週末に山蕗を採りに某山へ。途中、通常のルートではつまらないので、妻女山から林道を長坂峠まで歩き、古道を下って土口へ下りました。最上部の写真は、所持している昭和22年にGHQが撮影した掛軸で、今回下った谷が写っています。右下の絵図は、江戸後期の榎田良長彩色『信州妻女山川中島合戦謙信陣捕之圖 』ですが、今回下った谷が描かれています。
現在の長坂峠は、古道の越えていた東風越(こちごし・こちごえ)より30mほど西です。古道は、東風越から最初急斜面をつづら折りで下り、直ぐに緩やかな広い谷に出ます。谷は広がりながら緩やかに右へ曲がり、土口集落の最上部へと出ます。山藤の太いつるがあちらこちらで大木を締め付けていました。初夏には藤紫の花が咲き誇るでしょう。
昭和30年代までは養蚕が盛んで、谷の上部から下部までほとんどが桑畑でした。子供の頃に下った記憶がかすかにあります。養蚕が衰退すると谷は次第に荒れ果ててゆき、現在のような姿になってしまいました。夏は酷い藪になってしまうので、歩くなら冬枯れの季節しかありません。
今回久しぶりに歩いてみて、想像以上に荒れ放題で驚きました。桑畑だった頃の風景は思い出しようもないのですが、土留めの石垣や枯れた小川に昔日の面影がわずかに見られ、逆に過ぎ去った年月の長さを感じました。第四次川中島合戦の上杉謙信斎場山布陣の折には、この谷にも軍勢がいたという言い伝えもあり、ここも千人窪であるという人もいます。
谷の上部の東風越は、戸倉から宮坂峠を越えて松代へ抜ける際に、千曲川の氾濫などで笹崎が通れないときに使われた、土口から清野へ抜ける斎場越(長坂、清野坂)と呼ばれた街道の一部でした。道は、土口の古大穴神社から薬師山(笹崎山)に乗り、長坂を登って御陵願平から斎場山の横を通り、東風越から赤坂山(現妻女山)に下り、勘太郎橋から松代城下へ入るというものです。
谷を下りてからは、向かいにある蟹沢(がんざわ)を堂平へ登り、天城山経由で戻りました。堂平は、堂平大塚古墳をはじめ、積み石塚古墳群もあります。斎場山の南側の麓には北山古墳群があり、薬師山の先には笹崎山古墳群がありました。ほぼ過去形なのは、江戸時代の戌の満水の後で瀬直しのために笹崎の先端が大きく削られ河川工事に使われてしまい、そこにあったとされる横穴(古代の住居とも古墳ともいわれた)が消滅してしまったからです。
川中島合戦の際には、謙信軍が斎場山一帯に布陣し、武田別働隊が斎場山背後の天城山から襲撃したという伝説のある山塊です。古代に想いをはせるか、戦国時代に想いをはせるか。人様々でしょうが、「兵共が夢の後」であるには違いありません。底知れぬ寂寥の虚しさを感じる谷でもありました。
★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
■『川中島謙信陣捕之圖 一鋪 寫本』 榎田良長 彩色
榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖』と『川中島信玄陳捕ノ圖』があります。
出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!