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弁護士・猿田佐世  韓国のデモ、なぜ日本より圧倒的に若い世代が多かったのか 「戒厳令を止める一人に」自然体の抵抗に共感

2024年12月08日 | 戦争と平和

AERAdot 2024/12/08

 韓国の国会が揺れている。突然、非常戒厳令が宣布されたが、一夜にして解除。これを受けて尹錫悦大統領の弾劾訴追案が提出された。7日夜に不成立になったものの、すでに再提出に向けた動きが出ている。戒厳令が宣布された日、偶然にも、シンクタンク「新外交イニシアティブ(ND)」代表で、弁護士(日本・ニューヨーク州)の猿田佐世さんはソウルに滞在中だった。韓国で経験した一部始終を寄稿した。(前後編の今回は後編)

前編【韓国人でなくとも怒りが湧いてきた 戒厳令の夜、私がソウル国会前を離れなかった理由】

*  *  *

中の闘い 「議員をブロックせよ」「議員を入れさせよ」二つの声

 戒厳令が宣布された3日は、ソウルで行われた日米韓中の研究者の国際会議に参加し、1日目の日程を終えた後だった。その会議の韓国側の受け入れ団体の代表は国会議員だった。半日後に彼に話を聞くことができた。

 その日、彼は、仕事を終えて帰宅したが、自宅で車を降りたところで、補佐官の電話を受け戒厳令が出たことを知る。直ちに国会に急行するが正門は警察が封鎖しており国会敷地内に入れない。「中に入れろ」と求め、数10分間もがき続けた後、誰かが「国会図書館(国会議事堂に向かって右横)側から入れる」とささやいたため、移動して国会に入ることができた。

 ヘリ24機で軍の特殊部隊230人が運ばれ、さらに50人が塀を超えて国会敷地内に乗りこむ。国会議事堂の中では、補佐官たちがソファーを積んでバリケードを作っており、国会議員たちはその内側にいた。ネットでは、軍から銃を向けられた若い女性の野党職員がその銃を素手でつかみ、「恥ずかしくないのか」と兵士に叫んでいる映像が瞬く間に世界中に拡散した。「向こうは銃、こちらはソファーのバリケード。本当に怖かった」とその議員は振り返る。

 戒厳令解除決議に賛成する議員の数を確保しようと、国会議員たちは連絡を取り合い、情報を交換し続けた。情報統制で携帯電話が使えなくなることを恐れていた。

しかし、幸いなことにそれは起きなかった。

 代わりに、家族や友人たちから次々とメッセージや写真が届いた。議員たちは、議員らの行動を支えるために、国会の外にたくさんの人々が集まり、体を張って軍や警察を国会の敷地に入れないようバリケードを作り、命がけで闘っていることを知る。

 外の民衆の声に支えられて、議員たちも粘り、様々な働きかけを行った末、午前1時、遂に議員たちは、与党も含めて集まった190人の議員の満場一致で戒厳令の解除を決議した。その男性の議員は、思わず感極まって泣きそうになった、と話してくれた。

「これは国会の中と外が連帯して勝ち取った歴史的勝利だ」と彼は語る。国会の外の人々の頑張りがなければ、議員たちは持ちこたえることができなかっただろうと。

 彼からは他にも幾つもの貴重な話を聞くことができた。

 国会図書館の側に彼が移動した時、そこでも警察が封鎖体制を敷いていたが、その議員の耳に、警察の一群から二つの違った声が聞こえてきたというのである。片方からは「議員をブロックせよ」と、そして、もう片方からは「議員を入らせろ」と。

 また、国会議事堂内で軍を迎えたのは「ソファーを重ねたバリケード」に過ぎなかった。にもかかわらず、兵士たちはそこを突破することを躊躇しているようにも見えた。また、議員たちの身柄を拘束するか否かも悩んでいるようにも見えたとのことであった。

 集まった人々に頭を下げて謝った兵士の映像もネットで拡散されている。「彼らは、自分たちがやらされていることが正しいことではないとわかっていたのではないか」と、その議員は振り返った。

 彼は続けた。韓国の人々は、軍事政権を倒し民主主義を勝ち取ったこと、またたった8年前にも朴槿恵大統領をキャンドル・デモで弾劾に追い込んだことを記憶している。民主化を経験していない若い世代も、親から聞き、学校でも学んでいるし、小さい頃から政治参加の経験を積んでいる。

「朴槿恵弾劾の時は自分は小さな子供で、親に連れられてデモに行っただけだったけど、今はこうして自分から参加できます」と話す若者たちがたくさん選挙活動にも参加してくれた、と彼は嬉しそうに話してくれた。

自然体の抵抗 気がつけば午前3時だった

 私の宿泊先ホテルは国会の真ん前。国会前の集会には会議参加者の日本人4人といた。

 解除決議が通ると、国会の外では、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。まだ、決議を突きつけられた大統領は戒厳令を解除してはいなかったが、もう軍も無茶はできまい、そんな安堵と私は理解した。しかし、その後も人々が帰ることはなく、今度は「大統領弾劾」を求めて彼らは声を上げ続けた。

 もしかすると、これを読む方々の中には、軍が投入された危険な場所にいるなんて無責任だ、と考える方もいるかもしれない。

 私も、軍から暴力的行為を受けるかもしれない、デモが暴徒化するかもしれないと、緊張し続けた。雪がちらつくほど冷え込む中で深夜11時頃からずっと立っていたが、寒さも疲れも感じないほど張り詰めており、気づけば午前3時だった。

 しかし、それでもその場を離れなかったのは、ひとえに、そこに集まった人々が実に自然体で、平和裏に声を上げていたからであり、また、私もその姿に共感したからである。深夜にもかかわらず集まった4000人とも5000人ともいわれる人々は、戒厳令が出たと知り「止めるその一人にならなければ」と駆け付けた数多くの個人の集まりだった。

 日本のデモに比べると圧倒的に参加者の年齢が低く、カップルや友達同士で来ている若い世代も多かった。大学生から60才前後くらいまでの男女が偏りなく参加していた。一人で参加する車椅子の人も何人も目にした。彼らも警察車両の前に自分の車椅子を止め、車両の進行を阻止していた。

 みなが落ち着きを失わずに声を上げていた。一人だけ少し興奮した様子の若者を見かけたが、すぐに中年の男性が声をかけ、なだめながら彼をデモの外に連れ出していた。SNSのビデオ通話でその場にいない家族や友人とつないで状況を伝えている若者たちもいた。

 いつ何時、軍が踏み込んでくるかもしれない、という緊張はあったが、そんな自然体の彼らとその場にいることには何らの躊躇も感じなかった。そればかりか、彼らに共感し、その場にともに留まりたい思いに駆られたのである。

さいごに

 民主主義を勝ち取ってきた人々の、実に自然体の抵抗であった。人々の手で、民主主義や人権が守られたのである。

 日本では、既に今回の出来事を受け、日韓関係を「改善」した尹氏が退陣し「反日」の大統領に代わるのでは、などと尹氏の退陣やそれに伴う韓国の政権交代を見据えた否定的な声も出てきている。しかし、隣の韓国が軍隊で民意を屈服させる国になれば日本への影響は計り知れない。

 日本はかつて朝鮮半島を植民地化したが、その後、敗戦。その空白に米軍とソ連軍が進駐し朝鮮は南北に分断され、韓国でも軍事政権が続いた。今日まで韓国は、日本の占領や続く軍事政権などに抵抗し続けてきたのである。自らの手で民主主義を守る韓国の人々に心からの敬意を表しつつ、闘わねばならない状況を作り出した責任の一端が日本にあることにも思いを至らせなければならない。

 今日も韓国では、多くの人が街に出て声を上げている。
12月7日、弾劾を求めて15万人が国会前に集まった

〉〉前編【韓国人でなくとも怒りが湧いてきた 戒厳令の夜、私がソウル国会前を離れなかった理由】

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尹大統領解任求めゼネスト

韓国 7万人「民主主義守れ」

「しんぶん赤旗」2024年12月8日

 韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領による突然の「非常戒厳」宣言に対し、民主主義を守るための国民の運動が広がる中、労働組合も闘いを強めています。

 5、6の両日、製造業の労働者らによるゼネストが取り組まれ少なくとも7万人が参加しました。全国金属労組が呼び掛けました。

 同労組が加盟する国際的な製造業労組「インダストリオール」によると、現代自動車や傘下の部品メーカー、韓国GMなどの労働者がシフトあたり2時間のストを実施しました。

 金属労組は、尹氏による「非常戒厳」宣言は、民主主義が一瞬で消され得ることを印象付けたと強調。戒厳下に戻れば労働者が失うものは大きいとして、尹氏を解任し危機を終わらせることが必要だと主張しています。

 金属労組が加盟する中央組織の全国民主労働組合総連盟(民主労総)は4日、尹氏が辞任するまで無期限のゼネストを続けると宣言しており、ストの規模がさらに広がる可能性もあります。


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