五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊日教養講座から東大新人会とは?

2013-01-13 04:14:52 | 五高の歴史

東大新人会とは?発足は大正7年12月である。顧問は民本主義を提唱した吉野作造で学生たちを指導したのは赤松清麿、滔天の宮崎龍介とであった。彼らが集まってきた学生たちが新人会を立ち上げたのである。綱領は吾等は世界の文化的大勢たる人類解放の新機運に協調しし之が促進に努める。吾等は現代日本の合理的改造運動に従う・。発足時には理想主義、人道主義、平和主義、自由主義、民主主義、を標榜し新人会の機関誌は「デモクラシー」を創刊大正10年10月には「先駆」「同胞」と機関誌名を変更しより左傾化している。黒田寿雄、志賀義男等は新人会の細胞の一つとして動いていたのである。

林房雄は貧しい家に育ち高橋貞喜党中央委員の思い出によると非差別出身で三体井義一家に家庭教師として住み込んでいる。小・中学校時代から文学少年で双葉という個人雑誌を作りクラスに配布している。成績優秀で小学校教師が父母を説得して一人だけの中学生になっている。中学4年でストライキに参加している成績優秀のため退学処分は免れている。銀行家小野家の家庭教師となって進学後も学費の援助を受け高等学校から帝大へ進学することの条件であった。五高時代は丸三年間竜南生活を送り法経の教諭坂田道雄その後任の竹内良三郎の漫談講義に興味を持った。この時代佐藤栄作、池田勇人が居た時代である。入学した当座は文学志望であったが各種サークルに参加していることは当時の学生の姿が見えるのではなかろうか。

教養主義とマルクス主義は双子の関係であった。人文学の読書を通じて人格の完成、内省的な教養主義であった。読書を通じて人格の完成は阿部次郎、西田幾多郎、和辻哲郎などが読まれ教養主義文化の伝達者の役割を果たしていた。大正デモクラシーでは第一次世界大戦では日本は連合国側に加担したが世は不景気で大学は出たけれどを現出した。森戸事件があり大内兵衛はクロポトキンの社会を表し無政府の思想をで朝憲紊乱罪で収監されこの時の検事総長が平沼騏一郎であったこの事件は国民の関心を集めた。森戸事件は哲学的左翼運動のきっかけになった。

RF会(読書会)Die Rote Fahne アナキスト思想を大正11年五高に社会思想研究会を旗揚げし入学後はアナキスト上級生と知り合い当時の秘密出版物だったクロバトキン、バクーニン、マルクス等を読んでいた。やがて上級生と別れ松延七郎 村上敦 坂本彦太郎 鶴和夫等とRF会読書会を立ち上げた。彼らの教科書は共産党宣言を翻訳して勉強していた。顧問教官は法制経済担当教授竹内良三郎であった。


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