カゴにポイポイと商品を入れながら、
レジに並ぶ前にフッと財布を取り出して中を覗いたら。
入っているはずの千円札は入っていなくて、
その中味は800円ちょっとだった。
(今日は思わず散財してしまったものね)
明日の分まで買って帰ろうとカゴに入れてしまった品物の幾つかを棚に戻して、
そして今夜外せないビーフンに400円近く出費した。
買い物袋をぶら下げながら家に戻ると、
ポストに入っていた一枚の葉書。
それは高校時代の恩師のご家族から寄せられたもので、
そこには先生が昨年2月に亡くなられたことが記されていた。
その恩師は高校の放送部の顧問で、そして物理の先生でもあった。
私は入学して間もなく友人と共にカナタイプ部に入部した。
すると、それからすぐに職員室でその先生に呼び止められた。
1年生の時には教科でお世話になることもなく、
また学年にも関係のない先生だったので何故声を掛けられたか訝しげに思っていると。
どうやら存続が危ぶまれていた放送部(当時放送委員会)を再興しようと、
中学時代の経験者を勧誘していたらしい。
「お前、放送やらないか。」
と先生が発した、それが最初の言葉だった。
私は既に部活動を始めていたため、そう言って断ったが。
掛け持ちでもいいから、という言葉に乗せられ中学の部活仲間も誘って入部した。
それから3年間。
最初に決めたカナタイプ部には適性を見出せず、
やはり経験してきた放送の道が私には楽しくて仕方なく。
部活の比重は放送の方に大きく傾き毎日、放送室通いをしていた。
1年生の1学期も終わろうかという時、
体育の時間に怪我をして手術することになり。
ギブスをはめて松葉杖で一週間後に退院すると、
ちょうど学校は期末テストが始まる時期だった。
テストでもなければ、そのまま休むところだったかもしれないが。
なんとか学校に通ってこれないか、ということになったとき。
その恩師が「オレが迎えに行ってやる」と言ってくださり、
学期が終わるまで毎朝私を迎えに寄ってくださった。
それが恩師への最大の思い出なのだけれど、
それともう一つ。
3年間の高校生活で一度だけ。
よりによって顧問の教科、物理で赤点を取ったことも思い出す。
確か26点だったか。
すると先生は呆れたように、
「部活の顧問の教科で赤点を取る奴があるか!」
と相当ご立腹の様子だったが。
その後、弱点克服の手伝いをしてくれたような記憶がある。
といっても結局、及第点ギリギリまで持っていくくらいのことしかできず。
物理が得意教科になることもなく高校を卒業した。
卒業してから17年あまりも賀状だけとはいえ、
いつも何かひと言を添えて送り続けてくれた恩師の筆跡を見ることのなかった今年。
先生、具合でも悪いのかななどと母と話していたら。
もう亡くなって1年近くになるなんて。
ショックというか、まだまだ信じられない気持ちで。
なんともいえない複雑な感じがあるだけで。
先生は、ずっと厳しくて温かい私の恩師であることには変わりがなくて。
もしかしたら向こうでも教鞭とってるのかな、なんて。
思ってみたり。
赤点取った物理の分野には、
もう2度と関わることがないと信じて疑わなかったけど。
先生、
私「乙4類危険物試験」目指して物理学を学びなおすことにしました。
そんなこと心の中で呟いたら、
「お前なあ」という先生の声が聞こえた気がした。
まだ全然、信じられないや。
先生に乙4のこと報告したかったな、とても残念。
先生のご冥福、心よりお祈りしています。
そして、いつまでも見守っていてください。お願いします。 合掌。
レジに並ぶ前にフッと財布を取り出して中を覗いたら。
入っているはずの千円札は入っていなくて、
その中味は800円ちょっとだった。
(今日は思わず散財してしまったものね)
明日の分まで買って帰ろうとカゴに入れてしまった品物の幾つかを棚に戻して、
そして今夜外せないビーフンに400円近く出費した。
買い物袋をぶら下げながら家に戻ると、
ポストに入っていた一枚の葉書。
それは高校時代の恩師のご家族から寄せられたもので、
そこには先生が昨年2月に亡くなられたことが記されていた。
その恩師は高校の放送部の顧問で、そして物理の先生でもあった。
私は入学して間もなく友人と共にカナタイプ部に入部した。
すると、それからすぐに職員室でその先生に呼び止められた。
1年生の時には教科でお世話になることもなく、
また学年にも関係のない先生だったので何故声を掛けられたか訝しげに思っていると。
どうやら存続が危ぶまれていた放送部(当時放送委員会)を再興しようと、
中学時代の経験者を勧誘していたらしい。
「お前、放送やらないか。」
と先生が発した、それが最初の言葉だった。
私は既に部活動を始めていたため、そう言って断ったが。
掛け持ちでもいいから、という言葉に乗せられ中学の部活仲間も誘って入部した。
それから3年間。
最初に決めたカナタイプ部には適性を見出せず、
やはり経験してきた放送の道が私には楽しくて仕方なく。
部活の比重は放送の方に大きく傾き毎日、放送室通いをしていた。
1年生の1学期も終わろうかという時、
体育の時間に怪我をして手術することになり。
ギブスをはめて松葉杖で一週間後に退院すると、
ちょうど学校は期末テストが始まる時期だった。
テストでもなければ、そのまま休むところだったかもしれないが。
なんとか学校に通ってこれないか、ということになったとき。
その恩師が「オレが迎えに行ってやる」と言ってくださり、
学期が終わるまで毎朝私を迎えに寄ってくださった。
それが恩師への最大の思い出なのだけれど、
それともう一つ。
3年間の高校生活で一度だけ。
よりによって顧問の教科、物理で赤点を取ったことも思い出す。
確か26点だったか。
すると先生は呆れたように、
「部活の顧問の教科で赤点を取る奴があるか!」
と相当ご立腹の様子だったが。
その後、弱点克服の手伝いをしてくれたような記憶がある。
といっても結局、及第点ギリギリまで持っていくくらいのことしかできず。
物理が得意教科になることもなく高校を卒業した。
卒業してから17年あまりも賀状だけとはいえ、
いつも何かひと言を添えて送り続けてくれた恩師の筆跡を見ることのなかった今年。
先生、具合でも悪いのかななどと母と話していたら。
もう亡くなって1年近くになるなんて。
ショックというか、まだまだ信じられない気持ちで。
なんともいえない複雑な感じがあるだけで。
先生は、ずっと厳しくて温かい私の恩師であることには変わりがなくて。
もしかしたら向こうでも教鞭とってるのかな、なんて。
思ってみたり。
赤点取った物理の分野には、
もう2度と関わることがないと信じて疑わなかったけど。
先生、
私「乙4類危険物試験」目指して物理学を学びなおすことにしました。
そんなこと心の中で呟いたら、
「お前なあ」という先生の声が聞こえた気がした。
まだ全然、信じられないや。
先生に乙4のこと報告したかったな、とても残念。
先生のご冥福、心よりお祈りしています。
そして、いつまでも見守っていてください。お願いします。 合掌。