「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行
養蚕業の発展を拒む要因
大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。
しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。
それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。
および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。
とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、
桑栽培に大きな限界を有していた。
また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。
養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、
桑園は食料増産のかけ声によって掘り起こされ、薯・麦畑等に変わってゆくのである。
海外出漁
明治期後半から盛んになった海外出漁は、大正期に入っていっそう盛んになった。
第一次世界大戦中の大正5年の深安・沼隈両郡の出漁状況は、
朝鮮半島を中心に、合計143隻が出漁している。
打瀬網をはじめ、それぞれの出漁地域に応じて、多様な網漁業が展開されていた。
昭和期に入ると通漁が現地に定着したり、満州事変の影響もあって海外出漁は減少している。
しかし反面からいえば、明治期後半にはじまり安定したもいえる。
例・
昭和10年沼隈郡の海外出漁状況
無動力漁船 48隻 195人 動力漁船 6隻 151人
道路交通の発展
大正8年(1919)11月「道路法」が制定された。
福山地方では、この道路法によって、翌9年4月、従来の第二国道(県内は深安郡御領から佐伯郡大竹町)が国道に認定された。
その後路線変更が行われたが、そのなかで大きな変更は第二国道が福山市内を貫通するようになったことである。
福山市の経済発展のため国道二号線を市中へ引き入れる計画が立てられ、
昭和4年、県道広島・福山線、および福山・笠岡線の二線を国道に路線変更することとし、旧国道は県道に認定された。
養蚕業の発展を拒む要因
大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。
しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。
それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。
および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。
とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、
桑栽培に大きな限界を有していた。
また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。
養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、
桑園は食料増産のかけ声によって掘り起こされ、薯・麦畑等に変わってゆくのである。
海外出漁
明治期後半から盛んになった海外出漁は、大正期に入っていっそう盛んになった。
第一次世界大戦中の大正5年の深安・沼隈両郡の出漁状況は、
朝鮮半島を中心に、合計143隻が出漁している。
打瀬網をはじめ、それぞれの出漁地域に応じて、多様な網漁業が展開されていた。
昭和期に入ると通漁が現地に定着したり、満州事変の影響もあって海外出漁は減少している。
しかし反面からいえば、明治期後半にはじまり安定したもいえる。
例・
昭和10年沼隈郡の海外出漁状況
無動力漁船 48隻 195人 動力漁船 6隻 151人
道路交通の発展
大正8年(1919)11月「道路法」が制定された。
福山地方では、この道路法によって、翌9年4月、従来の第二国道(県内は深安郡御領から佐伯郡大竹町)が国道に認定された。
その後路線変更が行われたが、そのなかで大きな変更は第二国道が福山市内を貫通するようになったことである。
福山市の経済発展のため国道二号線を市中へ引き入れる計画が立てられ、
昭和4年、県道広島・福山線、および福山・笠岡線の二線を国道に路線変更することとし、旧国道は県道に認定された。
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