病人生活が長く続いています。毎日を生き急ぐのに忙しく、じっくり自分と話すことはなかったのですが、ここにいたって、ようやく自分の状況がわかってきています。
わたしはどうやら、仮の主座に全面的に自分を預けて、奥の主座でずっとそれを観測しているという状況らしいです。
これは、わたしの魂を守るための、ひとつの方法であるらしい。やっていること、ことば、絵など、今やっていることすべてが、本来の私と、かなり違っている。とくに絵が、おもしろいほど、目に見えて違います。さてさて。
普通なら、こういう状況は、自分として苦しいと感じることが多いもの。やっていること、できる作品が、かなり自分らしくない。それはけっこうつらい。わたしはもっと、やさしいはずだ。こんなふうに、きつくないはずだ。それがいらだちになり、生きることが苦しくなることもある。
しかし、こういう状況を見て、味わって、何かをやってみよう、と考えることは、実にわたしらしい。馬鹿みたいですが、わたしはどういう危機的状況も、こんな感じで乗り越えてきた。(ここで注釈しますが、危機的状況、と書くのは実にわたしらしくない。わたしなら、困難なこと、というだろう。)
尋常ではない状況も、おもしろがってみる。そこから学べることを探ってみる。それをやってみよう、ということで、そこをしのぐ。これは実にわたしらしい。
それで、今撮っている写真や、絵を見て、どんなふうに、違和感があるかとか、どこが痛いかとか、そういうのを、書いてみようかと思います。
今日の写真はそれぞれ、仮の主座、で撮った写真です。似たような虫の写真ですけど、なんだか全然違う、という感じもするでしょう。近所の空き地で撮ったツバメシジミ。よく撮るんですけど、昔の写真と比べてみると、ずいぶんと、強い感じがする。わたしはもっと、やさしくて、あまくて、子供っぽい感じがします。でもこれは、きつい。美しいけれど、痛い。まるで冷たい熱線をひめているように、チョウチョが光っている。
これも実にきれいです。ツバメシジミの裏側の模様が、ほんとうに、まっしろだ。でも、真っ白じゃない。清らかなほど真っ白なのに、真っ白じゃない何かが見える。これはすごい。わかるかな。
わたしだったら、白いけれど、中に見える白くないものが、ずっと小さい。という感じに写る。わたしが弱くて、小さいので、チョウチョが、秘めている白くないものを、決してわたしには見せようとしないからです。
こんな写真、とてもわたしには撮れない。仮の主座の仕事です。おもしろいな。
わたしは今、自分の自己統制力を少し甘くして、自分の奥に座り、他者的な影響に対する防衛をかなり弱めている、という状況のようです。それで、自分らしくないことはしない、という立派な防壁に、かなり大きな門戸を作っている。そこから入ってくる人に、かなりな権利を渡している。そんな感じです。もちろん、権利を渡す人は、選びますが。
こういう風変わりな状況を、自分というもののすばらしい可能性を見る、ということに変換して、楽しんでみる。異変を、苦しがらずに、おもしろがる。そして自分の新しい力として加える。そういう風にもっていけるのは、わたしだ。
こんなふうにして、この状況の、乗り越えてみよう、という試みです。わたしらしくない状況にも、絶対にわたしらしいということをやってみながら、工夫をしながら、乗り越える。おもしろがる。
これは、相当に苦しいかな。でもできるだろう、で、やってみるのが、わたしだ。
おもしろいですね。