子曰く、やんぬるかな、われいまだよくその過ちを見て、内に自ら訟むる者を見ず。(公冶長)
先生はおっしゃった。なげかわしいことだ。わたしはいまだに、自らの過ちを見て、それが自分の責任だと考えるものを見たことがない。
人間は、失敗をするものです。生きとし生けるものの中で、まったく失敗をしないものなど存在しない。失敗をしないように見えているものは、ただ、失敗を失敗と認めて改め、そこを改善して次をやっていくから、結局は失敗しないというだけなのです。
ああ、失敗してしまった。おれはつまらんやつだと、そこですべてをやめてしまえば、それは失敗になって終わる。それは本当に愚かなことだ。その失敗を見つめていけば、苦しいことがわかる。自分のしらなかった真実が、そこに隠れている。そこを見つければ、すばらしいことができるようになるんだ。
だから、本当にすばらしい人ほど、よく失敗をしています。苦しいほどこっけいな失敗もします。あたーっ、やっちゃったよ。おれはこれだからな、なんてことを、たくさんやっています。けれどそれでは終わらない。失敗したのは、ここが悪かったのだから、今度はこうしてみようと、改め変えて、もう一度やってみる。すると、前回よりはよい結果が出てくる。そこを元に、今度はもっと違う試みをしてみる。そうして、人は、かなりすごいことができるようになるのです。
だから、失敗をそのまま失敗にして放っておくのは、とても愚かなことなのです。
しかし多くの人は、失敗をしてしまったということ自体が苦しく、それは自分が愚かな阿呆だからだと思い込んでしまい、自分を信じなくなり、何もしなくなってしまう。それですべてが苦しくなってしまうのです。
聖徳太子だとか、諸葛孔明だとか、後世の人にまったく完璧な人である、欠点など何もないと伝えられている人がいますが、それはほとんどが嘘だと言っていいでしょう。失敗をしない人間など存在しないのですから。これらの理想的君子は、失敗をしてしまった人間が、完璧になりたい、そうすれば自分の失敗で苦しまなくてすむという理由で作り出してしまった、幻だといえます。本当に本当の自分という真実の場所からたってみてみれば、これらの理想的君子は苦しい嘘だとわかってしまう。あるわけがない嘘をついているからです。
孔子ですら失敗をしています。そして孔子は、常に改善すべく、死ぬまで行動している。改め変え、改め変え、常によきものを目指して、何かをやり続けている。それが人間としての本当の姿でしょう。
不完全だからこそ、人は行動する。やり続ける。完璧なものには、もう何もする必要がない。努力する必要もない。それは虚無以外の何者でもない。
わたしたちは、常に不完全だからこそ、常に創造を続ける。失敗をし続ける。そういうものです。