あやつられ文楽鑑賞 (双葉文庫) | |
クリエーター情報なし | |
双葉社 |
☆☆☆
三浦しをんさんが、文楽の快楽を紹介。
それも素人目線で、それでいて核心をズバリと
素人の怖いもの知らずか、ズケズケと文楽の世界に入っていく。
例えば、人形の使いで、アドリブはあるのかと云う単純な疑問をもつ。
三味線の鶴澤燕二郎さんの、その答えは、「伝統芸能は「型」のあるものなんです」と、
しかし、同じ型どおりに弾いても、もちろん上手下手は歴然とあるわけで、つまり
「型」とはイデア(心の目、魂の目によって洞察される純粋な、ももごとの真の姿)
なんだな、と、しをんさんは勝手に理解したと・・・。
次に続く言葉はすべての芸能に通じるものと、私は、大好きな落語に置き換えて読んでみた・・
「こうあるべき」という最高の理想が設定されていて、それに近づくべく、各人が一心に
稽古に励み、芸を磨く。理想の語り、理想の音色、理想の人形の動きを目指して。
「型」とは「不自由な取り決め」では決してなく、物語世界を最良の形で観客に伝えるための
練りあげられた「枠」なのだ、と、落語でも、まずはどの師匠も一字一句違わぬように喋りなさいと・・。
すべての芸事は、「型」「枠」から入る・・・、でもその枠の奥の深いこと、深いこと。
歌舞伎のところでは、文楽との違いで、文楽は第一に聴覚(言葉)を通して築きあげるもの、
歌舞伎は第一に視覚を通して物語世界に観客を導くもの、と言える。
歌舞伎に出演する太夫さんと三味線、役者の動きに合わせる。常に役者さんの間合いに気をつけ
役者さんを立てて、自分の狂言回しに徹する。 文楽の、人形のいる本舞台にには視線をやらず、
一点を見据えて語ったり弾いたりする文楽の太夫さんと三味線さんとは、役割がまるっきり違うと。
落語では、第一は聴覚なのか、視覚なのか、・・・・私自身は、DVDよりも音源だけのCDを愛聴するだけに、名人になればなるほど、音感が最優先と思えるだが・・・・・。
あと、文楽人形は、魂の「入れ物」である・・・と。
だから、人間以上に「人間」になることもでき、聞き役に徹する「背景」にもなることができる。
でも、生身の役者が演じる歌舞伎ではそうはいかず、生々しい肉体があるのが邪魔にさえなる。
文楽と歌舞伎では同じ演目でも、本質的な違いから受ける印象は大いに異なるらしい。
行ってないのに、ワクワク感で楽しくなる、三浦しをんさんの「あやつられ文楽鑑賞」
まずは、どちらからでも、体験しなければと・・・私の来年の課題でおますな。
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