五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

終戦から66年

2011-08-15 05:20:56 | 五高の歴史

今日は終戦記念日、あれから六十六年ここでは同日の寮務日誌を転記する。(原文のまま)

昭和二十年八月十五日 水曜 晴 宿直者 藤田繁一、和田勇一 

記事 午後一時大詔について学校長よリ発表あり悲痛極まりなく暗涙を催す者あり 

寮内は静粛にして謹慎せるものの如し学校は取りあえず三日間の休養を与え外泊を禁じ一部を以って校内の警備にあたらしむ

 

帝國政府 ポツダム宣言受託 一億御詔書に泣く

 詔 書

朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収捨せむと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ

朕は帝國政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

仰帝國臣民の康寧を図り萬邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の違範にして朕の挙々措かさる所曩に米英二国に宣戦せる所以も亦実に帝國の自存と東亜の安定とを庶幾するを出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕の志にあらず然るに交戦巳に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦朕が百僚有司の勤精朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽せるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず加之敵は新に残虐なる爆弾を使用し慄く害の及ぶ所真に測るべからざるに至る而も尚交戦を継続せむか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延べて人類の文明をも破却すべし斯の如くむは億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕か帝國政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり

朕は帝國と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得す帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及其の遺族に想う致せは五内為に裂く且つ戦傷を負と災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念なる所なり惟うに今後帝國の受くるべき苦難は固より尋常にあらず難事爾臣民の哀情も朕善く之を知る然れども朕は時運の赴く所堪え難きを堪え忍び難き以て萬世の為に太平を開かんと欲す

朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倍し常に爾臣民と共に在り若し夫れ情の激する所鑑に事端を滋くし或は同胞排掯互いに時局を乱り為に大道を誤り信義を世界に失うか如き朕最も之を戒む宜しく挙国一家子孫相伝え確く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを念と総力を将来の建設に傾け動議を篤くし志操を鞏くし誓う国体の精華を発揚し世界の進運に復しさらむことを期すべし爾臣民其克く朕が意を体せよ

   御名御璽

    昭和二十年八月十四日            各国務大臣副署

 

 

以下関係のある部分を転載する

 

八月二十二日~九月十八日の宿直日誌のうちから

 昭和二十年八月二十二日水曜  晴

民心次第に平静、寮生一時退散せしを以て。(寮務日誌に在り)本日より教官宿直を一人と更めらる。(但しその旨を知らずして上田教授見えるは却って好し)当番夜警数名に招かれ四寮四号室に於いて九時半まで歓談。去る十四日夜、最後の空襲警報によりて全寮退避線と。桑艙の変入感慨転た深し。下后校内を一巡するに、各場概不篤に復したるも、器材随所に散在し野草徒に繁りて、龍南学園の面もム更に無きを奈何せむ。(高森良人教授の日誌)

 

八月三十一日 雨 池田長三郎

雨量多く校内の樹木湿ふ夏草のひどくおい茂るたるを見て今更ながら生徒の手を借りたく思う。山内教授宿直を援助せらる。

  九月十二日(水) 曇後雨   上田英夫

別に書くことないが夜に入ってから校内を巡視して見て黒川教授が例によって勉強して居られるのに驚きかつ敬服した。書くことといえば先ずこんなもの(以上后十時記)

夜十二時少し前に寮務室にありて読書中、すぐ近くの廊下に物音あり、多分夜警ならんと思い居りしところ、今度は二寮三寮間の中庭あたりて何か金属性のものを扱う物音したれば小官廊下に出でて暗闇に対し『誰何』したるに勿論返答はなく物音もせずなりたり、夜警を呼ばんと電鈴の『ボタン』を押し足れど起きてこず小官独りありて少々不気味なりき源氏物語中の「夕顔」の巻きのある箇所などを思いあわされてーーーーー(小使室まで行きたかったが、その不在中に這入られそうで一寸困った)(夜十二時十五分記)


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