陳にありて糧を絶つ。従者病みて、よく興つことなし。子路慍って見えて曰く、「君子もまた窮することあるか」。子曰く、「君子もとより窮す。小人窮すればここに濫す」。(衛霊公)
旅にあった孔子の一行は、陳にあったとき暴徒に取り囲まれるという難にあった。食料が尽きて、倒れる従者が続出した。そのとき、弟子の子路が、怒って孔子に詰め寄った。「君子でも窮することがありますか!」孔子は答えた。「わたしはもとから窮している。だが小人は窮すると乱れる」。
孔子の生涯の仕事は、仁の教えを広めることにありました。徳にもとづいてよい政治を行い、人々を幸せに導くということが眼目にあった。彼の行動は、いつもそこを中心に動いていた。
しかし時代は、常に激しい逆風の連続でした。彼の能力を恐れ、嫉妬し、迫害するものが絶えなかった。どんなに能力を示しても、国の為政者は彼の助言を入れることがなかった。それではと国をすて、自分の意見を受け入れてくれる国を探して諸国を放浪した。それでも、結果は絶望的だった。いつでも、彼は、窮していた。
最後には、夢を後生にたくすべく、教育者として残る力を燃やし尽くすことにきめ、故郷に帰った。
彼の人生は失敗の連続、絶望の連続でした。常に窮していた。何をやっても、だめだった。それでも、彼はあきらめなかった。ひとつのことが終わっても、また次の手を考えた。たとえ絶望的でも、だめになるとわかっていても、行動することをやめなかった。
絶望的な壁の前に、君子は乱れることはない。まずここで、何をするべきかを考える。暴徒に取り囲まれ、なすすべもない。ここにおいて、大切なのは、自分を見失わないことだ。忍耐しなければならない。忍耐のためにどうするべきか。考える。おのれをつかうのだ。常に、自分自身で考えていれば、自分を見失うことはない。そして、この難も、いつまでも続くわけではない。必ず、突破口がある。そこが見つかるまで待つのだ。
小人は、難の前に自分を見失い、すべてを壊してしまう。だが君子は、常に、この状況で何をすれば、最善の状況に導けるかを考える。その最善の方法が忍耐であるのなら、忍耐する。完全に忍耐する。たとえそれがどんなに長い年月であろうと。君子は耐えるだろう。
今が苦しいのなら、阿呆のように乱れて、自分を見失ってはいけない。自分で考えるのだ。何をするべきなのかを。たとえそれが、ただ考えるということだけでも、自分自身を使っていれば、苦しいことは、少なくなる。かけらでも希望が見つかれば、それをつかみ、行動することだ。それがどんなにちっぽけなことでも、やってみることだ。
まず。自分を動かすことだ。