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~東京の紅葉~日比谷公園~2019.11.29~満開

2019-11-30 08:15:40 | 関東~東京、神奈川、千葉、茨城、群馬、埼玉、栃木
~東京の紅葉~日比谷公園~2019.11.29~満開

日比谷公園、紅葉、満開でした。2019.11.29 東京

DATA
日比谷公園,ひびやこうえん,東京都,千代田区
皇居外苑のすぐ南
日比谷の地名を冠する施設・エリアの一つ(住所については「日比谷公園(町名)」で後述)。霞が関、有楽町、内幸町と隣接し、銀座にも近い、東京都心部に位置する都立公園で、公園面積は161,636.66平米 (m2)。 後楽園球場(グラウンド面積11,493平米)、東京ドーム(同13,000平米)と並んで、かつては「日比谷公園何個分」など、敷地面積の尺度とされることが多かった。

園内の主要な施設として、市政会館および日比谷公会堂、大小の野外音楽堂、日比谷図書文化館(旧:東京都立日比谷図書館)、「緑と水の市民カレッジ」、貸切結婚式場フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼、売店などがある。また園内に生える多くの樹木と大小の花壇が、四季折々の花と緑で都市生活者や観光客の目を楽しませている。

このほか、ホセ・リサール像(フィリピンの独立運動家)、ルーパ・ロマーナ(ローマの狼、ローマの建国神話でロームルスとレムスを育てたとされる)、ルーン石碑に模した「古代スカンジナビア碑」、南極の石など各種の記念碑・物が寄贈され、園内各所に設置されている。

地方物産、文化・音楽、園芸、スポーツなどのイベントや展示も多く開かれる。

テレビドラマの撮影地として使用されることも多い。

江戸時代は江戸城日比谷御門のすぐ外に位置し、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれた。当時は現在の霞門を直進する道路で南北に分かれており、幕末の時点では、北側には御用屋敷と、萩藩毛利家や佐賀藩鍋島家の、南側には三草藩丹羽家、吹上藩有馬家、福知山藩朽木家、盛岡藩南部家、唐津藩小笠原家、狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。
明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれた。
元々日比谷入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断され公園地としての利用が提案された。
日本の公園制度は1873年(明治6年)の太政官布達第16号に遡るが、上野公園・芝公園など寺社境内の公園化が中心で、一から新しく公園を造るのは全く初めての試みだった。1893年(明治26年)に東京市が軍から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名された。

1901年(明治34年)、造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていた堀を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残した。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができる。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ、1902年(明治35年)4月に着工。翌年6月1日に仮開園を迎えた。
早くも開園と同年に洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(後のパークセンター)、結婚式場高柳亭(現・日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現・レストランなんぶ)、植木屋などが出店し、戦後も営業する店舗の多くが出揃っている。日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。

1954年(昭和29年)に大音楽堂、1957年(昭和32年)に日比谷図書館が再建された。

1961年(昭和36年)、大噴水が完成した。

2018年11月23日、ランニングの拠点と飲食店を併設した「スポーツステーション&カフェ」が開館 した。
#東京 #日比谷公園 #紅葉


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