少学生の時、茂平から用之江の通学路沿いの山畑には葉タバコ畑が多かった。
大冝もそうだった。しかし茂平にはほとんど無かった。
母方の祖父母は井原市の山村で農業していた。
管理人が小学の1~2生の頃、タバコの乾燥小屋を新規に建てた。
しかし、
「あんまり手間がかかるので一回作って止めた」そうだ。
その小屋は今も、そのまま残っている。
数えたことはないけれど、笠岡市内にもまだ、200以上のタバコの乾燥小屋が残っている。(物置として利用)
その小屋を見るたびに葉たばこが全盛期だった、昭和30年代の田舎風景を思い出している。
・・・・・
(父の話)
葉タバコ
麦の間にタバコを植えてとった。麦の陰になりタバコにええ。茂平にはタバコは少なかった。
骨が折れる仕事じゃ。
夏の盛りの仕事、
飯は食わずに畑に採りにいって、家に戻ってからも、葉の仕事をする。
談・2005・5・22
・・・・・
(笠岡市内)
・・・・・
葉タバコ
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行
種子蒔き準備の温床床作り、温床での何回かの間引き、一日何度もの灌水、
さらに本圃へ移植してからは何回もの土寄せ・施肥・芽かき・
収穫期には土葉、中葉などと順をおって、一枚一枚もぎとり、
連編み・乾燥作業・葉のしなど、
丸一年間、手塩にかけるきつい作業が続いている。
・・・・・
葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、家中一致団結して全家族があたった。
(福山市大門町)「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行
・・・・
「矢掛町史 民俗編」 ぎょうせい 昭和55年発行
葉タバコ
第二次大戦後、畑作物の中心は葉タバコである。
戦前の桑、除虫菊、薄荷に代わって広く葉タバコが普及した。
・・・・
福山市「引野町史」
葉たばこ
葉たばこは専売制のため、生産者組織、種子の配布から播種、育苗、植付面積、栽培方法、収穫、乾燥(火乾)、調整、納付の方法まですべて、専売局の指導、監督下に置かれた。
しかし価格が安定していること、
まとまって金が入ること、
また昭和初期の農村恐慌時における生糸の暴落などが葉たばこ耕作に目を向けることにもなり、
引野村では養蚕に代わり耕作者が漸増した。
昭和10年頃も反当り300~330円程度で安定していた。
第二次大戦中も増産に励んだたばこ耕作は、昭和20年代末から昭和30年代前半にかけて全盛期を迎えた。
昭和30年代後半に至り、兼業農家の進行や畑の宅地化により漸減傾向となった。
そして昭和43~44年にかけて、
日本鋼管操業に伴う煤塵が育成期の葉たばこに悪影響をもたらし、
さらに現在の旭丘、緑陽台一帯の宅地造成が決定的に作用して、
昭和46年に3人となり、やがて2~3年を経ずして耕作の幕を閉じた。
・・・・・・
「倉敷市史8」
葉たばこ
倉敷市域における葉たばこの初めての栽培は、昭和4年(1929)である。
玉島町長を務めた中塚一郎(1863~1945)は、農家の生活苦を打開するためには葉たばこの栽培以外にはないと考えた。
専売局に許可を請願し、昭和4年玉島町・黒崎村・連島村において10町歩の黄色種栽培が許可された。
これを機に近隣の町村へと波及した。
昭和10~15年にかけて、当時の浅口郡玉島町・長尾町・連島町・黒崎村・富田村などの丘陵地帯は、収穫期になると黄色に輝いていたといわれる。
戦後、最も面積の多かった時期は、昭和39~42年であったが、
水島臨海工業地帯の発展がめざましく、若者はこれらへ流出して、
労働集約型・家族労働型の葉たばこ栽培は敬遠された。
その後は、老齢化と後継者不足から、衰退の一途をたどることになった。
・・・・・
「金光町史 民俗」
葉タバコ
浅口郡では昭和4年に初めて玉島町他に黄色種が導入され、金光町には昭和5年より導入された。
労働時間の長いタバコ作は、家族労働報酬が多いので、家族の多い農家には救いであった。
老人、女子共でもできる軽作業が多いためである。
干ばつの昭和14年と、それ以降は三倍以上に増えた。もっとも活況は昭和16年である。
金光町のタバコ作は昭和16年を境に衰えていき、戦後また復活した。
①忌地(いやじ)性(輪作がじゅうぶんできない)
②やせた傾斜地に作ることが多いので初夏からの乾燥で収量があがらない
③タバコ作は労働時間が長く、高度経済成長期になると本腰でやる人が少なくなった。
家族の多い農家は救いであったが、労働時間の長いタバコ作は嫌われた。
タバコ不足の昭和40年には20ヘクタールまで復活したが、46年には10ヘクタールを割り、次第に衰微していった。
平成元年に消滅した。
・・・・・
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
葉タバコ
畑から取り立ての青葉の葉タバコを天井窓から吊るしておき、
炭火で乾燥させていた。
その後、
カドで天日乾燥するようになり、干しあがったものを屋内に吊るすようになった。
葉タバコ作りは種子蒔き準備の温床作りから、温床での何回かの間引き、一日何度もの潅水、
さらに本甫圃へ移植してからは何回もの土寄せ・施肥・芽かき、
そして収穫期には土葉・中葉などど順をおって、一枚一枚もぎとり、連編み・乾燥作業・葉のしなど、
丸一年、手塩にかけるきつい作業が続いている。
タバコは蚕に害があるので葉タバコと養蚕は一緒にはできなかった。
桑と養蚕
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
・・・・・
「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄 いばら印刷 平成13年発行
葉タバコ
工芸作物類
昭和30年代を通じては、薄荷が最高480ヘクタールとかなりの面積に達していたが、40年代に入ると急速に消滅する。
それに引き換え、
葉たばこの栽培が最盛期を迎え、昭和43年がピークで約300ヘクタールになる。
地域的には中山間地の畑作地域で多く栽培され、
当時の農家の現金収入源の柱になっていた。
青野と野上だけで120ヘクタールを占めていた。
しかしその後、急速に減少の一途をたどる。
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大冝もそうだった。しかし茂平にはほとんど無かった。
母方の祖父母は井原市の山村で農業していた。
管理人が小学の1~2生の頃、タバコの乾燥小屋を新規に建てた。
しかし、
「あんまり手間がかかるので一回作って止めた」そうだ。
その小屋は今も、そのまま残っている。
数えたことはないけれど、笠岡市内にもまだ、200以上のタバコの乾燥小屋が残っている。(物置として利用)
その小屋を見るたびに葉たばこが全盛期だった、昭和30年代の田舎風景を思い出している。
・・・・・
(父の話)
葉タバコ
麦の間にタバコを植えてとった。麦の陰になりタバコにええ。茂平にはタバコは少なかった。
骨が折れる仕事じゃ。
夏の盛りの仕事、
飯は食わずに畑に採りにいって、家に戻ってからも、葉の仕事をする。
談・2005・5・22
・・・・・
(笠岡市内)
・・・・・
葉タバコ
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行
種子蒔き準備の温床床作り、温床での何回かの間引き、一日何度もの灌水、
さらに本圃へ移植してからは何回もの土寄せ・施肥・芽かき・
収穫期には土葉、中葉などと順をおって、一枚一枚もぎとり、
連編み・乾燥作業・葉のしなど、
丸一年間、手塩にかけるきつい作業が続いている。
・・・・・
葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、家中一致団結して全家族があたった。
(福山市大門町)「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行
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「矢掛町史 民俗編」 ぎょうせい 昭和55年発行
葉タバコ
第二次大戦後、畑作物の中心は葉タバコである。
戦前の桑、除虫菊、薄荷に代わって広く葉タバコが普及した。
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福山市「引野町史」
葉たばこ
葉たばこは専売制のため、生産者組織、種子の配布から播種、育苗、植付面積、栽培方法、収穫、乾燥(火乾)、調整、納付の方法まですべて、専売局の指導、監督下に置かれた。
しかし価格が安定していること、
まとまって金が入ること、
また昭和初期の農村恐慌時における生糸の暴落などが葉たばこ耕作に目を向けることにもなり、
引野村では養蚕に代わり耕作者が漸増した。
昭和10年頃も反当り300~330円程度で安定していた。
第二次大戦中も増産に励んだたばこ耕作は、昭和20年代末から昭和30年代前半にかけて全盛期を迎えた。
昭和30年代後半に至り、兼業農家の進行や畑の宅地化により漸減傾向となった。
そして昭和43~44年にかけて、
日本鋼管操業に伴う煤塵が育成期の葉たばこに悪影響をもたらし、
さらに現在の旭丘、緑陽台一帯の宅地造成が決定的に作用して、
昭和46年に3人となり、やがて2~3年を経ずして耕作の幕を閉じた。
・・・・・・
「倉敷市史8」
葉たばこ
倉敷市域における葉たばこの初めての栽培は、昭和4年(1929)である。
玉島町長を務めた中塚一郎(1863~1945)は、農家の生活苦を打開するためには葉たばこの栽培以外にはないと考えた。
専売局に許可を請願し、昭和4年玉島町・黒崎村・連島村において10町歩の黄色種栽培が許可された。
これを機に近隣の町村へと波及した。
昭和10~15年にかけて、当時の浅口郡玉島町・長尾町・連島町・黒崎村・富田村などの丘陵地帯は、収穫期になると黄色に輝いていたといわれる。
戦後、最も面積の多かった時期は、昭和39~42年であったが、
水島臨海工業地帯の発展がめざましく、若者はこれらへ流出して、
労働集約型・家族労働型の葉たばこ栽培は敬遠された。
その後は、老齢化と後継者不足から、衰退の一途をたどることになった。
・・・・・
「金光町史 民俗」
葉タバコ
浅口郡では昭和4年に初めて玉島町他に黄色種が導入され、金光町には昭和5年より導入された。
労働時間の長いタバコ作は、家族労働報酬が多いので、家族の多い農家には救いであった。
老人、女子共でもできる軽作業が多いためである。
干ばつの昭和14年と、それ以降は三倍以上に増えた。もっとも活況は昭和16年である。
金光町のタバコ作は昭和16年を境に衰えていき、戦後また復活した。
①忌地(いやじ)性(輪作がじゅうぶんできない)
②やせた傾斜地に作ることが多いので初夏からの乾燥で収量があがらない
③タバコ作は労働時間が長く、高度経済成長期になると本腰でやる人が少なくなった。
家族の多い農家は救いであったが、労働時間の長いタバコ作は嫌われた。
タバコ不足の昭和40年には20ヘクタールまで復活したが、46年には10ヘクタールを割り、次第に衰微していった。
平成元年に消滅した。
・・・・・
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
葉タバコ
畑から取り立ての青葉の葉タバコを天井窓から吊るしておき、
炭火で乾燥させていた。
その後、
カドで天日乾燥するようになり、干しあがったものを屋内に吊るすようになった。
葉タバコ作りは種子蒔き準備の温床作りから、温床での何回かの間引き、一日何度もの潅水、
さらに本甫圃へ移植してからは何回もの土寄せ・施肥・芽かき、
そして収穫期には土葉・中葉などど順をおって、一枚一枚もぎとり、連編み・乾燥作業・葉のしなど、
丸一年、手塩にかけるきつい作業が続いている。
タバコは蚕に害があるので葉タバコと養蚕は一緒にはできなかった。
桑と養蚕
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
・・・・・
「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄 いばら印刷 平成13年発行
葉タバコ
工芸作物類
昭和30年代を通じては、薄荷が最高480ヘクタールとかなりの面積に達していたが、40年代に入ると急速に消滅する。
それに引き換え、
葉たばこの栽培が最盛期を迎え、昭和43年がピークで約300ヘクタールになる。
地域的には中山間地の畑作地域で多く栽培され、
当時の農家の現金収入源の柱になっていた。
青野と野上だけで120ヘクタールを占めていた。
しかしその後、急速に減少の一途をたどる。
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