五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

明治天皇の崩御と夏目漱石の小説「こころ」

2012-05-30 03:03:02 | 五高の歴史

▽明治45年7月30日午前零時43分明治天皇は崩御した、

この知らせは徳島定雄(明治45英法卒)の場合は東京へ行って入学するため、東海道線米原駅発車後午前4時頃、乗務車掌が直立不動の姿勢で天皇崩御を伝えた。唐津で合宿中の水泳部員は校長から電報が届き解散して帰校の途についた。大正に改元され大葬の式は青山葬儀場で9月13日午後11時から挙行された。五高では雨天体操場で遥拝式を行なった

乃木希典夫妻は二重橋付近でうつし世を神さりましし大君の みあと慕ひて我は行くなり又他には神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにおろかみまつると認め夫人も亦た出でましてかへります日のなしと聞くけふの御幸に逢ふぞ悲しきと水茎の跡美はしく認めて、遺言書と共に御真影の前に捧げぬ出でまして領の年に幸いにかいぞあるましという辞世の句を残している。

五高の生徒は10月12日から京都伏見・桃山崩御御陵に参拝のため修学旅行を実施している。

 夏目漱石は小説「こころ」の中で以下のように書いている。

夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後生き残っているのは必境時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白に妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然に私に殉死でもしたら可かろうと調戯いました。私は殉死という言葉を殆ど忘れていました。私は妻に向かってもし自分が殉死するならば明治の精神に殉死する積りだと答えました。私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。・・・・・・それから一ヶ月経ちました。御大葬の夜私は何時もの通り書斎に座って合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知になったのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ、殉死だと云いました。・・・・・

 旧制高校は明治41年に設立された八高を最後にナンバースクールは誕生しなくなった。国家有為の人材育成を目指した五高は3000人余の明治の学生を送り出し、大正時代へ向けて新しい出発を始めることになる。

 以上で小山先生の熊日教養講座「五高と近代日本」は終わった発表によると九月中旬からまた大正編を行うそうであるのである。その時には出席したい。

 



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