五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

六代校長 松浦寅三郎について

2011-09-28 03:39:14 | 五高の歴史



慶応2年8月4日〈1866・9・12〉長崎県士族松浦縮蔵の子として生まれる
東京府尋常中学校第一高等中学校を経て、明治28年(1895)帝国大学法科大学法律学科英法科を卒業明治29年5月愛知県尋常中学時習館校長に就任
明治32年(1899)7月山形県庄内中学校長、山口高等商業学校教授、第五高等教授校長    大正7年、1918 5月神宮皇學館館長  大正8年2月皇太子伝育官長
大正12年、1923  8月初代女子学習院長を兼務 14年、1925 院長
昭和7年1932 8月  20年194511月、宮中顧問官を務める。

栗野事件責任で桜井校長の辞任に伴い、山口高等学校教授より転任してきた。大正2年2月、大正2年の春、習学寮にチブスが発生し寮の悲惨時を起した時、由比教頭と二人の意見が対立したそうでもう少し円滑であったら赤痢事件の波紋は未然に食い止めることが出来たかも知れない。この赤痢事件の責任を取って辞職した。

多くを語らずに意志が疎通し、対座しただけで和親の交渉を感じさせる風格を備え謹直な事にかけては歴代校長中随一であった。椅子に掛けて2時間も3時間の身動き一つしなかった。演説の旨い事も又、氏の特徴の一つであった。
五高を辞めてからは神宮皇學館長、皇子伝育官長、に挙げられ、秩父、高松の宮を教育した。後女子学習院長となって教壇生活の最後を飾った。(五高人物史を参照する)
 

   私立補習学校時習館について•
    明治26年 4月 豊橋市の有志、三浦碧水、杉田権次郎、児嶋徳、遊佐発らが相謀って私立補習学校を同町大字西八町に設立、旧藩校の名称をかりて時習館と称した。
明治28年 5月 県の認可を得て豊橋町立となり、豊橋尋常中学時習館と称した。 石川一が校長に任ぜられた。
12月 校旗を制定した。
明治29年 5月 校長石川一休職となり、松浦寅三郎が校長に任ぜられた。
9月 豊橋町大字新の新校舎に移転した。
明治32年 7月 校長松浦寅三郎が山形県庄内中学校長に転出、本校教諭大野木克豊が校長に任ぜられた



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