明治十八年十二月初めて内閣制度が出来て初代伊藤博文首相の文部大臣に任命された森有礼によって教育制度の改革が行われ諸種の方案の実行を見たが、高等教育に於いて日本全国を五学区に分け九州一円を第五区として明治二十年四月この高等中学の位置は熊本に定められた。森文部大臣の構想ではゆくゆくはそれ等の高等中学を大学にする積りであった。
森文相は進歩派の急先鋒で明治の始め米国の公使となっていた時に日本の国語を英語にしてはどうかと言う事を米国人に意見を徴した際、米国人から諫止されたこともあった。
あれこれで森は誤解された事も多かったが教育制度の大改革者であった。森は体育を最も奨励した。
その抜擢によって五中校長として就任した野村彦四郎は入学試験では競争によって成績を判別したこともあったと言うことである。
五中の最初の所在地は古城町であった。五高神代の時代であるその期間は明治二十年から二十二年に至る間で明治二十二年黒髪に新校舎が完成し移転し九州各地の中学卒業者の優秀者を本科一年に収容した。当時は本科二年予科三年補充科二年の七年制であった。
五中創設とともに長崎県医学校が五中医学部となってその後明治三十四年に長崎医学専門学校となりこれが長崎医科大学になった。後に嘉納治五郎の懐旧談によれば「本校は熊本で医学部は長崎にあったが熊本は国権党の本拠地であって長崎は自由党優勢の地であったので色々苦心したことがあった。」と言われたことがある。
初期の五中と言えばやはり有進校を連想する。有進校は五中の予備校であり坪井の菓子屋の二階が教場であった。校主は余田司馬人で五中に入学しようとする者はまず有進校にということで教師としては余田自身が英語を、又五中の上級者も教鞭を執っていた。
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