しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

関行男海軍大尉の碑

2021年08月21日 | 昭和20年(戦後)





「私のかかげる小さな旗」 澤地久枝 講談社 2000年発行

暑さが時間とともにましてくるような7月下旬の一日。
関行男海軍大尉の碑をたずねた。
それは愛媛県西条市にある。
特別攻撃隊としてさいしょの出撃をした5人の慰霊碑が、楢本神社の前庭に建てられていた。

関大尉(戦死後中佐に特進、海兵70期出身)がレイテ作戦の捨石として還ることのない出撃をした日、わたしたちは女学校の2年、満州にいた。
昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊出撃。
関大尉が23歳であり、母と新妻を遺していることは、わたしの記憶にはない。

「赫々たる戦果」と、特別出撃の「壮挙」をたたえるラジオを聞きながら、
わたしもまた、この戦争で死ななければあいすまないと思っていた。
碑文によれば、関大尉とともに出撃して還らなかった部下は4人。
19歳が2人、20歳が2人、いずれも若すぎる死である。

1974年、特別出撃で夫を喪った妻に会うべく、わたしは全国を歩いた。
確認できた妻たちを訪ねて一人旅をつづけた。
戦争が終わって29年目の初夏のことである。

関大尉の妻であったM子さんには、結婚から夫の特攻出撃までわずか5ヶ月しかない。
その後専門職をおさめ、再婚していた。
わたしの手紙に対して、
「どうぞ見逃しておいて下さいませ」という胸がえぐられる返事が来た。
誰もさわってはならない現在の境遇、深い心の傷。
痛みに耐えている人にとって、人間の記憶という生理はどんなにきびしいか。
さらにもの書きの業はいかに深いかを感じさせる返事だった。

特攻出撃の死と戦死の死との間に差はない。前者が英雄視され、戦後の一時期「犬死」と言われた。
死んだ人間には釈明の機会は永遠にない。




(撮影日・2012.10.16 西条市)




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