江戸時代後期の軍記物語『甲越信戦録』等の記述や地元の伝承による上杉軍の陣取りを図にしてみました。この時、千曲川対岸には、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで武田軍が対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていました。
「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平(物見場)まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮坐日吉神社に布陣)」とあります。本陣西脇の御陵願平(龍眼平)や斎場山から陣馬平への平地は、上杉謙信の本隊が固めたといわれます。
本陣というものは、全軍の動静を一望にできる場所に設営するというのが常道です。陣馬平では、前の斎場山が邪魔になって斎場原(岩野)や茶臼山、千曲川対岸が見えず、赤坂山(妻女山)では、やはり斎場山が邪魔になって笹崎(薬師山)や、低すぎて後背の陣馬平が見えません。やはり斎場山古墳上が、最も本陣に相応しい場所といえるのではないでしょうか。
雨宮の渡には、唯一橋があったという説もあります。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もあります。私は毎日この橋を渡って高校へ通いました。昔は風情ある木の橋でしたが、今はコンクリートです。たもとには由緒と、「誤って「うさぎ橋」という」と書かれています。
また、松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚においては、赤坂(妻女山)の上に甘粕近江守、伊勢宮の上(薬師山)に柿崎和泉守、月夜平(天城山北東)に謙信の従臣、千ケ窪の上の方(陣場平)に柴田道寿軒、笹崎の上、薬師の宮(薬師山から御陵願平)に謙信本陣とあります。
なぜ謙信は、信玄の懐に飛び込むような位置にある斎場山に布陣したのでしょうか。謀略を重ねて勝ち上がった信玄に比べると、謙信は戦に強く正攻法での勝負に長けていたようです。すると斎場山を選んだのは、アメリカの喉元にナイフを突きつけたような旧ソ連によるキューバ危機のように、海津城の喉元に入り込むことこそ、謙信の信玄討伐の並々ならぬ決意を表すものなのではないでしょうか。
それと共に、斎場山山塊が布陣するに最適な地形と条件を備えていることを知っていたと思えるのです。
●斎場山脈は、後背は天城山への尾根一本のみ。左右は赤坂(妻女山)から笹崎(薬師山)と長く、月夜平、千ケ窪の上など支尾根も多く谷も多数。また、陣場平、御陵願平など尾根上に平坦部が多く、大軍を置きやすい。槍尻の泉、蟹沢など水場も充分にあります。麓の斎場原は千曲川に囲まれています。つまり斎場山脈自体が天然の要害というわけです。川中島には、ほかにこのような山はありません。
●信玄が甲州から地蔵峠を越えて海津城に入ると予想したから。(斎場山からは海津城が眼下に手に取るように見えます。)
●信玄が千曲川対岸に布陣した場合、斎場山脈に布陣すると相手には相当の威圧感が与えられます。また、退路を断たれたとしても、踵を返して甲州を攻めればいいと思ったのかも。有る意味、神経戦に持ち込んだのかもしれません。
ところが、和田峠越えから上田原に出た信玄は、腰越で高坂弾正の使者に謙信が斎場山に布陣するのを聞き、千曲川右岸の谷街道を通って海津城へは行けないことを知ります。上田から真田、地蔵峠を越えて海津城へ向かうことを進言された信玄ですが、あえて左岸を進み、小牧山、室賀峠、山田、若宮、猿馬場の東方を経て有旅茶臼山に布陣します。(これらは全て現存する地名です。)
そして、隊を調えてから川中島に進軍し、雨宮に真田(雨宮坐日吉神社に村上義清とあるので雨宮対岸か)、戌ケ瀬に飯富、横田に甘利、御幣川に内藤、小森に原、東福寺・水沢に望月、海津城に高坂と、斎場山山脈(現在の薬師山から斎場山、妻女山)を囲むように千曲川対岸にずらりと布陣、謙信の退路を断ったといわれています。
しかし、全く動じない謙信に、信玄は全軍を海津城下に入れてしまいます。目の前の敵がいなくなったのですから、当然謙信は陣形を変えたと思われます。斎場山脈に布陣の形態を、陣場平を本陣として天城山から赤坂山(妻女山)までの長い尾根に布陣しなおしたのではないでしょうか。こうすると、海津城に対し軍を横並びにすることができます。なおこの布陣の形は、後年上杉景勝と直江兼続が、北条氏を威嚇する時に使ったといわれています。
「斎場山」は、『甲陽軍鑑』に「西條山」と誤記されたために、江戸時代に「妻女山」と改称されることとなりました。『甲陽軍鑑』には、各所に「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してあります。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのです。戦国時代においては、読みが合っていれば漢字の表記の違いは問題とされなかったといいます。しかし、松代藩には「西條山」という名の別の山があったために、一層混乱してしまったのです。
写真上は、上杉謙信の軍勢の布陣を図にしたものです。名前は実在の人物ではないというものなど史実とはいえませんが、現在の妻女山ではなく斎場山脈全体に布陣したということが分かるのではないでしょうか。山の麓には宇佐美隊が布陣したといわれています。下の図は、謙信の斎場山布陣経路図(青線)と、信玄別働隊の斎場山襲撃経路図(黄線)です。伝説では、狭い尾根づたいに全軍が行ったわけではなく、谷に下りる者などもいて隊を分けたとされています。倉科の二本松峠へ登る途中には、「兵馬」という場所があり、そこは武田別働隊が集まり隊を調えて襲撃のために潜んだという伝説が残っています。また、清野小学校の南奥の谷は千ケ窪といい、上杉軍の兵千人が隠れたという伝説があります。
別働隊には地元の清野氏もいたわけですから、軍道はもちろん、何本もある山道の全てを把握していたにちがいありません。戸神山脈を使った大規模なゲリラ戦だったのかもしれません。足に自信のある方は、鏡台山から妻女山まで歩いてみることをお勧めします。江戸時代の人々の川中島合戦への熱き想いが感じられ、史実はどうだったのだろうと、想像が膨らむことと思います。
謙信の弥彦神社への願文には、信玄の悪行を並べ立て、「神や仏の力で信州、甲州を一軒残らず焼き払い、甲府を占領したい。」とあります。信玄への憎悪は相当なものだったのでしょう。しかし、そのために苦汁をなめたのは、結局農民達でした。口伝に「七度の飢饉よりも一度の戦」とあるように、その凄惨さは目を覆うばかりのものであったに違いありません。
★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
★武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。