新春一月二日である。五高に残っている資料で職員関係は見出すことが出来るが、生徒関係については殆ど見出すことが出来ない。
ここでは五高人物史を参照して第一回の卒業生で龍南会の英傑藤本充安について調査して見た。
藤本は俊傑の誉を高めた人で龍南会の初代総務である、熊本は八代出身で藤本充暁の長男,
青年の頃より精神界の道理に明るく第五高等中学校の在学中から人円主義を唱えて第五高等中学校の思想界を牛耳った。
「人円主義とは凡そ人たる者は何事にも円満でなければならぬ。人と争闘等するが如きは甚だよく第五ない。人は宜しく円い角のない人格を所有し、又所有する様に努めねばならぬ」と云う思想で,当時は日清戦争の直前であった際だけに生徒・職員共に気負い立っていた時代であったことに注目された。
習学寮の生徒を二分して武夫原でフットボールをやらせるなどで体育で鍛え藤本の功績は食堂の自治制度を作った。
帝大に進み法科をやっていたが味気ない清楚に飽きたらず、哲学をやることに腹を決め夏休みを利用して秋月胤永を訪ねこの旨を相談する。秋月胤永は易の言葉として「虎視耽々其欲遂々・・・・」とあるが君もその心掛けを以って初志を遭遇せよと諭され哲学に改宗を棄て、明治29年優秀な成績で帝大をを卒業して今でいう地方公務員になり奈良・京都の部長として敏腕を振るった,秋田県から香川県の内務部長・高松市長等を歴任したが運命の神は彼に味方せずというそのため退官したということである、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます