冉求曰く、「子の道を説ばざるにあらず、力足らざるなり」。子曰く、「力足らざる者は、中道にて廃す。今なんじは画れり」。
(ぜんきゅういわく、しのみちをよろこばざるにあらず、ちからたらざるなり。しいわく、ちからたらざるものは、ちゅうどうにてはいす。いまなんじはかぎれり。)
冉求がいった。「先生の教えが、おもしろくないわけではないんです。ただ、わたしはまだ、力が足りないんです。」先生はおっしゃった。「力の足らぬ者は、やっている途中で倒れる。今おまえは、自分はバカだからだめだと、いったのだ。」
勉強の途中で、やるのがいやになってしまうとき、よく人が言い訳に使うことばの一つが、これですね。「わたしはまだ、力が足らないから」。たぶん、冉求もそうだったんでしょう。孔子のくそまじめでまっすぐな教えが、ちょっといやになったのです。若い頃は、ばかみたいなこともしたいと、思うものですから。先生のように立派な人になりたいと思う反面、いやになってきて、おれはバカだからだめだと、全部放り投げてしまいたくなる。
実質、あまりに硬くてくそまじめだと、人間ときどき、苦しくなってきます。自分が本当に辛くなってくる。自分はときどき、いやなこともしてしまうから。ばかなこともしてしまうから。あまりにまっすぐに、美しく生きることは、人間にとって、とても難しい。だから反発もしたくなる。
どうせ俺にはできませんから。先生みたいになるのなんて、無理ですから。自分は、こんな自分が、ほんとうにいやになってくるんです。どうやっても、できない。先生みたいに、できないんですよ。
冉求に限らず、孔子の周りにいる弟子たちの心の中に、こんな苦しみは常にうごめいていたでしょう。自分が小さいなんて、思いたくないから、常になんとかいいことをして、精一杯、いい自分でいようとする。でも心の中にある、この情けないおれの愚痴っぽい心を、どうすればいいだろう。
酒でも飲むしかないのか。
弱い心は、辛さ、苦しさ、悲哀などの、薄暗い感情に酔いやすい。酒のような麻痺感覚の中に、自分を沈め、冷めたニヒリズムの中に逃げようとする。どうせみんなバカだから、おれたちはみんな、くだらんものだから。もういやになってくるよ。
そうなってしまえば、人はもう学ぼうとせず、愚かなことばかりするようになります。人間なんてどうせ阿呆なものだからと、バカなことばかりやって、自分をなんとかしようとする。バカの王様になれば、なんとかなるだろうと、いいかげんなことばかりやるようになる。そしてこの世に苦しみがあふれ、いやなことばかりが起こるようになる。
それを防ぐためには、ただ学び、励むしかないのです。正しい答えは、常にもっとも簡単で当たり前なところにある。勉強しなさい。力が足りないんではない、やらないだけだ。おまえは自分をバカだといって、勉強をやめたいって言ってるんだよ。
自分に限らず、すべての存在は常に未熟で未完成なものです。絶対に完成することはない。孔子も、生涯学んでいる。彼の一番誇りとすることは、えらい先生であることでも、立派な政治家であったことでもなく、ほんとうに自分は勉強好きだということでした。
君はバカなんではない。バカだと決め付けて、やらないだけだ。やらないから、成長しない。そして自分がどんどんバカになるような気がしてきて、一層苦しくなる。バカなんだよおれはって、一層激しくバカをやるようになる。苦しいぞ、それは。常に、いやらしいことをする阿呆が、自分といっしょにいるんだ。
勉強は、難しいのではない。やれるところからやればいいだけだ。力がないわけではない。あるものでやればいいだけだ。やってみなさい。とにかく、やってみなさい。
それだけで、おまえのバカは、すっかり直るよ。
自分をバカだと決め付けるな。とにかく励みなさい。孔子の正しすぎることばは、人間にとって常に苦しい。だけど、ほんとうはそれ以外にないことを、みんな知っている。
勉強は、ほんとうに、したほうがいいですよ。