特派員がスクープし、「タイム」や「ライフ」に掲載された。

百一号作戦
1940年5月から9月まで、海軍と陸軍が協同で重慶爆撃をおこなった。
汪兆銘の南京政府を「唯一化」にする目的だった。
従来、漢口を基地化していたが、より重慶に近い宣昌に飛行場を建設し、
当時の日本海軍航空隊の全攻撃力を漢口に集中して、重慶政府の崩壊を企図したのである。
重慶爆撃により、市街は瓦礫の街と化したが、日本軍の期待に反し市民の間に講和を求める声は湧きあがらなかった。
アメリカの対日経済制裁を呼び込む一因となった。
101号作戦終了後、陸軍が1943年8月まで重慶爆撃をつづけた。

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