明治20年に規定された修業年限は予科三年、本科二年、計五年の年限であり翌年(明治21年)よりその下に更に補充科二年を加えて七年となり中学卒業は、予科三級に入学させる規定であった。而して帽子の徴章は今と同じく柏と檄覧の葉を交互に出し、中央円型に五高の字を表わし、本科は白線三条、予科は二条、補充科は一条であった。その後度々学制改革があって、補充科は廃せられ、終には予科・本科を合わせて現在の通り三年制度になった。
今之を表示すれば下記の通り、
七年 六年 五年 四年 三年 二年 一年
一級 二級 一級 二級 三級 一級 二級
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本 科二年 予 科 三年 補 充 科二年
創立当初の明治20年には予科三級のみの募集であったから。順調に進んだ人は、それより五年後の明治25年7月、第1回の卒業生となって出ているが、翌21年度に補充科二級に入学した人は、七年目の明治28年に第4回卒業となったわけである。尚、これは少し後の話になるが補充科二級から入学した中で道草を取り途中念の入り過ぎた人には、八年以上も竜南生活を送ったということを、一種の誇りとした豪傑もあったそうな・・。
明治21年第五高等中学校一覧第6章入学在学退学規定
第二条 入学を許すべき者の年齢は予科第3級に於ては満14年以上とし同第2級に於ては満15年以上とす其他之に準す
第三条 本科第一学年級に入学せんと欲する者には尋常中学校第五年級以下予科第 3級に入学せんと欲する者には尋常中学校第2級以下の学科及び其の程度に依り学力試業に及核検査を受けしむ
第四条 本科第2年級若くは予科第2級以上に入学せんと欲する者あるときは先ず本科第1級若しくは予科第3急に入るべき学力試業及体格検査を経尋て其の入らんと欲する級に合格すべき諸課目の試業を受けしむ
自分が五高に入ったのは明治二十年十月創立の際であった。当時は旧城内の西端古城の家屋を借用して授業を開始されたその頃は予科三年本科二年其の後補充科が設けられてこれが二年通算七年で、中学校卒業者は予科三級に入学するのが掟であった。帽子の徽章は柏と橄欖の葉を交互に出し中央円型に高の字を表し、本科は白線三条予科二条補充は一条であったと思う。其の後度々学制の改正があって補充科を廃し予科本科を合して三年となり帽子も白線も二条となった。
(参考 友枝高彦「龍南懐古拾遺」 武藤虎太「ありし日の思い出」から)
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