「ケンペルとシーボルト」 松井洋子著 山川出版社 2010年発行
1690年ケンペルを乗せた船は長崎に到着した。
その132年後、シーボルトが長崎に降り立った。
この二人には、いくつかの共通点がある。
ドイツ語を母体とした。ドイツ人だった。
医師であり、商館付き医師として日本に滞在した。
日本について広範な調査・研究を行った。
ケンペルの長い旅
ケンペルはドイツ北部のレムゴーで生まれた。父母は牧師。
21歳の時ポーランド領ダンツィヒの学校で、
哲学・歴史・古典語を学ぶ。
1681年、当時の強国スウェーデンに赴く。ペルシャへの派遣使節の書記官に選ばれる。
1683年3月出発、スエェーデン~フィンランド~サンクト・ペテルブルグ~モスクワ。
7月10日、11才のピョートル皇帝(後の大帝)に謁見。
モスクワから船でカスピ海まで進む。
イスファハンへの入市許可待ち中にバグーの油田地帯など詳細に記録。
ラクダに乗ってイスファハンに到着。
イスファハンの市街地図や建造物を調査研究。
神父からはトルコ語とペルシャ語を学び、
宮廷や国内事情を聞く、
ペルシャ植物の詳細なスケッチをする。
ホルムズ湾にオランダ東インド会社の艦隊が停泊していることを知ると、
その船でさらに遠くへ旅することを考えた。
彼は知人への手紙に「知識欲による病」と述べている。
1685年、バンダル・アッバース商館の医師として出発。途中ペルセポリスなど遺跡を詳細に記録。
1688年、インドへ向けて出発。タバコ・麻薬や風土病、地理学・歴史学を調査研究。
1689年、植物学の楽園といわれたジャワ島へ着く。バタビア周辺の広範な記録を作成。
1690年5月7日、日本への旅が始まる。
シャムのアユタヤで都の観察や政争の情報を記録、
9月20日すぎ、船は長崎湾に入った。
ヨーロッパから、オランダ東インド会社の船で日本まで来たほとんどの人びとと違って、
彼はその旅の前半を陸路や河川・湖の船で、内陸をとおって来ている。
それは海上の旅に比べ、多くの自然と異民族たちの営みを見る旅であり、
ケンペルの好奇心を満たすとともに、その比較観察の目を養うものだったに違いない。
出島生活
オランダ語や医学を教え、その代わりこの国の位置や状態、政府、制度、宗教、歴史、家庭生活などについて、このうえなく詳しく教えてくれ、かつ文献を探し協力者がいた。
江戸参府
貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した。
同行するオランダ人は三人のことが多かった。全所要日数は平均で90日ほど。
出島に閉じ込められていたオランダ人たちが日本国内を旅する唯一の機会であった。
1690年ケンペルを乗せた船は長崎に到着した。
その132年後、シーボルトが長崎に降り立った。
この二人には、いくつかの共通点がある。
ドイツ語を母体とした。ドイツ人だった。
医師であり、商館付き医師として日本に滞在した。
日本について広範な調査・研究を行った。
ケンペルの長い旅
ケンペルはドイツ北部のレムゴーで生まれた。父母は牧師。
21歳の時ポーランド領ダンツィヒの学校で、
哲学・歴史・古典語を学ぶ。
1681年、当時の強国スウェーデンに赴く。ペルシャへの派遣使節の書記官に選ばれる。
1683年3月出発、スエェーデン~フィンランド~サンクト・ペテルブルグ~モスクワ。
7月10日、11才のピョートル皇帝(後の大帝)に謁見。
モスクワから船でカスピ海まで進む。
イスファハンへの入市許可待ち中にバグーの油田地帯など詳細に記録。
ラクダに乗ってイスファハンに到着。
イスファハンの市街地図や建造物を調査研究。
神父からはトルコ語とペルシャ語を学び、
宮廷や国内事情を聞く、
ペルシャ植物の詳細なスケッチをする。
ホルムズ湾にオランダ東インド会社の艦隊が停泊していることを知ると、
その船でさらに遠くへ旅することを考えた。
彼は知人への手紙に「知識欲による病」と述べている。
1685年、バンダル・アッバース商館の医師として出発。途中ペルセポリスなど遺跡を詳細に記録。
1688年、インドへ向けて出発。タバコ・麻薬や風土病、地理学・歴史学を調査研究。
1689年、植物学の楽園といわれたジャワ島へ着く。バタビア周辺の広範な記録を作成。
1690年5月7日、日本への旅が始まる。
シャムのアユタヤで都の観察や政争の情報を記録、
9月20日すぎ、船は長崎湾に入った。
ヨーロッパから、オランダ東インド会社の船で日本まで来たほとんどの人びとと違って、
彼はその旅の前半を陸路や河川・湖の船で、内陸をとおって来ている。
それは海上の旅に比べ、多くの自然と異民族たちの営みを見る旅であり、
ケンペルの好奇心を満たすとともに、その比較観察の目を養うものだったに違いない。
出島生活
オランダ語や医学を教え、その代わりこの国の位置や状態、政府、制度、宗教、歴史、家庭生活などについて、このうえなく詳しく教えてくれ、かつ文献を探し協力者がいた。
江戸参府
貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した。
同行するオランダ人は三人のことが多かった。全所要日数は平均で90日ほど。
出島に閉じ込められていたオランダ人たちが日本国内を旅する唯一の機会であった。