昨日撮ってきたばかりの、さざんかです。幼稚園の前庭の片隅に、とてもきれいなさざんかの木があるんですよ。小さな木なのですけど、ほかのとすこし違うのです。花の形や、色が、美しく整ってきて、清らかになっている感じです。さざんかの花が、少しべんきょうして、心がえらくなって、さざんかじゃなくなってきたような、花です。
もちろん、さざんかはみなきれいですけれど、とりわけ美しい、と感じるそんな花を見かけると、はっとしますね。見ほれてしまいます。
デジカメくんも、息を吹き返してきたようだ。
今年は、さざんかがことのほか見事です。どの木も、これでもかというほど、美しく咲いている。わたしは、さざんかに、多く、助けられています。
いろいろなことがあって、身も心も擦り減って、なくなってしまうのじゃないかってくらい、弱っているとき、目の覚めるように赤いさざんかに会うと、はっとして、生き返るような気がするのです。
ああ、助けてくれている。まるでさざんかは、弱りすぎている今のわたしのために、あんなにまで赤くあざやかに、咲いてくれているかのようだ。
このように、美しさは、大きなエネルギーなのです。生きる力を与えてくれる。ほんとうに、大切なものを与えてくれる。だから、美しいものが、美しくあることは、とても大切なこと。自分も、人も、大切にしなければいけない。
その大きなエネルギーを、いやなことに使ってはいけないんですよ。それをすれば、大変なことになる。美しいものが、いやなことをすれば、人はみな、一番大切なことを、信じなくなるからです。愛を、ばかにしてしまうからです。
美しさは、愛なのです。だから、きれいな人は、きれいではないことは、してはいけないのです。
この世界にあるものは、本来はみな美しいのです。みな、愛だからです。その本来の意味を、人々は誤解し、無意味の泥を塗って、侮辱し続けてきたのです。だから人々は、ずっと苦しかった。自分たちだけが、人類だけが、美しくないと思ってきたからです。
だが人類は美しい。自分自身であるもの、愛であるものはみな美しい。そして人類はこれから、自らの美しさがどういうものであるかを、学び、つくり続けていくことでしょう。
すべてはこれからです。