しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「特高警察」とは

2021年08月22日 | 昭和20年(戦後)
敗戦後、まっさきに”公職追放”を受けた「特高警察」とは、どいうゆう存在だったのだろう。



「岡山県県政史」

特高警察官の一斉罷免

「公職追放」は,GHQが計画し、その指令に基づいて、日本政府がこれを実施したものである。
1・応急的追放 特高警察官の一斉罷免(昭和20年10月4日)
2・第一次公職追放 昭和21年4月の衆院選挙を前にして、その規模は大きく政治革命といわれた。
3・第二次公職追放 地方公共団体に極めて大きく影響し、県・市町村およびその議会に多数の該当者があり、地方政界の革命と言われた。
4・公職適否審査委員会
5・追放解除 昭和25年10月から一部解除が始まり、昭和27年平和条約発効とともにすべての公職追放は消滅した。

特高警察官の一斉罷免
本格的公職追放の実施に先だち、昭和20年10月4日、GHQは政治犯の釈放、思想警察の廃止、総動員法による特殊会社団体の解散を指令した。
思想警察の廃止の指令は、特高警察官、憲兵の一斉罷免をもとめたものであった。
このため、本県では県警察部長、特高課長以下の課員および各警察署の特高係巡査に至るまで70余名が全員罷免された。
これとともに県警察部特高課は消滅廃止された。





「岡山県史 第13巻」 岡山県 昭和59年発行

戦争の指導者たちを各界から除去するという、いわゆる公職追放は、
非軍事・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。
アメリカ軍の本土占領がほぼ完了した昭和20年10月4日にGHQは「政治的、公民的宗教的自由に対する制限除去の件」と題する覚書を発した。
これは治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを指令していた。
この特高警察官の罷免、いわゆる特高追放が公職追放の始まりであった。
岡山県では、当時の県警察部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。







「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

高見順は「日記」に、「特高警察の廃止、胸がスーッとした。暗雲が晴れた思い」と記した。
特高警察といえば、その拷問に象徴される暴虐性がやはり想起される。
特高警察は、表向き拷問死を否定するが一方で
「お前も小林多喜二のようにしてやるぞ」と恫喝するのを常とした。
戦前を通じて日本国内では拷問による虐殺80人、
拷問による獄中死114人、病気による獄中死1.503人と数えられている。

「生きている」特高警察
昭和天皇即位の「大礼」時、(1929)や各地への行幸時には、警察による全国一斉の「戸口調査」が実施され、間借り人・下宿人らの徹底調査や貸座敷、料理店、飲食店、旅人宿などに対する「検索」(立ち入り調査)がおこなわれた。
この「戸口調査」は「巡回連絡」として現在も実施されている。
一般警察官が担当し、情報は、戦前は「特高警察」、戦後は「警備公安警察」に集められる。

3・15事件
1928年2月の衆議院議員の最初の普通選挙で、日本共産党は党員の立候補やビラの配布など、
公然とその姿をあらわした。
これに危機感を強めた田中義一内閣は、3月15日未明、1道3府27県で一斉検挙を断行する。
検挙者は約1.600人。田中内閣は「赤化」の恐怖をふりまいた。
「国体」変革を企図する共産党の広がりが為政者層全般に与えた衝撃は大きく、治安体制が拡充整備されていく。

特別な高等警察
警察の機能は一般に犯罪の予防をする「行政警察」と、
犯罪の捜査や容疑者の検挙・取調べを主とする「司法警察」に分かれる。
戦前の警察の特質はの一つは、この「行政警察」の領域が広く、
犯罪予防以外に、衛生・工場・建築・営業などの国民生活と密接に関わり、
支配統治機構の末端の執行機関として機能していた。
もう一つの特質は、「特高警察」に代表される治安維持・社会秩序の維持機能の強化である。


特高の二層構造
特高警察の指揮センターは内部省警保局保安課であった。
高等試験の388人(1941年)、地方の特高警察約10.000人。
各県に「特高課」、各警察署に「特高係」が置かれる。

特高警察の日常
(1938年宮崎県特高関係書類、米軍没収)
発禁出版物一斉取締り
落書き一斉取締り
要視察人名簿整理
防諜座談会開催
不良新聞記者取締り、外国人一斉視察、朝鮮人一斉視察
邪教一斉取締り
小作争議未然防止
さらに、裏作作付けや貯蓄心の「銃後の活動」にもあたる。
宮崎県特高課は10人、各署特高係は合計30人という陣容である。

思想検事と特高警察
平沼騏一郎に代表される司法官僚は大逆事件で主導権を握ったが、
その後、「思想犯罪」の対応は特高警察に後れをとっていた。
地方裁判者検事局に「思想検事」が配置された。
労働・思想と実際に第一線で対峙するのは警察力であった。

思想憲兵
軍部でも思想問題に関心を寄せた。
憲兵は軍隊内の警察機能を有すると同時に、軍隊の外の一般社会において軍に関わって起こった犯罪に対する捜査や検挙などの権限を持った。
反戦や反軍の運動・思想であり、「満州事変」以降、思想憲兵の活動する場が広がった。

それぞれが優位に立とうと、活動に拍車をかけることになり、
その結果として社会運動のえぐり出しや国民生活・思想の監視と抑圧の度合いをさらに強めることになった。





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