しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

本多平八郎忠勝

2021年09月26日 | 銅像の人
場所・愛知県岡崎市康生町 岡崎公園


徳川四天王として、家康が主役の小説・映画・ドラマに主要な脇役として登場する武将。
それ以上のことは知らないので、
岡崎市のwebより転記する。

.



本多平八郎忠勝公像
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑の一人。

本多平八郎忠勝は、天文17年(1548年)、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました。
幼少のころから徳川家康に仕え、「蜻蛉切」という槍を使って戦に出たのですが、生涯57回にも及んだ戦いの中で、かすり傷一つ負わずに武功を挙げたので、
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と呼ばれるほどの武将でした。
慶長14年に家督を息子の忠政に譲り隠居をし、慶長15年(1610)10月18日に桑名で亡くなりました。

(岡崎市観光協会)










撮影日・2014.10.10


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二宮尊徳像

2021年09月25日 | 銅像の人
場所・神奈川県小田原市城内 報徳二宮神社


二宮金次郎さんの像は、笠岡市内だけでも20数体あるが
二宮尊徳さんの像となれば、探しても・・・無いだろう。

金次郎さんの像は戦前、すべての小学校にあり、
尊徳さんは実際に活動した、神奈川県や北関東に像や碑が建っているのだろう。


碑文を転記する。




二宮尊徳翁(1787~1856)
江戸時代後期の農政家・思想家。
通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。
幼少期の逸話が一般に知られているが、後に
「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、
小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家
所領の復興に尽くした。直接・間接的に指導
した農村は六百余りにものぼる。




ついでに金次郎さん。



二宮金次郎像
これと同じ像は全国約一千体制作されたが戦時中
すべて供出に遭い
現在残っているのは この一体だけである





尊徳さんは酒匂川近くに生まれ、後年には神となり
小田原城中に「報徳神社」に祀られている。







撮影日・2015.7.8 

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孫文

2021年09月25日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市垂水区 舞子公園

孫文
「革命未だ成らず」の悲痛な遺言


ハワイで医者になるとともに、清朝打倒・共和制樹立をめざした。
日清戦争後、広東蜂起を企てるも失敗、日本に亡命。

イギリス亡命中、ロンドンで清国公使館に拘束されて脱出、
その体験記「倫敦被難記」で革命家として世界中で有名になった。

明治44年(1911)辛亥革命が成功し、
孫文は中華民国臨時大総統に推挙され、帰国した。

皇帝溥儀の退位を条件にそのポストを袁世凱に譲ったが、以後
北京の軍閥政府と広東の革命政府が対立。

その後、「連ソ・容共・労農援助」で第一次国共合作、
軍閥打倒などを掲げて北京に至ったが、同地で客死、
「革命未だ成らず」の悲痛な遺書を残した。

「日本首相列伝」 学習研究社 2003年発行





抗日が台頭

「遠見卓見」 秦郁彦 

1911(明治44)年、辛亥革命が起きて大清帝国が倒れ、翌年1月孫文を大統領とする中華民国が成立したとき、朝鮮にいた石原莞爾陸軍少佐は「革命バンザイ」を叫んだ。
日本には孫文の革命を支援し、近代化される中国との提携に期待する石原のようなアジア主義者が少なくなかった。

だが中国は軍閥割拠の時代に逆戻りしてしまう。
幻滅した石原は中国には近代国家を運営する能力はないと断じて侵略主義に転じ、
満州事変の首謀者になった。
陸軍、国内世論も追随した。
それは中国国民の間に抗日ナショナリズムを台頭させ、1937(昭和12)年の日中全面戦争へ発展する。
欧米列強は国民党による中国統一を支持し、日本は脱亜・脱欧の陥穽(かんせい)へ落ち込んだ。







(舞子公園HP)

大正2年、孫文は国賓に準ずる待遇で来日。2月13日に日本郵船の2代目「山城丸」で長崎に到着。
東京、横浜、横須賀、名古屋、京都、大阪と各地で熱烈な歓迎を受け、
3月13日、大阪から阪神電車で神戸に到着。
3月14日、神戸華僑同文学校(現・神戸中華同文学校)、川崎造船所を参観後、
舞子にある呉錦堂の松海別荘での歓迎午餐会に臨みました。



撮影日・2006年12月9日


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石井十次

2021年09月25日 | 銅像の人
場所・ 岡山県岡山市中区門田屋敷一丁目  岡山博愛会病院


石井十次は、明治の中頃から孤児救済事業を行い、
岡山県では有名な人物だったが映画化され、今では全国に知られる岡山県の偉人となった。


映画は『石井のおとうさんありがとう』(2005年3月19日公開)で、石井のおとうさんには松平健、他に竹下景子や辰巳八郎が出演した。






「岡山県の歴史」 谷口澄夫  山川出版社 昭和45年発行

石井十次

キリスト教に帰依した石井十次は、明治20年(1887)23歳の時、
岡山市門田屋敷の三友寺の一室を借りうけて孤児教育会をおこした。
これが岡山孤児院のはじまりである。
かれは明治15年、岡山医学校に入学しており、
明治17年には新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読んで教育の必要性を痛感し、郷里の宮崎で教育会や私塾を組織して活動を開始した。
明治20年、脳を病み、岡山県邑久郡大宮村で転地療養中、貧児教育を一生の仕事とすることを決意し、ついに孤児教育会をおこしたのである。

大原孫三郎は石井十次のよき理解者・後援者として活動をはじめた。
大正3年に石井十次が死去したあとは、十次にかわって孫三郎が岡山孤児院長に就任した。




撮影日・2008年10月11日

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西村捨三

2021年09月25日 | 銅像の人
場所・大阪市港区 天保山公園 






西村捨三

幕末~明治の人、元は彦根藩士。
流山で新選組・近藤勇の捕縛に立ち会った。
明治22年大阪府知事、初代大阪市長も兼務。
大阪築港には特に功績があったそうだ。
(1857~1908)








撮影日・2010年4月14日



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関一

2021年09月24日 | 銅像の人
場所・大阪府大阪市北区中之島1丁目


関一大阪市長

市長当時、大阪は東京市の人口を超えたそうだ。






(Wikipedia)

東京高商教授。
大阪市助役に招かれる。
1923年に第7代大阪市長となる。

市長として
社会政策学や都市計画学の知見を活かし
受益者負担金制度による御堂筋の拡幅、
大阪都市協会設置、第二次市域拡張、市営公園や公営住宅の整備、大阪市営バス(現・大阪シティバス)事業の開始、
大阪港の建設、地下鉄の建設(現・Osaka Metro御堂筋線)、
大阪市高速度交通機関計画(大阪市営地下鉄網建設計画)策定、
淀屋橋や大阪駅前の区画整理事業、
大阪城公園の整備及び大阪城天守閣の再建、
大阪市民病院の開設、
日本初の市立大学(現・大阪市立大学)の開設、
大阪市中央卸売市場の開設など、様々な都市政策を実行した。

これらの実現によって人口が東京市をも上回った。
世界各国の都市でも6番目の人口を擁することとなった大大阪時代は關市政時代に全盛期を迎えることとなり、
「これやこの 都市計画の権威者は 知るも知らぬも大阪の關」と詠まれたり、
内務大臣後藤新平から「都市計画の範を大阪に求める」と評されるなどした。

功績を称えて中之島に関の銅像が建立され、太平洋戦争(大東亜戦争)中の金属供出や戦災を逃れ、現存している

なお、孫の關淳一も大阪市助役を経て、大阪市長を務めた。








撮影日・2015年12月14日

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「江戸参府旅行日記」番外編・大名の参勤お目見え登城 

2021年09月24日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
このページはオランダ使節の謁見でなく、大名の参勤お目見え登城であるが、
儀式としてほぼ同じものだったことが、うかがえる。


「参勤交代」 山本博文著 講談社現代新書 1998年発行





参勤お目見え登城

大名が江戸に着くと、老中まで江戸到着のことを披露する。
すると、幕府からその大名の家格にあわせて上使が派遣されてくる。
たとえば国持大名であれば、老中が使者になって藩邸を訪問する。

この参勤の披露がないうちは、たとえ江戸にいてもまだ到着していないものとして扱われる。
将軍への披露がなければ、公然と友人に会いにいくこともできないのである。


参勤登城
その後、幕府年寄から登城を命ずる奉書が到来し、その翌日朝に登城して、
参勤後初めてのお目見えをする。
藩主はそれが済むと、各年寄りの屋敷を訪問して、挨拶する。
承応元年(1652)佐竹義隆の事例で見ていこう。


前日
前日、藩邸では、翌日持参する進上の広綿などを用意して準備に忙しい。
翌朝、品物を持たせ登城した。
献上は、
御太刀一腰
御馬(黒毛6歳)一匹
広綿200把
銀子百枚である、
この他、将軍生母や大奥老女たちへの進物も届けている。
義隆は、お目見えが終わると、大老の屋敷へ挨拶に行き、そこから藩邸に帰った。
翌日には、留守居役が老中への進物を届けている。
 
献上物や進物は、かなりの額にのぼる。
ただし、これが藩財政を圧迫していたというのではない。
将軍からは倍額に近い拝領品が下賜される。
一方額は小さいがとはいえ、老中や幕閣への進物に返礼はない。


江戸到着の儀礼
リハーサルを二度
当日の朝、礼装で上屋敷を出る。
江戸城大手門で、大半の供を残し、駕籠から降り徒歩で表玄関から入る、
出迎えた表坊主の案内で、梛之間に入り、着座する。
参勤御暇の登城は「諸席打込」であり、城主禄高順でお目見えする。
全員揃うと、表坊主に連絡し、式場である黒書院に行き習礼をして柳之間に戻る。
「習礼」とはリハーサルである。
このお目見えが緊張感をもった重要な儀式であることが知れる。
二度習礼をする。
幕府側でも落ち度のないようにはかっているのである。
まだ儀式までには時間がある。


あっけない本番
さて、いよいよ本番である。
黒書院を襖の方を後ろにして、定められた順に着座し、目付が書いた「名前書」を見せて確認を取る。
順番にお目見えする。
将軍から「夫エ(それえ)」と声がかかる。
すかさず御用番老中が「〇〇守は有り難く申しおります」とお取り合いし、儀礼は終わる。
あっけないものである。
帰宅は午前1時前である。


儀礼国家の心性
このような参府の儀式は定型化されており、儀礼的なものであった。
しかし、諸大名にとっては、このような儀礼こそが政治的行為であった。
極端に言えば、大名が国家老の案に許可を与えることと、
留守居役のお膳立てした場に出てゆくだけでよかった。
参勤交代制の下で、江戸と国許を隔年往復するうちに、日常的に大名が行う政務の実質がなくなっていたのである。





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「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの江戸参府紀行 

2021年09月24日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「大名と庶民の街道物語」 新人物往来社 2009年発行

東海道の旅人たち
ケンペルの江戸参府紀行 藤田孝光






オランダ東インド会社の商館長は年に一度、将軍に謁見し、献上品を奉呈するため江戸参府を行っていた。
ケンペル(1651~1716)はドイツ人の医師・自然科学者で、彼の死後、その遺稿をもとにして編纂された『日本誌』は、日本を紹介する書物として広くヨーロッパで読まれた。
「江戸参府旅行日記」も、そのなかに収められている。


編成
商館長1名
書記2名
医師1名、

これに日本側の随員
通詞
付添検使、
与力
同心
捕方
が、長崎奉行によって任命される。それぞれが下僕として数名づつひき連れる。
さらに、必需品や献上品を運ぶ運搬人や馬方、
通り道となった各藩から案内人がいた。

その数は全行程のなかでも変化し、一行は100人前後。
たった4~5人の外国人が旅をするのに、これだけの大人数で、
護衛の役人は道中の安全というよりも、その監視が主な目的だったようだ。

昼食や宿泊の旅館は決められており、一定のペースで進められた。
ケンペルは昼食やちょっとした休憩の合間にあちこち見聞している。

一行は大名が参勤交代で使う高級旅館を利用したから、
主人たちは正装で出迎え身を低くした。








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「江戸参府旅行日記」番外編・オランダ商館が望んだ輸出品 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「九州そしてニッポン」   宮崎克則編 海潮社 2009年発行


オランダ商館が望んだ輸出品

輸出品は銀や銅が中心であった。
江戸初期の頃、日本から輸出される銀は非常に良質で、オランダの目的はこの銀であった。
銀の輸出が禁止されると、銅の輸出が主力となった。
大量に輸出された銅はヨーロッパの銅の相場にも影響を与えたといわれる。

オランダ船は日本に来航する際、
砂糖をバラストとして積み込んでいた。
その砂糖を降ろすと、今度は銅をバラストとして積み込んでいた。

他に輸出品として樟脳、陶磁器、漆器、醤油、海産物などがある。







輸出禁止品
貨幣、地図、あらゆる武器。
金製品であったはずの刀剣は、鎧兜とともにオランダ国立民族学博物館に収蔵されている。


輸入品
主な輸入品をあげると、「本方荷物」として
生糸、毛織物、染料、ガラス製品、皮革類など。
「脇荷物」として
薬品、ガラス製品、装飾品、文房具など異国趣味あふれるもの。
「誂物(あつらえもの)」は将軍や諸大名への
辞典や図鑑、薬種や医療器具、時計、眼鏡、望遠鏡など。
「献上品」として、オランウータンほか珍獣・珍鳥もあった。
船底には、バラストとして砂糖があった。










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「江戸参府旅行日記」番外編・青い目の見た元禄 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト

青い目の見た元禄より~ドイツ人ケンペルの日本見聞録~ 岡山大学長 大藤真

「岡山の自然と文化」 岡山県郷土文化財団 昭和62年発行






私は内科の医師ですが、今日は医学の話はしません。日本に最初に来たドイツ人ドクターのケンペルさんの話です。
ケンペルさんはドクターのくせに『日本誌』に、医学の話はでてこないのです。

今から296年前オランダ船に乗ってきました。
タイから日本の長崎まで約3ヶ月かかっておりますね。
元禄3年9月26日に、あこがれの日本に着いております。
2年後の元禄5年10月31日に離日し、インドネシアを経由し、ドイツに帰り、
1716年65才で亡くなっております。
ですから、39才から40才という壮年のときに日本に2年おられた。
もともとのすごい博学の上に、その一番充実した壮年の時に日本にいて、
沢山の日本のことを勉強し、かつ見聞を広めたわけでございます。


イチジク
日本のイチジクには3種類ある。
一つの種類を柿という、と書いてあるんです。これは柿がヨーロッパになく、ほんとの柿です。
あと2種類はまさにイチジクなんです。
一つは日本のイチジク、
一つはヨーロッパ人が持ってきて植えたイチジク。

大根
日本は大根が非常に多い。
肥やしをまくでしょう。大根に肥えがしみ込む、だからとても食べられないというんですね。
日本人は平気で食べる。
生のまま食べたり、煮て食べたり、
ぬかずけにしたり、
干したり、とにかく非常によく食べる。



日本人は農耕に使うけども、ミルク、バターを採ることは全然知らんと書いてある。



三毛猫が多い。どうも日本の猫はネズミをとらない。
女に抱かれてかわいがられるばかりである。


セミ
昆虫の中で大変珍しいものが日本にいる。
日本中どこに行っても、夏になったらものすごいセミの声で、これは好きだ。


フグ
日本人がこれをよく食べるけれど、よく死ぬと書いてある。
死んでも死んでも食べると。
それで、とうとうお上の方で、
「侍はフグ食うべからず」と禁止令を出した。
もしこっそり食べた死んだら、後継ぎは許さんとゆうのですから厳しいです。


農家
わらぶき、かやぶきが多い。
家の奥の方に行くとかまどがある。
清潔な畳がある。
戸がない、道具はほとんどない、目につくのはニワトリだけ。
生活は自給自足で農民は結構生活を楽しんでいる。






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