世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

すごいびじん

2008-09-27 13:18:41 | 有為のしらべ

最近、びじんびじんということばが、ブログをとびかっているので、わたしが最近見つけた、とびきりのびじんをUPしてみました。

すっごいびじんでしょう。三毛の美人は相当に珍しいですよ。子供を学校に送っていた時に出会って、いっぺんでハートを直撃されてしまい、カメラ小僧になって追いかけてしまいました。

すっごいきれい。写真撮らせて!ていうと、猫は戸惑いがちに立ち止まって、ポーズをとってくれましたよ。かわいいな。

猫ってね、自分がかわいいってこと、知ってるんですよ。それでね、ちゃんと、びじんをやってくれるんです。びじんはね、ある程度プライド高くなくちゃいけないの。ちゃんと、きれいにしてなくちゃいけないの。そして、やさしく甘えたり、いいこねって人間にいったりしなくちゃいけないの。それでね、あんまり人間がずうずうしく甘えてきたら、やめなさいっていって、逃げたり、きつい猫パンチをお見舞いするんです。なかなかに大変なのよ。

きれいなものはね、みんな好きだから。いやだっていって、逃げたりするのも、あんまりやっちゃいけないの。写真撮らせてっていう子が、いい子だったら、ちゃんときれいなポーズとってあげないとね。きれいな子に逃げられると、つらいから、時々は、いいわよって言ってあげないとね。

人間のびじんに比べると、猫のびじんのほうが、ずっと大人ですよ。心のやわらかいところにそっときてくれて、いいよっていってくれる。なにげなくずっとそばにいてくれる。それでね、もういいなってことになったら、なにもいわずにいなくなる。なにももとめない。にんげんのこころの、さみしい、ていう痛みを聞いたら、いつの間にかそばにいる。

きれいなものが、そばにいる。それだけで、人間は、安心するのです。ほんとに、そう思うでしょ。

人間の美人は、びじんでいろんなことをしようとするから、痛いものがあって、なかなかに近寄れないのですけど。

でも、ほんとうに、こころやさしいびじんは、びじんがどういうものか、知っていますから、ちゃんと、びじんをやってくれますよ。

きれいなひとはね、あいしてるよっていうかみさまのことばを、いちばん美しいかたちで、やらなくてはいけないんです。そのために、いろんなことを、やらなくてはいけないの。べんきょうもしなくてはね。

でもいまは、そんなにんげんのびじんは、とんといなくなりましたね。

うつくしいひとがいないと、女の人も、みんな困るんです。女性が美しかったら、どんなに美しいかってことを、みんなに教えてくれるから。でもふつうの女の人は、やたらと美しくしないものなの。おさえめにして、いいことをいっぱいして、いい人になって、だんだんかわいくなってくる。そういうのがいい。それでね、ほんとうはみんな、あれくらいきれいなんだよっていう女の人がいたら、助かるんですよ。

美しすぎたら、みんな苦しいから、たいていのやさしい人は、少しひかえめに生まれてきます。それでね、ときどき、ほんとに美しい人をみたら、女性はあんなに美しいんだなって、言いましょう。みんなほんとは、あんなにきれいになれるんだよ。でもね、みんながきれいだったら、つらいから、たいていは、ひかえめで、生まれます。それでね、みんなで、かわいくなろうねって、いいことしていくんだよ。

びじんになりたいのは、みんなです。けれどね、勉強しないと、びっくりするくらい、大変なことになるんです。ですから、ほんとにきれいになりたいんだったら、まず、自分だけじゃなくて、みんなかわいいねって、言おうね。みんないいねって、言おうね。そして、いいことたくさんしていきましょう。

ほんとはこんなこと、みんな知ってるんですけど。なんだか言わなくちゃいけないような気がして、書いてみました。

みんなね、きれいな人にはね、ほんとにきれいなままでいてほしいの。ずっときれいでいてほしいの。なぜって、きれいな人がきれいでないと、とても苦しいから。それでね、ほんとのびじんは、ずっときれいでいるために、ずっと勉強しなくちゃいけないんです。大変なんですよ。

美しい人がいる。それだけで、人はほっとするのよ。なぜかって? それはね、愛だからなんですよ。愛してるからなんですよ。

愛を裏切らないために、ずっときれいでいることができる。それが、ほんとの美人なのですよ。彼女は、愛してくれる人の愛を裏切らないために、ずっと、きれいでいるのよ。


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エゴの解像

2008-09-24 18:12:17 | 有為のしらべ


昨日、子供を連れて少し遠くへドライブしました。実り始めた田んぼのふちに、真っ赤なマンジュシャゲがもう咲いていました。車をとめられる空地を探し、写真をたくさん撮ってきました。

秋が深まり始めている。とはいえ、南国の日差しはまだ色濃く夏を残しています。南の暑い日差しを浴びているマンジュシャゲは、まるで鮮やかな血を散らしているようにきれいでした。なんだか、とてつもなく、怒ってるみたいだ。

前回の記事にも書いたように、今日は頭の中を、思考の嵐が吹き荒れています。それがどうにも苦しく、いつもは吐かない苦い怒りをわたしも吐き出しています。このマンジュシャゲの花と同じように、わたしの中に、猛烈に怒っているものがいる。そういうものが自分の中で荒れているのがとても心地悪く、記事に書いて発散しよう、というところです。

マンジュシャゲの美しい花を見ながら、お楽しみくださいね。



ビーストの記事を読みながら、エゴとは何だろうということを、ひさしぶりに深く考えてみました。確か以前に、エゴとはほんとうの自分ではないということを考えて書いたことがあるのですが、まだ核心のとこがよわく、不満が残っていたのです。

今回たどりついたのは、やはり、エゴは自分ではない、ということでした。エゴは、まだ幼い弱い魂が、他者から借りてくる、あるいは与えられている、自分の仮の姿なのではないか。

たとえば、野生のライオンの写真を見るとき。そのライオンの中の自己と話をしようとすると、その自己がとても淡く、まだ小さいことがわかります。自分という感覚はあるのですが、何もできない幼い存在があるということを感じます。しかし、ライオンは強く、激しく美しい。それは、神の創造だからです。神が、ライオンのまだ淡い魂に、美しい自己の衣を着せ、仮の自分を与えている、という感じがします。

ライオンは、自分は美しく、強いと感じています。それは、神が、与えている、自分を、着ているからです。ライオン自身はまだ弱く、淡い自己の萌芽です。まだ幼く、外界に向かって、出ていくか、ひっこむか、ということしかできないように感じます。それを、そのまま、裸でこの世界に出せば、いっぺんに壊れてしまうでしょう。ですから、神は、まだ弱い自己の萌芽に、神の「自己」をかぶせて、助けてやるのです。ライオンは、神の自分を、自分だと思い、自分の強さ、美しさを信じて、生きている。誇り高く、自分はすばらしいものだと、思える。それは、幼い魂を導く、神の、当然の愛なのです。

しかし、神の「自己」は、ライオンの、ほんとうの自分ではありませんから、当然のごとく、色々と、まずいことがあります。本当の自分ではないから、そう苦労することなく、自分以外の誰かにやってもらえるので、自分の好き勝手にやってしまうのです。自分が、一番いいと思って、何もかも、一番だということにしたくなるのです。自分の幼さのわりに、自分がすばらしく強く、美しすぎるからです。

ライオンは、自分としての経験がまだ浅すぎるのに、神様のすばらしい美と強さをいただいているものですから、すばらしく、自分だけが一番だという、エゴに黒々と染まってしまうのです。自分はすばらしく美しい。それは当然だ。みんな、自分より馬鹿だ。幼い魂は、だれしも、そう考えてしまいます。

それは一面、そうでなければ、幼いものは、生きていけないからなのですが。しかし、それはあくまでも、仮の「自分」。まだ自分で、自分をやることができない、幼い「自己」のために、神様がくださる、仮の「自己」なのです。

つまり、エゴは、魂の幼いときに特に濃く生じる、自我の、現象のひとつなのです。
幼くて弱いのに、神のように美しく強いものをもっているものですから、本当に、自分のことだけしか考えずに、自分以外のものはみな、殺してしまいます。その弱さと、恐ろしさを、神の愛の衣で、守ってくれている。それが、エゴなのです。

わたしたちはみな弱く、未熟ですから、エゴをすっかり脱ぎ捨てることはできません。しかし、エゴの実相を見抜き、本当の自分に目覚めるとき、エゴのバランスを取りながら、自分として正しく生きることができます。それができるようになって初めて、「自分」として、「おとな」になったということです。

しかし今は、これができない人間が多すぎる。幼いエゴをむき出しにして、生物的自己保存欲のみで生きているのかと思うような人に、最近よく出会う。

今、人間は、近現代の人間疎外の時代を経験し、魂の中で分裂した自己の懊悩を経験し、本当の自分とは何かと目覚め始めている。もはや、子供ではない。そういう自覚をもった、「本当の自分」が、たくさん出てきている。

エゴとは、自分の弱さ小ささを守るために、他から借りてきた仮の自己なのです。それは、本当の自分ではないのですが、幼いうちはそれを本当の自分だと思っています。けれども、真実の自分に目覚めたとき、それが神の愛だとわかったとき、とんでもなく、美しいと、感じるのです。あまりにも、すばらしい。この世界は。自分というものは。

その真実がわかるようになるまで、神が守ってくれていたのだという、その名残が、エゴの残像です。それは、自己存在に、たぶん、永遠に記される、愛の記憶です。

エゴイスティックな自分に、浸りきって生きている人間は、もはや、人間とは言えません。それは、人間以前の存在です。人間はもう、本当の自己に気づいたのですから。

自分の、エゴと、向き合ってみましょう。それはどんなものか、見てみましょう。恐竜のように恐ろしく強いものが、自分だと思っている人は、恐竜から、自分を借りたのです。それを、ずっと、自分にして、生きて、弱い本当の自分を守ってきたのです。そしてそれがわかったら、その鎧を脱ぎ、こんどは本当の自分と向き合ってみましょう。それはどんなものか。すばらしく、美しいと感じれば、もう、始まっています。

新しい自分が。

 

 

 

 


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花の心

2008-08-11 09:20:38 | 有為のしらべ

近所の空き地の、フウセンカズラです。その空き地は駐車場になっているのですが、隅の草むらに、小さな星屑のたまりのように群れています。青い風船のような実もとても愛らしくて、見るだけで涼しくなります。

小さな白い花に目を近付けると、とても清らかな声で何かをささやいてくれているような気がします。

花とお話しをしたいなと思うのですが、今日は、あまりしたいと思いません。何気なくそばにいって、ほっとするようなきらめきをもらってくる。それだけで今はいいような気がする。

お花と話をするのにも、けっこう力がいるのですよ。心を開いて、お花と話をできるフィールドを、つくるのです。そこでは、お花とわたしはほとんど対等の立場になって、いろんな話ができる。花はいろいろなことを教えてくれる。けれども、花と人間はやっぱり違いますから、それが少し疲れることもあるのです。そんなときは、何も話をしないで、花の美しさに甘えても、花は怒ったりしないでしょう。

いろいろなことに疲れはてて、じっとしているとき、麻痺して動かない心の中を、いろいろな感情の影がうごめくのを見ることがあります。ほんとうのわたし自身は、真ん中の少し奥まったところにいて、自分の心に映る、いろいろな影の踊るのをみているのです。そして、自分の疲れている理由がわかったりする。

その影は、ふらふらと泳ぎながら、何もかもを悪いことにしたいと、いろいろな悲しいささやきを繰り返すのです。おまえは悪いやつなんだ、なにもかもいやなことになるよ、なんでもいたいことになるよ。そういうことを繰り返している。そういうものが、自分の心の中にうごめいている。

わたしが疲れているのは、影のささやきがひどいからではなくて、おどろおどろしい影達が、とても悲しんでいること。そして疲れ果てていること。もういやだと思っているのは、わたしではなく、影だということ。だからわたしも、疲れ果ててしまうのだということ。

そういう心の影達は、だれの心にも潜んでいるものですが、それはいつも、人間を馬鹿にして、いやなことをします。それで人間は、とても自分がいやになって、生きるのが苦しくなって、いやなことをする人間になってしまうことが、よくあるのです。けれども、最近では人間も強くなって、この心の影達を、自分の中の本当の自分と、切り離して考えることができるようになった。

これはおかしいぞ。自分の感情だと思っていたけど、ちがうみたいだ。自分をいやだと、自分の中でいうやつは、どうも自分ではないみたいだぞ。

そう、それは自分ではない。人間に嫉妬して、人間をいやなものにしようとしている、心の世界の影なのです。影達は、自分の正体が人間にばれてしまったので、とても悲しんでいるのです。苦しんでいるのです。

正体がばれてしまっても、影達は、人間から離れていくことができません。どうしても、人間をいやなものにしたいのに、できないから、もっとひどいことをしようとして、どうしようもなく、自分たちの仕業だとばれてしまって、もっと悲しくなる。それで際限なくいやなことをしてしまって、もう疲れ果ててしまって、泣きながら、ふらふらと踊っている。

どうしてなんだ。なんでなんだ。どうしてなんだ。いたいよ…

最近、わたしの写真の中の花が、悲しげな顔をしているのは、影達の苦しみがわかるからです。わたしが、花と話をするのに困難を感じるのは、影達が、花から逃げたがっているからです。なぜなら、花は、影たちがどうしてそんなことになったか、みんな知っているからなのです。

すべてのことは、みな、自分たちのやったことの結末なのですが、それがあまりに苦しいのは、あまりに愚かなことだったからです。みんなが、愛してくれていたのに、それをいやだといって、馬鹿にして、逃げた結果だったからです。

愛してると言われたら、ほんとうにうれしいと、素直に答えたらよかったのです。

それだけで、なにもかもはよくなったのに。

べつにいいんだよという顔をして、何もかも馬鹿なことだと、背を向けて行ってしまう影達の向うところが、ほんとうに苦しい荒野だと、花は知っているから。

だから悲しそうな顔をしているのです。


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残暑

2008-08-08 15:13:04 | 有為のしらべ

暑い日が続きますね。いかがおすごしですか。立秋は昨日だったらしいです。ですから、残暑見舞いですね。

体調がすこぶる悪いです。ですから、一日寝てます。町は今、花火大会だの納涼祭りだので騒がしいですが、わたしはひとり、冷房のきいたひきこもり部屋で寝ています。

今日は子供たちの登校日だったのですが、起きることができず、子供たちにまかせて、学校にいってもらいました。母親の恥ですな。帰ってきたとき、子供が着てる服を見てちょっとびっくりしましたよ。でもまあ、わたしとしては、許せる範囲なのでいいでしょう。

ズボンとお兄ちゃんの水泳パンツをまちがえるくらい、普通です。

だいたいみんな、服に力を入れすぎです。いろんな服を着てるけど、要するに服というものは、みっともないものが見えてなければいいのです。というと、たいていの人に怒られるのですけどね。

要するに、見苦しくなければいいのです。というと、いやそれ、見苦しいですよと誰かが突っ込むのですが。

今の世界は、わたしのセンスではとてもついていけません。とんでもなく、かけはなれているので、ひきこもります。

どうやってみんな、服が着れるのかわからないのです。いやもう。Tシャツとズボンくらいは着方がわかるんですが、最近のは、どうやって着るのかわからないのが多くて。どんな風にできてるの?というのを着てる人が多くて。

だいぶ疲れがきてますね。日頃の憤懣がでかかっています。そろそろやめましょう。でもね。

最近、これに関して気がめいることが多かったので、少し言わせてもらいたいなということはあるのです。

服や髪に凝る暇があったら、勉強しなさい。

きれいにしたいのなら、見栄えを磨くより、魂を磨きなさい。

本当にきれいなのはね、自分をきれいにするより、みんなをきれいにしてあげたいっていう、愛なんですよ。

それがわからない人が、いばってきれいにして、わたしはきれいでしょって顔で歩いていると、馬鹿みたいに見えるんです。だって、考えていることは、わたしがいちばんきれいだから、えらいでしょってことで、ほかのひとはみんな、自分よりきれいじゃないのって言ってるから。それはいちばん醜いことだから。

これくらいのことはみんなわかっているのだろうけど、まだやっている。それはまだ、子供でいたいから。子供だったら、難しいことしなくても、かわいいっていってくれるから。

でももう、そろそろ、やめましょうね。

みんなもう、そんなことをすると、みっともないってことが、わかるようになったんですから。







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もういいでしょう

2008-08-06 07:40:32 | 有為のしらべ

先日、朝の散策の折に撮ってきた、オオマツヨイグサです。朝の光に透けて、とてもきれい。

見ていると、気持が明るくなってくるような気がします。厳しいことがあって、痛んでいる心の、麻痺しているところに、大切な滋養を投げてくれるような。それで、すっと気持がよくなってくるような。

苦しい時には、だれかに愛のことばをいってもらうと、少し立ち直ってくるのですが、彼女たちが言ってくれるのは、愛のことばというよりも、もっと大事なことばのような気がします。

愛してるよ、がんばれるよっていう、励ましのことばじゃなくて。遊んでなさい、わたしがかわりにやってあげるからって。そんなことば。もういいよ。あなたは休んでいなさい。そういってくれる。それで、ああ、もうこれ以上やらなくていいんだなって、わかるのです。

がんばったなあ。

もうそろそろ、いいでしょう。

昨日は、子供の体験入学で、隣町の高校に行ってきました。遠いところなので、半日子供につきあって、学校にいなければならなかったのですが、見知らぬ人に囲まれて、知らないところで長い時間を過ごすのには、かなり神経がまいりました。

たいていのことには、がまんできるという態勢を整えることができるのですけど、やはり、相当きつい思いをしましたね。帰ったら、ほんとうに疲れていました。これ以上のことはせずに、休もうと思っても、休めない。レース編みでもなんでも、やろうとしてしまう。神経のどこかが暴走しているかのようです。

子供が学校を見学している間、わたしはカメラをもって、校庭を歩きまわったりして、なんとかしていました。ヒルガオやバッタや、日に透けるクスノキの若葉を撮ってきました。歴史のある高校らしく、立派なクスノキやソテツが、たくさんありました。いいのがあったら、また紹介してみましょう。

今日もまた、ちがう高校の体験入学があるんですよ。でもそれは、近くの学校なので、送り迎えだけで失礼しようと思っています。もうそろそろ、ほんとにいいでしょう。がんばりすぎても、がんばりすぎても、がんばらなきゃいけなかったけど。

わたしは、休んだり、遊んだりすることを、勉強しなくちゃ。

今まで、それだけは勉強していなかったって、気がついたんです。


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愛の響き・14

2008-08-04 09:29:21 | 有為のしらべ


最近、チョウチョの写真がよく撮れるようになってきました。これは、おとなりのおうちの、小さな花壇のキクの葉っぱにとまっていた、ベニシジミ。とろい私の腕を気遣ってか、長いことじっとしてくれていました。なので、じっくりと撮ることができました。

これも愛の響きかな。やさしいものが、近くによってきてくれます。普段はあまりやさしい顔をしてくれないものも、やさしい顔をしてくれます。わたしが、病気だからでしょう。



数日前に、空地にクサギが咲き群れているのを見つけてあったのですが、昨日、車をまわしてその写真を撮りにいったのです。けれど、会いにいってみると、クサギは暑い日差しの中で少々疲れ気味で、あまりいい写真を撮ることはできませんでした。でも、クサギはわたしの訪問をとても喜んでくれたらしく、不思議なことがあったんですよ。

ツマグロヒョウモンのおすが、ひらひらと飛んできて、クサギにとまり、じっととまったまま、動かないでいてくれたのです。さあ、写真撮っていいよっていうように、わたしがカメラをどんなに近づけても、まるで動かないでいてくれたんですよ。ほんとうに。

きっと、クサギが、せっかく来てくれたのに、一番きれいな顔を見せられなくて、すまないと思ったのでしょう。そして、かわりに、チョウチョを呼んでくれたのだと思うのです。うれしかったんですよ、きっと。自分を見にきてくれたのが。だから、ほんとうに、いいことをしてあげたいって、思ってくれたのです。そうしたら、風にのって、チョウチョがやってきた。



愛の響きは、こういうことをしてくれるのです。ほんとうに美しい。

何気ない出来事にも、美しい魂の存在を感じてみると、深い意味が見えてきます。自分が、何かに、深く愛されていると感じる。そこから、いとおしいものが、愛を、ささやいてくれる。そして、幸せに微笑みたくなる。

愛が、いつもわたしを見てくれてるんだな。

それがわかると、どんなことでも、がんばっていけるように思えます。

つらいこと、あるでしょう。そんなときは、つらいとばかり思わないで、道端の、印象的な花に近寄っていき、あいしてるよって言ってみましょう。そして、風の動きや、小さな虫を見つけたことを、大切にして、覚えておきましょう。そんな小さな出来事を、心の中に植えておくと、いつかしら、はっとして、わかるときがくるんですよ。

あ、あのチョウチョは、こんなことをわたしに教えにきてくれたんだなと。

愛の響きが、くれる、何気ない小さな光を、心の、一番大切なところに、そっと植えておきましょう。忘れずにおきましょう。それが何の種かわかるまで、心の中に、おいておきましょう。そうすれば、いつかわかるときがくる。

魂の勉強は、そうしてやるものなのですよ。愛の響きすべてが、教えてくれるのですよ。

人間はみんな、愛の中にいるのです。

 


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できるからね

2008-07-30 08:49:20 | 有為のしらべ

スーパーの駐車場のすみに植えられていた、白いポーチュラカです。かわいいですね。

今朝も、少し近所を散歩して、写真を撮ってきました。アゲハを追いかけたんですが、息が切れて続かず、もっぱら動かない花の写真ばかりです。先日、ムクゲがあまりきれいに撮らせてくれないと書きましたら、少し思うところがあったのか、近所のムクゲの花が、とてもきれいな顔で撮らせてくれましたよ。まだカメラの中なのですけど、できあがったら紹介してみましょうか。

ここのところ、夕立が多いので、野原や藪がしっとりと濡れていました。露にぬれた竹藪に日が透けて、とてもきれいでした。蝉が鳴いている。子供が学校から持ち帰った朝顔が、たくさん咲いていたので、その写真も撮りました。

写真ばかりも何なので、少しは絵を描いて紹介したいと思うのですが、今は気力体力がそれにどうしても向かいません。もっぱらレース編みばかり。コットンの糸で編んだテーブルクロスがそろそろ出来上がりそうなので、出来上がったらお見せしたいです。

そろそろ通常に戻るかなあ。ここのところの、心の世界の嵐は、とても激しく吹き荒れていました。通常の域を超えるんじゃないかと思っていたんですが、心を本当の自分自身のかなめにずしりと置くと、どんな嵐にも自分が吹き飛ばされることはありません。いろいろな嵐が吹きましたが、冷静に見つめることができました。

いったいなぜそういうことになるのか。真実を常に見ようとすれば、必ず何かが見える。そして真実を見抜けば、嵐は無力化する。なぜなら激しい嵐は、ほとんどこけおどしだからです。

おや。いかにもそのとおり、と、ビーストが口をはさみましたよ。大人しくしているなと思ったら、すぐに出てくるのです。彼らはいつも、人の心に無断で住み着いて、いろんないやなことをしているそうですよ。人間は、いつもそんなビーストに騙されてきたんですけど、ほんとうの自分自身がどこにあるのかがわかったら、みんなビーストの正体に気づいて、だまされなくなりますよ。

あら、ほんとにそのとおり、と言いましたよ。ほらね。どんなに上手に化けても、もうわかる。

人間は大喜びです。だって、ほんとの自分は、いやなひとじゃなかったんですもの。いやなのは、ビーストだったんだもの。ほんとの自分は、ほんとにかわいくて、いろんなことをやれる、いい子だったのです。

不思議。それだけで、世界中が美しく変わります。

わたしは、いい子だったんだ。かわいかったんだ。それがわかるだけで。愛の響きが聞こえる。周り中に満ちている。世界中みなが、よかったね。わかったね。と言っている。そうだよ。人間はみんな、いい子なんだよ。やっとわかったね。

がんばろうね。すべてはこれからだよ。みんなが、愛してるからね。

絶対に、できるからね。



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二度と帰ることはない

2008-07-29 14:13:43 | 有為のしらべ

今日は、子供の学校の登校日でしたので、子供を学校に送って行くついでに、カメラをもってあちこちの写真を撮りました。これは、帰りによったスーパーで売っていた、ハイビスカスを撮ったものです。なんだかすごいでしょ。

接写の仕方が、ようやくわかってきました。どうやら少々かんちがいしてたみたいです。トリセツは読むべきですね。前のデジカメくんと同じような感じでやってたので、かなり変な間違いをしていました。カメラも大変です。

体調は相変わらずですが、少し軽くなってきたような感じもしています。でもやっぱり、写真が少し、去年までと比べると、重いですね。カメラのせいじゃなくて、写っている花が、少し苦しそうです。去年までは、がんばるなよ、という感じで、やさしく笑いかけてくれてたのに、今年の花は、がんばってもがんばっても、がんばらなきゃいけないね、という感じで、苦笑いをしてるみたいです。

でも、君だけじゃないからね。助けてあげるからね。そう言ってる。ずっと助けてくれている。

やらなくちゃいけないことは、たくさんあるんですが、本当に苦しい。つらいことにしてしまえば、できなくなってしまうので、すべてをすばらしいことにしてやっています。新しいことがたくさんおきて、それをすべてやらねばならない。それは、できることなのだけど、できないほうがおかしいのだけど、本当に苦しいのは、できないと決めつけて馬鹿になっているものが、あまりの苦しさに足を引っ張りにくること。それがね、時に、ほんとに、たまらないのです。

愚痴を言うのは好きではないのですが、この頃は、愚痴も言いたくなるほど、大変なことがあるのです。

それもまあ、いいでしょう。とにかく、やるべきことを、やるだけです。やるべきことをやるものは、苦しくはない。それが本当に正しいことだから。幸福は、自分が、正しいところにいるということ。もしくは、正しいところに、常に向かって進んでいるということ。わたしは、常にそれをやっている。だから、なんとかする。なんとかできる。

これで、あらゆることに立ち向かっていける。

やっていきましょう。とにかく。苦しいことはありますが、あらゆるものが助けてくれる。わたしには、愛の響きが聞こえるから。なぜそうなるのか。なぜそうするのかを、確かな声で導いてくれる風が、常にそばにいるから。

愛は常に助ける。なぜなら、真実の愛はそういうものだから。

何のために今が苦しいのか。それはそれが、もっとも幸福なことだからです。すべてはそれに向かって動いている。それが見える。すべてが歌っている。もはや、二度と元に帰ることはない。世界は変わった。

もはや二度と帰ることはない。



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せみ

2008-07-28 13:54:34 | 有為のしらべ

20倍ズームはいいですね♪ 遠くの蝉もこれだけ写る♪ 蝉はアップで写すと暑苦しいので、これくらいが涼しい感じでいいでしょうか。今も外に出ると、焼けつくような日差しの中、蝉の声が耳につまるほどの音響で鳴り響いています。

新しいデジカメ君になってから、虫がたくさん撮れるようになってきました。カメラの相性なんてあるのかな。前のデジカメ君では、容易に写せなかった虫が、写せるようになってきたのです。

前のデジカメ君は、ヒラタアブが好きでしたね。カメラをもって出かけると、いつもヒラタアブばかりに出会いました。おもしろいようにかわいく撮れるので、うれしくて何枚も撮りました。パソコンの故障で、ブログにあげたもの以外はみんななくなっちゃいましたけど。

今度のデジカメ君は、ショウリョウバッタが好きなようです。青くて細みの、涼しげな若者という風情で写ります。前に一回UPしましたけど、また何枚か撮って、おもしろいのができたら紹介してみます。

あと、前はツマグロヒョウモンばかり撮っていましたが、最近ではなぜか、ミスジチョウとよく出会うようになりました。ほんとに不思議。カメラが変わるだけで、ほかのこともなんとなく変わってきます。もうちょっとおもしろいものを撮ってみて、今度のパートナーの性格をつかんでみなくては。

車で走っていると、街に咲いている花ばかり見てしまいます。どこそこのトランペットが咲き誇っているとか、あっちの空き地でセリが満開だとか。依然、ひきこもり生活が続いているので、撮影のスポットは何年間もほとんど変わりません。そのせいか、その場所の花とは、ほんとうに深い知り合いになってしまいました。写真を見てもわかるでしょうが、まるで他人じゃないという感じに写るでしょう。いつも知ってる人だ、という感じで写るでしょう。みんな、わたしのことを、知ってるからですよ。長いこと長いこと、花や木に話しかけながら、写真を撮っていると、花や木が深く愛してくれるようになったのです。いつもよく写すセンダンの木は、最近では、まるで親のような顔でわたしを見てくれるようになりましたよ。やさしくて、なんでもしてくれて、ほっとするおとうさんのような木です。

ツユクサも、いつもの場所の花は、ほんとに美しい顔で写ってくれます。深く愛してくれてるってことが、わかるんです。わたしのことを、ずっと知ってるから。だから、たまに、めったにいかないところで同じツユクサを写すと、少しかたい表情で写ります。知らない人間だからです。

花も、知っている人間と知らない人間では、表情がちがうんですよ。

だからね、人はね、これが好きという木や花に出会ったら、ずっと、愛してみることですよ。長いこと長いこと、つきあってみることです。世話をするとかじゃなくて、気持をうちあけにいったり、何かを尋ねに行ったり。ずっとずっと、話しかけてみることです。そうするといつしか、深い情愛が生まれてきます。不思議な、愛の響きが、生まれてくるんですよ。

木は、特別に思いを寄せてくれる人間のことは、いつも気にしています。そしてその人がつらいとき、ふっと、見えないところで助けてくれたりするんですよ。愛してくれたから、愛で応えてくれるのです。

愛するのは簡単。好きだと思ったら、その木の下にいって、素直になってみることです。愛の響きが、いつしか聞こえるようになる。愛してるよって、いってみてください。心の中でつぶやくだけでいいから。

素直になるのが、ほんとうに難しいから。人はいつも、何もかもに傲慢になってしまうのだけど。弱くなっていいよと、自分にささやいて。特別な木の下で、自分の一番痛いことばを、ささやいてみましょう。それが、愛の響きの入口ですよ。






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ダイアナ

2008-07-26 09:38:12 | 有為のしらべ

今日も2本更新です。体はあまり動きませんが、頭の中を嵐のように、発想が吹き荒れている。毎日毎日、それを捕まえるのが大変です。

大漁につぐ大漁なのですが、さてそれを表現するのがこれまた大変だ。でも、とにかくがんばります。さてさて。

今度の画像は、ハマボウです。先ほどのヘクソカズラと同じく、昨日お山で撮ってきました。美しいでしょう。なんだか、はっとするほどきれいな人に出会ったような、そんな気がするでしょう。

あまりにきれいなので、ぽかんとして見とれてしまいそうな。人間だったら、こんな美人がいるのかと、ぶしつけを承知でずっと見つめてしまいそうな。すばらしい美人。めったにいません。

タイトルはもちろん、世紀の美女、ダイアナから頂きました。彼女は本当に美しかったですね。結婚式のときの姿など、まるで夢のように美しかった。ほんとうに、薔薇のようでした。あの姿だけは、一生忘れられそうもありません。

その美しさゆえに、たくさんの人の嫉妬を浴びて、その人生は苦しいものとなってしまいましたが、今でもわたしは、彼女が最高の美人だと思っています。彼女がいたなら、きっとイギリスは、ほんとうに美しい国になったことでしょう。

なぜなら、真実美しい人は、人々の魂を、美しい行動にかきたてるからです。本当の美は、周囲の人に、美しいことをさせてしまう。あまりの美しさゆえに、彼女のために、すべてをやってしまう。本当にそうなってしまうのです。美とは、あまりに強い力だからです。

ハマボウは、このように、本当に美しい花ですが、普段はうつむき加減で、花びらを硬めに巻き込んで、それほど美しさを強調しません。目立たないようにしています。それは、彼女が、美しさが、力だと知っているからです。普段から美しさを強調しては、皆が苦しむから、抑えている。それが美しさというものだと、ハマボウはしっかり知っている。

どんなに美しくても、その美しさを強調しすぎて、いつも出しっぱなしにしている美女は、美しくないのです。だって、醜いことのために、その美しさを使おうとしているのですから、それはそれは、美しいがゆえに、醜いのです。

ですから、本当の美女は、その美しさを、発揮すべき時以外には決して発揮することがありません。その美しさが必要なときだけに、もっとも美しい姿を、人々のために見せてくれるのです。そして人々の魂を美しい行動へと導く。美しい愛のために、人々はたくさんのことをしていく。そして彼女のいる世界は、美しいことをする人でいっぱいになり、ほんとうに美しくなっていく。

その美しさの真実を、この世界で表現するために、彼女は自らはあまり行動せず、じっとして、その美のために、あらゆる忍耐をします。美しい人は、美しくないことをしてはなりません。だからこそ、普段は美しさを控えめにし、学びを怠らず、目立たないところで大事なことをするようにするのです。

彼女を、「陰の美女」といいます。美しいがゆえに、その真実の自分を発揮することを抑え、自らの存在を、すべての人に与えるべく、ただそこにいる。

美しい人がいる。それだけで、幸せだという人がいるでしょう。その幸せを与えるためには、美女は美を裏切ってはならないのです。そのために、とにかくたくさんのことに耐えなければならない。

難しい仕事なのですよ。

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