五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

第12代五高校長 本島一郎について

2011-10-19 05:31:23 | 五高の歴史

 

 

五高に於いては昭和十八年の査閲問題は当時の軍部に大きな問題を提示したものであった。昭和十八年在校された卒業生の皆さんの「思い出の話」や「思い出の記」等を参考にすれば添野校長は査閲の時に無帽で敬礼を行っていたとか、また生徒は査閲官に対し敬礼をしなかったとか、査閲官は生徒から査閲官に対し敬礼をするものと考えていたようであったが生徒が無視したため、査閲官は五高では校長以下戦時体制に協力体制が見えなく軍部を嘗めていると考えていたのだろう、

 

そのため査閲官は五高卒業生には幹部候補生の試験は受けさせないと公言したことには、如何にも五高が反体制の代表校に見えたのだろう。

 

配属将校が各学校に配属された真の目的は学校においては、校長の監督指揮に基づいて業務に服することであり、生徒の心身鍛錬、資質向上のはずであったが、軍部独裁になるにつれて教育全般に対する影響力が強くなり特に教練の目的は、国防能力の増進に向けられ、軍事教育の場となり、学校を軍国主義化の拠点として推進して行くことになった。

 

配属将校の存在は次第に学校において強い発言権をもち、生徒の躾についてさえも教官以上の働きをするようになっていく。また各学校に配置された配属将校はお互いに連絡を取り合い、軍部の要望を各学校に伝達する役目まで持っていた。即ち軍部の方針を学校に強制する役割をはたすと共に生徒は勿論、教員を監視する役割を担っていたのである。

 

この時代は軍部の独裁天下であったことから致し方がないことであったのか、添野校長の項で紹介したように五高はこのような状態であったので、政府は早速に配属将校の左遷を行うとともに校長のすげ替えをも画策した。

 

本島校長は新潟県では大政翼賛会新潟の顧問をはじめとして、新潟医科大学長の経験があり、政府は所謂軍国的教育者として五高改革の最適任者と考えたのだろう。五高着任以来時局に善処する決意の下に単身赴任であった。五高の士気を大いに鼓舞し保健衛生にも心していたが、終戦後には、公私とも複雑な事情のために二十三年五月三十一日を以って退官した。

(参考文献   記念館資料 五高七十周年史、ウイキペリア)

 

 

 

 

 

 

 

 


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