しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの長い旅 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「ケンペルとシーボルト」  松井洋子著 山川出版社 2010年発行





1690年ケンペルを乗せた船は長崎に到着した。
その132年後、シーボルトが長崎に降り立った。
この二人には、いくつかの共通点がある。

ドイツ語を母体とした。ドイツ人だった。
医師であり、商館付き医師として日本に滞在した。
日本について広範な調査・研究を行った。



ケンペルの長い旅



ケンペルはドイツ北部のレムゴーで生まれた。父母は牧師。
21歳の時ポーランド領ダンツィヒの学校で、
哲学・歴史・古典語を学ぶ。

1681年、当時の強国スウェーデンに赴く。ペルシャへの派遣使節の書記官に選ばれる。

1683年3月出発、スエェーデン~フィンランド~サンクト・ペテルブルグ~モスクワ
7月10日、11才のピョートル皇帝(後の大帝)に謁見

モスクワから船でカスピ海まで進む。

イスファハンへの入市許可待ち中にバグーの油田地帯など詳細に記録。
ラクダに乗ってイスファハンに到着。
イスファハンの市街地図や建造物を調査研究。
神父からはトルコ語とペルシャ語を学び、
宮廷や国内事情を聞く、
ペルシャ植物の詳細なスケッチをする。

ホルムズ湾にオランダ東インド会社の艦隊が停泊していることを知ると、
その船でさらに遠くへ旅することを考えた。
彼は知人への手紙に「知識欲による病」と述べている。
1685年、バンダル・アッバース商館の医師として出発。途中ペルセポリスなど遺跡を詳細に記録。

1688年、インドへ向けて出発。タバコ・麻薬や風土病、地理学・歴史学を調査研究。

1689年、植物学の楽園といわれたジャワ島へ着く。バタビア周辺の広範な記録を作成。

1690年5月7日、日本への旅が始まる。
シャムのアユタヤで都の観察や政争の情報を記録、

9月20日すぎ、船は長崎湾に入った。



ヨーロッパから、オランダ東インド会社の船で日本まで来たほとんどの人びとと違って、
彼はその旅の前半を陸路や河川・湖の船で、内陸をとおって来ている。
それは海上の旅に比べ、多くの自然と異民族たちの営みを見る旅であり、
ケンペルの好奇心を満たすとともに、その比較観察の目を養うものだったに違いない。



出島生活

オランダ語や医学を教え、その代わりこの国の位置や状態、政府、制度、宗教、歴史、家庭生活などについて、このうえなく詳しく教えてくれ、かつ文献を探し協力者がいた。



江戸参府

貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した。
同行するオランダ人は三人のことが多かった。全所要日数は平均で90日ほど。
出島に閉じ込められていたオランダ人たちが日本国内を旅する唯一の機会であった。






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「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルとは

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「和船」 石井謙治著  法政大学出版局 1995年発行


ケンペル

元禄3年(169)9月、長崎出島の商館に、一人のドイツ人が商館付き医師として着任した。
その名はエンゲベルト・ケンペル、当時39歳。
彼は医師のほかに歴史・地理・植物・音楽などの部門も修めた多才な学者で、
しかも外国語はロシア語を含むヨーロッパ7ヶ国語に通じていたという人物であった。

どうして極東の日本に来たかというと、アジア地方、とくに中国に強い関心を持ち、何とか調べたい気持ちから、渡航の足掛かりとしてオランダ東インド会社の船医となり、
ジャワなど各地を回ったのち、長崎の商館付き医師の役を得て来日したということなのである。







ケンペルは、わずか2年間の短い在任にもかかわらず、商館長の随員として2度の江戸旅行を体験することになる。

この江戸参府旅行によって、彼は日本の風土・産業をはじめ民衆の生活に至るまで、さまざまな事象を見聞する機会を得、
そのたぐい稀なる観察力と高い見識を生かして、帰国後に名著『日本誌』を著することになるのである。

日本人の手工業の技巧の優秀性に着目して、
武器・絹織物・漆器のすばらしさを絶賛している。
また当時の海運と商業流通の活発さに目を見張っている。
これは世界的な視野を持つケンペルの見方なのであるから、掛け値なしに受け取ってよいと思う。




(出島のオランダ商館)




ケンペルは鎖国政策を認める立場で、
ともかく彼の考え方の要点は、
日本のように他国よりも天然資源に恵まれているうえ、勤勉な国民によって各種の産業が発達している国、
つまり自給自足で豊かな生活のできる国が、
何も求める物のない外国人たちの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などの手段から守るため、
門戸を鎖すのは適切な処置であるばかりであく、そうすべきである、
というのだから手放しの鎖国礼賛なのである。




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クジラが水島港で見つかった

2021年09月22日 | 令和元年~
日時・2021年9月21日 夕方のテレビニュース


子どもの頃、
こまどり姉妹が歌う「ソーラン渡り鳥」を聴きながら、
北海道の江差付近では、いっぱいニシンが獲れると思っていた。
ペギー葉山が歌う「南国土佐を後にして」を聴きながら、
浦戸湾にはクジラがいて、漁師たちは室戸の沖でクジラ漁をしていると思っていた。
大人になって、江差にニシンは来ない、高知でクジラは捕れない、
それは過去の事であると知った。










そして、瀬戸内海でもかつてはクジラがいたことを知り、
笠岡にもクジラが来たことを知った。









昨日の夕方テレビを見ていたら、水島港でクジラが見つかったそうだ。
岡山県では40年ぶりのクジラで、
タンカーのスクリュー付近に引っかかっていた。










瀬戸内海にまぎれ込み、潮を噴き上げながら泳いでいて、そのうち事故死したのだろう。
テレビで見ても、やっぱりクジラは巨体だ。

子供の時、茂平にスナメリの死体が護岸の石に打ち上げられていたが、
スナメリよりも比較にならない巨体であるのがテレビからもわかった。






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井笠鉄道廃線50周年記念、「幸福の黄色いハンカチ」

2021年09月22日 | 令和元年~
日時・2021年9月21日 
場所・笠岡市山口 井笠鉄道・新山駅前


井笠鉄道が廃線して、今年で50周年になる。
あの、懐かしい「井笠鉄道」も今や、乗車経験のある人が少数派となっている。




これ↑が井笠鉄道新山駅。
50周年記念で駅舎には「幸福の黄色いハンカチ」が飾ってある。




お隣のコッペル製蒸気機関車は、岡山県がコロナの「まん防」のため9月30日まで立ち入り禁止。






井笠鉄道の映画「花の講道館」ロケ写真。
日本一の美女・山本富士子が新山駅の隣の吉田村駅ふきんで撮影した。




井笠鉄道は、
岡山県笠岡市、
岡山県井原市、
岡山県小田郡矢掛町、
広島県福山市、
の2県3市1町を通っていた。


鉄道廃止後も笠岡では、いろんな想い出に関するイベントがあったが
井原・矢掛・福山では、そういうものがないのがちょっと残念。


新山駅前では、9月21日軽トラ朝市があった。




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ケンペル「江戸参府旅行日記」第二回の江戸参府旅行 (下関~怒和~下津井~室津~大坂)

2021年09月21日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペルは日本に2年間滞在し、江戸参府旅行に2度参加した。
2度目の「江戸参府旅行日記」のうち、瀬戸内海旅行の部分のみ抜粋する。


・・・・・・・


ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十四章  第二回の江戸参府旅行  (下関~怒和~下津井~室津~大坂)
1692年(元禄5)3月




3月6日

下関の宿舎に着いた。


(下関市唐戸市場)





3月7日

日本人の考えでは、風と波が強すぎるという。


(下関市みもすそ川公園)






3月8日

早朝4時に、穏やかな海に月光を浴びて出港。
12時に上関の海峡を通過した。


(山口県周防大島)



2時には沖家室島の近くを通り、3時半ごろ油宇に向かった。
日没時怒和村に着いた。



(愛媛県中島諸島)



(愛媛県怒和島港)







3月9日


早朝出港、午後4時に御手洗に錨を下した。


(広島県大崎下島・御手洗港)


(広島県大崎下島・御手洗)

ヴィーナスの姉妹たち(娼婦のこと)を乗せて、船の間をあちこち回っている2艘の舟があった。








3月10日

夜明けと共に順風に帆を上げて、鼻繰の瀬戸を後ろに残し、来島の城が見えた。


(鼻栗の瀬戸、大三島大橋から左・大三島、右・伯方島)


(来島海峡大橋から、左・四国本土、右・来島)





さらに2里行くと右手に半里離れた立派な天守閣のある美しい城があり、今治城という。


(愛媛県今治城)








(広い燧灘・香川県伊吹島)






(広い燧灘・広島県走島)



(広い燧灘・広島県走島から正面に、岡山県白石島を見る)




(香川県与島)






日没前に、400戸余りの下津井という小さな町に着いた。


(備讃瀬戸、JR瀬戸大橋線からの車窓風景)


(倉敷市下津井)





3月11日

逆風が強く、じっとしていた。


(櫃石島から見る下津井港)








3月12日

順風が吹き始め、夜明けに航海を開始し、午後3時に室湾に錨を下した。
150艘の船で湾はいっぱいだった。


(兵庫県室津港)





3月13日

夜明けとともに出港したが、風は思わしくなかった。
網干ふきんで引き返し、午後3時室に着いた。


(兵庫県室津港)




3月14日

風が強く、仕方なく室の港にとどまった。


(兵庫県室津港)








3月15日

早朝出港し夕方大坂の港に着いた。
宿の主人が大坂から屋形船で迎えに来ていた。




(大阪)




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ケンペル「江戸参府旅行日記」江戸の町・江戸城・拝謁と告別

2021年09月21日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十二章・江戸の町・江戸城・拝謁と告別
1691年(元禄4)3月



江戸の町と江戸城 2,3の事件 拝謁と告別

江戸湾は、海底が沼土のようで非常に浅いから、
荷物を運ぶ船は、町から1~2時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。
幾つかの幅広い堀と木を植えた高い土堤とで分断され、それで大火を防ぎ、火が燃え広がることのないよう目的を達している。
たくさんの地方出身の人や土着の市民や宗教関係の人たちが、この町の人口を非常に多くしている。
それに、幕府の役人や、全国からの諸大名の家族がこれに加わる。



(江戸城・巽櫓)


江戸の町の支配は仕方に関しては、長崎や大阪と同様であった。
毎月交替する二人の奉行が全市のうえに置かれ、これを支配している。



3月14日

幕府の役人【宗門改め】が丁寧な挨拶に加え、我々の到着を参政官に報告した旨知らせてきた。



3月15日

裁縫師が、将軍に献上するヨーロッパ製の敷布を仕来たり通りに折り畳み、止め縫いした。



3月16日

摂津守が私的に、健康を尋ねに来た。



3月17日

宿舎の近くで今朝、また火事があった。



3月18日

謁見の時、将軍に献上するすべての品を整理するのに時を過ごした。
夕刻に大火が起こり600軒が焼けたが、4時間後にようやく消えた。
放火犯人の仕業で逮捕されたという。


3月20日

摂津守は、この28日には、将軍に謁見がかなうと思われると使者をよこした。


3月21日

大通詞は宗門改めの所に赴き、謁見の時には駕籠に乗ってお城にいかせてほしてと願い出た。


3月23日

小通詞を通じて、平戸侯に一瓶の火酒を贈った。
わが国民が以前に侯の父上の庇護のもとにあったからである。
正午、恐ろしい地震が起こり大きな音をたてて揺れた。


3月24日

側用人で将軍のお気に入り牧野備後は使いをよこして
カピタンにオランダのチーズを欲しいと言ってきた。
貯えの中から贈った。


3月25日

将軍や幕府の高官への贈り物を分け、きちんと整理した。
将軍は別として、
われわれが贈り物をしたり、頭を下げたりして敬意を表さなければならない高官たちは、次の人々である。
一・御老中。5人の年老いた人のことである。
二・若年寄。4人の下級参事官。
三・寺社奉行。(3人)
四・平戸城主。
五・大目付。(2人)
六・江戸町奉行。二人。
七・長崎奉行。三人。


3月26日
側用人牧野備後の兄が死んで、拝謁は1日延期された。


3月27日

将軍の侍医が、私のとこに2~3の病気についての助言を求めに来た。


3月28日

「明日将軍に拝謁が許されるので、早朝城中に出向かれ」と知らせに来た。


(江戸城図屏風)





3月29日



(江戸城大手門)




将軍に贈る品物は城へ運ばれ、謁見の大広間に、慣例通り一つ一つ特別の薄い板の台に載せて並べられた。
ヨーロッパの礼服ということで黒い布の外套をかぶっていた。
百人番所という城の大番所まで行き、さらに要請があるまで、待っていなければならない。




(江戸城百人番所)


1時間もたたないうち呼ばれて、二つの立派な門を通り、御殿の正面まで行くと、
そこに武装した兵士が警備し、役人や近習たちがたくさんいた。
御殿の控えの間で、たっぷり1時間ばかり座っていると、公使つまりカピタンを迎えにやってきた。われわれはそこに残っていた。




(江戸城天守台)

カピタンは将軍の高い座所と、献上品が並べてある場所との間で、ひざまずき、頭を畳にするつけ、手足で這うように進むでて、
一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。


(謁見図)


拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。
毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引き下がるのである。



3月30日

朝早く、二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、二人の宗門改めのところに、
贈物を届けるため、馬で出かけた。
夕方5時宿舎に戻った。


3月31日

朝10時、われわれ三人は長崎奉行を訪ねるため馬で出かけた。
一人は暖かい食べ物と濃い茶が出された。


4月1日

明日城中で別れの拝謁を賜る旨の通知を受けた。



4月2日

馬に乗って江戸城に赴き、番所で1時間半待ち、
それから御殿の玄関近くにある36畳敷きの間で、同じくらい待たされた。


(江戸城富士見多門)


(江戸城富士見多門)



カピタンは広場に導かれ、そこで別れの謁見を賜った。
われわれが御殿から退出する前に、三つの台に載せた将軍からの返礼の贈り物、
すなわち時服30領があらかじめ運び出された。
午後には高官がたからたくさんの品を贈られた。
黒い衣類、すなわち礼服である。




(江戸城富士見櫓)




4月3日

残りの役人から礼服が届けられた。
午後1時に、江戸におけるわれわれの一切の業務は終わった。



(江戸城・二重橋)


(江戸城桜田門外)




4月4日

城門は閉ざされたままであった。

4月5日

長崎に向かって帰路についた。



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ケンペル「江戸参府旅行日記」神奈川~品川~江戸

2021年09月20日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月13日

この日はついに、6里先の将軍の居城地、江戸に入る日。
早朝宿を発った。

特筆すべきものは、
一・約150戸の新宿村。
二・川崎、300戸以上あり、渡し舟で渡った。



(東海道五十三次2・川崎宿)



三・六郷。魚を捕るたくさんの舟が用意してあった。
四・鈴ヶ森。小さな漁村で、貝類や海藻が採れる。潮干狩りや海苔を作っている。


五・品川という町は、日本橋から2里あるといわれている。
品川の手前には刑場があって、通り過ぎる旅行者はそれを目にして、むかつくような気持になる。
人間の首や手足を切った胴体が、やせた大きな犬が吠えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。
ほかにも、たくさんの犬やカラスが腹いっぱい食べようと待っていた。




(品川)



品川は密集した家の立ち並ぶ曲がりくねった町筋から成り、右手には海、左手には寺院が見え隠れする。
小さな料亭に入った。一休みして元気をとりもどし、いよいよ江戸に第一歩をしるそうというのである。





(東海道五十三次1・品川宿)




この料亭から数百艘の船と江戸の町を見ることができた。
馬の手入れも十分にさせ1時間を費やした。

粗末な番所が江戸との境界だった。




(新橋)




馬を進めると、道はずっと整備され、幅も広く、人も大勢いたので江戸の町に入ってきているのがはっきりした。
一番始めに魚市場に行き当たった。
それから大きな通りや、幾つかの橋を渡った。




(銀座)






(東海道五十三次・日本橋)


(日本橋)




日本橋を過ぎると、信じがたい程の人の群れや、大名や役人の従者、着飾った婦人たちに出会った。
約100人の消防隊の行進にも行き合った。



(浅草)


呉服屋・食料品屋・仏具屋・本屋・七宝細工屋・薬屋などが家お前の軒先に商品を並べていた。





われわれの一行が通る時、他の町々で起こったような、戸口の前に立って見物しようとする者はほとんどいなかった。
これしきのことで好奇心を起こすことはないと、彼らは思っているのであろう。


午後1時、宿舎に着いた。二階に通された。到着は午後1時。
長崎からの全行程は、従って29日で終わったのである。



(東京タワーから見る東京)


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ケンペル「江戸参府旅行日記」小田原~藤沢~神奈川

2021年09月20日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月




3月12日

小田原を後にすると、すぐに酒匂川の岸に着いた。
平底の舟で渡った。




(東海道五十三次8・大磯宿)



大磯と言う小さな町を過ぎ、平塚村があり、馬入村と同じ名の流れがあった。



(東海道五十三次7・平塚宿)




川を渡って、村々を通った。
藤沢で昼食を取った。


(江の島)


(江の島)


遊行寺を通りすぎた。


(東海道五十三次6・藤沢宿)






藤沢から2里、戸塚という小さな町に来た。




(東海道五十三次5・戸塚宿)






また2里行くと、程ヶ谷という町があった。



(東海道五十三次4・保土ヶ谷宿)





日が暮れ、9時に神奈川に着き、ここで泊った。



(東海道五十三次3・神奈川宿)



(横浜)






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ケンペル「江戸参府旅行日記」三島~箱根・箱根関所~小田原

2021年09月20日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月11日

日が昇ると駕籠に乗り込んだ。
今日は小田原の町まで八里の道を箱根の山を越える。

今日の旅程の半ばで昼食をとった。
湖は険しい山々に囲まれている。
ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもいいが、冬は非常に寒く体によくない。



(芦ノ湖と箱根の関所)




この村のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれている。
新居の関所と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。
ここは江戸にとって戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。
非常に狭い道の傍らにある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、
右手には険しい山が崖となり、左手は湖があって自然の要害をなしている。



(箱根の関所)



(箱根の関所)




関所では、
日本人はみな駕籠や馬から下り、かぶり物をぬいで、人も荷物も点検を受けたが、
それはただうわべだけ行われたに過ぎなかった。


(箱根の関所)



(東海道五十三次10・箱根宿)










小田原の市に着いた。
町の外側には門と番所があり、
町筋は清潔でまっすぐに延び、中央の通りは道幅が広い。
城には白壁造りの新しい三重の天守があって人目を引く。




(東海道五十三次9・小田原宿)



住民は小ぎれいな服装をし、礼儀正しい態度、特に婦人の優雅な身のこなしから、裕福で身分の高い人々がここに住んでいるのがわかった。
われわれは、ここから江戸の宿の主人に宛てて、到着を知らせるために手紙を出した。







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ケンペル「江戸参府旅行日記」江尻~吉原~三島

2021年09月19日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第十一章  浜松から江戸までの旅
1691年(元禄4)3月



3月10日

日の出に出発、午前中に吉原まで、午後は三島までの道である。

清見に着いた、奥津という小さな町からさして遠くない200戸の村であって、
海岸の砂にたびたび海水をかけ、それを煮つめて良い塩が作られる。

蒲原までの間の村々では耕地がほとんどない。






(国道1号線、奥津川)



(奥津川川越跡)




(東海道五十三次17・興津宿)




馬に乗っていたわれわれは、奥津からはまた駕籠に乗り換えて、最初に早い流れを渡り、
螺旋階段を登るように苦労して薩埵峠の山地を越えた。




(薩埵峠・・・・この時、富士山が見えるまで2時間待ちました)









(東海道五十三次16・由比宿)



(昭和32年前後の由比ふきん)







由比の村までかつがれて進んだ。
そこからまた馬に乗り換えて大きな蒲原の村に着いた。




(東海道五十三次15・蒲原宿)





1里半で大きくて流れが急な富士川に着いた。
川幅いっぱいに水があるのでなく、二つに分かれて流れており、中洲には露店が立っているのが見えた。
一方は歩いて渡ることができたが、もう一方は歩いて渡るのは危険で、平底の舟でしか割れなかった。



川を渡ってから、再び馬に乗ってたくさんの村々を過ぎた。
昼の1時には吉原という小さな町に着いた。


(東海道五十三次14・吉原宿)







われわれの全行程中で、富士山はこの辺りから一番近いところにあった。
富士山は旅行中、われわれの道標になり、地図を作るにあたって一つの基準として役立った。
その姿は円錐形で左右の形が美しく、堂々としていて、草や木はまったく生えていないが、世界中でいちばん美しい山と言うのは当然である。





(東海道五十三次13・原宿)




人々は登るのに三日かかるが、
下りるにはたった三時間しかかからない。
それは、下る場合にはアシとか藁で作った籠を利用し、腰の下にこれを結び付けて、
夏ならば砂の、冬ならば雪の上を、これで滑り下るためである。
日本の詩人や画家がこの山の美しさをいくらほめたたえ、うまく描いても、それで十分ということはない。



吉原から半里のところにある元吉原で昼食をとったが、
子供たちが群れを成して近づいてきて、前方20~30歩のところでとんぼ返りをしながら、輪を描いて駆け回り、施し物をもらおうとした。
子供たちに小銭をたくさん投げてやった。彼らはぶつかりあってつかもうとして、大変面白かった。




(東海道五十三次12・沼津宿)


沼津という小さな町で夜になってしまい、
残る1時間半の真っ暗な道を、三島まで行かねばならなかった。




(東海道五十三次11・三島宿)







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